2013-01-01から1年間の記事一覧
「玉子丼ひとつお願いします!」 通る低めの声が厨房に響き渡る。いつもの光景だった。 何も変わらない時間が、紫詠さんのお店でゆったりと流れていた。 「…私たちも、お昼にしよっか」ぴのすけが何も変わらない笑顔で僕にそう持ちかけた。あの事件から百余…
春にも似た柔らかい日差しの中で。 僕は大鍋をゆっくりとかきまぜていた。「…ぴのすけ、怪我しないでよ」 少女は緩い風に腰マントをたなびかせ、笑顔で頷く。 その手に握られた包丁が、トン、トンと小気味良い音を立てていた。広場に人が徐々に集まりだして…
歩いている実感は無かった。 それどころか、立っている地面さえもないような気がして。ただ目の前が白かった。 ひたすら、だだっ広い白だった。帰路を僕とぴのすけと紫詠さんの三人で歩いていると、 引きずりこまれるようにこの世界にきていた。この場所の正…
先の見えない林道の暗闇の中で、手探りで彼女の手を捜す。 水の激しく流れる音が遠くでした。 …川の水が戻ったのだ。 沙代ちゃんの身体は、水で出来ていたのだ。 彼女が未練を晴らしたところ、あの雪もどきが全て水に戻った。村は、水不足から救われた。 明…
深闇の中で、ひとり。 同行者の一瞬の死に動揺している暇なんて無かった。ゆっくりと、その刀を持った長身の女の影は近寄ってくる。模様はおろか、視界を確保するための節穴一つ空いていない 異様な白無地の仮面に、底知れぬ不気味さも感じていた。僕の足は…
松明を片手に、僕と壮年の男、セザは暗い林を突き進んでいた。 手元の亡とした明かりは、よりその不気味さを加速させる。 「行くあてはあるのですか。」僕は男の大きな背中に問いかける。 男は振り向くと、小さくうなずいた。僕はセザという男を信用したわけ…
「…おはよう、起きて。」眠たい目を擦ると、ぼんやり見えていた黒い点々。 小さくため息をついて、身体を起こす。彼女の手に握られている大きな二つの桶。 それをひとつ取って、ぴのすけの背後に遠い視線をやる。 「申し訳ありませんね…」 「いんです。居候…
ぴのすけの顔に、もやがかかっていた。 ずっとだ。あれから、ずっと。あの雪はなんなのだろうか。自分なりに考えた。 考えに考え抜いた。 これは雪じゃあない。 どんなに考えても、それしかわからない。 食後、ぴのすけと一緒に彼の部屋を尋ねる事にした。 …
さほど登っていないはずだった。 道は険しくなかったはずだった。しかし、地面の色は一面に照り返しを強めていた。 川の上流は、神秘的な雪の世界だった。 この小さな山の頂は、こんな様相になっているとはつゆ知らず。「こんなことになってるんだ…」 ふと、…
浅く斑に積もる雪の上に、二人。 殺気を滾らせる少女と、瞳の光を表情ごと消してたたずむ少女。事の顛末はすぐに想像できた。 …身体が動かない。 二人の間に、割って入らねばならないのに。 強張ったように動かない。「どうして、こんなことをしたの」 俯い…
水源の生命線とも言える川が、枯れた。溜池の水は、一週間分。 そんな気味の悪い出来事が、この小さな村で起こっていた。「…おかしい。」 「何が?」紫詠さんの家を出て、しばらく。 あの川へ向かう道中の半分も来ぬままに呟く。 横の少女は、首をかしげた。…
ある日照りが眩しい、冬の終わりの出来事。「…なに…これ。」僕と紫詠さんは釣竿と魚籠を手に、その場に立ち尽くしていた。 二人で唖然として、そのはるかに広がる変わり果てた川を見た。 辺りに漂う腐臭から、鼻を守る気にもなれなかった。 どういった訳か川…
「えー皆よく集まってくれた!恒例の酒宴を始めようではないか!」村の広場。 大きな木の机に、沢山の豪華な料理。 それを囲むようにして、それぞれが座る。 広場全体に五つほどの机。一つの机には20人ほどがいた。 村長さんの管楽器のような野太い声で、酒…
「いらっしゃいませーっ!!」はつらつとした高い声が、小さなお店の中にこだまする。 その蕩けるような甘い音が、胸の奥を掻きたてる。この声は、僕に向けられているんじゃない。 そう思うたびに、僕の中の 「なーにぼっとしてんの。具合悪いの?」厨房で考…
頭上の揺れた明かりが、四人を照らしていた。 少女の小さな白い手を握りこんだまま、僕は強張った表情で彼女を見つめる。心臓の早鐘が、部屋全体に響きわたりそうにせわしない鼓動を繰り返していた。人食いの妖怪、僕の友達に僕は勝手なお願いをした。 お願…
