東方幻想明日紀 二十八話 幼き妖幻、拙き証言

歩いている実感は無かった。
それどころか、立っている地面さえもないような気がして。

ただ目の前が白かった。
ひたすら、だだっ広い白だった。

帰路を僕とぴのすけと紫詠さんの三人で歩いていると、
引きずりこまれるようにこの世界にきていた。

この場所の正体を考える気がしなかった。

ああこれは夢なんだと、漠然とそう感じた。

きっと糸が切れたように、現実から断ち切れてしまったのだろう。
不思議とそう割り切れてしまう自分がいた。

すっと、足元に小さな影が寄った。

「…?」
緑色の毛をした子猫が足元に座っていた。
夢かそれとも幻か。

どこかで見たようなその猫は、
思い出したように立ち上がって、走り出した。

「…!?」
思い出そうとすると、頭が締め付けられるような痛みを覚えた。
考えるのをやめて、僕はその猫を追いかけた。

走れども走れども、白い世界は変わる様子を見せない。
世界が芸術家の絵だとしたら、ここは真っ白なキャンバスだった。
空も地面も分からない。
僕はただ空を足動かしもがいているだけなのかもしれない。


…そんな疑念は、晴れた。
ぽつりと遠くに見えた胡麻みたいに小さな影。
猫を追いかけるほどに、だんだん大きくなっていく。

大きくなった影は横たわっていた少女らしかった。

確かな寝姿がそこにあった。

紫がかった黒い着物。
二股に分かれた髪飾り。
深い緑色の髪。

大きな枯れた花を抱きかかえて、目を硬く閉じていた。
あの溜池での少女だった。見紛うはずがない。

その緑色の猫は立ち止まった。
比べてみると、猫の毛色は少女の髪に比べたら浅い色だった。

少女が深緑ならば、猫は青緑に近い色だった。

猫はおもむろに何かの念を送った。
というより、そうとしか