広めの和室、後ろではひとりの少女が、寝ていた。 僕の傍には、強張った面持ちの紫詠さんと、 ほとんど表情を穏やかにしている昨狐さん。かつて生きていた少女が、使っていた部屋だった。「…沢山の、嘘をついていました。」温かい明かりの下。 真っ暗な表情…
地面に散らばった光苔が放つ淡い光が、辺りを包んでいた。ふりしきる凍てつく雨の中、上がる荒い息。 上下する右肩には、鋭い痛みと血潮の鼓動。裏腹に身体の芯は燃えるように熱かった。守りぬけた。 命を散らしかけた大切な、仲間を。 それだけで、もう全て…
崖の岩に寄りかかって、ぼんやりと身体を投げ出したまま どれくらいの時間が既にたっていたのだろう。乾いた涙跡が、僕の頬を冷たく固めていた。 冷え込んだ空気は既に僕の喉を凍りつかせて、 掠れたあの音すら出す事を許さなかった。僕の周りの雪は、陽光が…
洞窟の中は、いつもよりも寒かった。 気分の問題もあるけど、物理的にも。珍しく朝からぴのすけの姿がなかった。 まだ朝といっても、太陽が昇る前。こんな時間には寝てるはずなんだけどな… 夜型に近い生活をしているから未だに食料を取りに行っているのかも…
「…最近随分沢山持ってくるようになったねー。」お昼すぎの薄明るい洞窟で。 僕が袋を下ろすのを見て、驚くように首をかしげる少女の姿がそこにあった。袋の中に詰まった野菜やら肉やらを見つめる無垢な瞳に、疑念はこもっていない。 ただただ純粋に、僕に感…
(起きて、起きてよ。)かすかに響く小さな声が、胸を震わせる。 薄く目を開けると、薄明かりの苔に照らされる洞窟が目に入る。たった、一人だった。「…そな?」確かに、そなの声だった。 周りに誰もいないからではない。そなの声のような気がしたのだ。 こ…
お世話になった人里の青年、紫詠さんに、 僕が泥棒をしているところを見られた。蛇に睨まれたようにその場から逃げだせもせずに、 僕の脚は地面に固定されていた。青年の瞳には疑惑は含まれていなかった。 僕を地面に強かに留めているのは罪悪感と、良心の呵…
刺すような日差しが、僕たちを照らす。 冷え切った眼差しは、土まみれの少女だけに注がれていた。 貫くような嫌な気配に、向けられていない僕まで凍りつくようだった。 「獲物…か。弱者ほど手段は選ばないものだが… さすがに土に生き埋めすることはないと思…
「おはよおー、もうお腹平気ー?」重い目蓋を上げると、視界には木の棒に刺さった焼き魚。 良い匂いが、鼻をつんと突いた。「…うん、平気。」僕はその棒を受け取ると、その魚のお腹にかぶりつく。 噛んで、思い切り呑み込むと芳醇な魚の香りと歯ごたえと。そ…
小さな小さな足音が、僕の目をはっきりとこじ開ける。 寝ぼけた意識を一瞬で吹き飛ばす、些細な足音。「人里にいくの。」 身体を起こして、深淵の洞窟の出口に向かって言う。「ヒカリも行くー?」ぴのすけの、楽しい狩りの時間だった。 もちろん僕は楽しくな…
僕は青年、紫詠さんの家にお邪魔している。 見る限りの質素な和室に、存在感を放つザル。目の前の芳醇な香りを立てる蕎麦。 それを見る自分の目が、あまりにもぎらついていたのだろう。「どうしました、食べていいですよ?」少しだけ呆れながら僕は自分の食…
今日も、朝が来た。 硬い岩肌から身体を起こすと、背中がひりひりした。あの日から、三日が経った。「おはよっ、ヒカリ!」そして目の前には少し返り血を浴びた少女ぴのすけ。 朝から、とても心臓に悪いものを見てしまった。この子、ほとんど笑わない。 とい…
暗い林道、ぴのすけの色白の右手にほんのりと薄い明かりが集まる。僕は彼女、ぴのすけに手をひかれ、虫の鳴く道を歩く。 空気がじめっとしていて、少し蒸し暑い。僕たちは、今食料を採りに行っている。 僕は、僕と架空の友達の名前以外の全ての記憶を失った…
身体が、何だかまとわりつくように重くて。空気が、まるで自分と一体化しているように、 身体の奥底に、透明になって染み込んでいるようだった。ここは、一体どこなんだろう。 目を開けて上を見上げると、ゆらゆら揺れている薄い青い光芒。心なしか、息が苦…
一面の神秘的な、無色で敷き詰めた清らかな世界が、 ひたすら僕の時間を奪っていった。「なんだよ、この大雪は・・・。」足に掴みかかる雪に絶望感さえ感じる。 ただでさえ遅刻気味なのに、これじゃ本格的に遅刻してしまう。朝一番で、卒業式の全校予行演習…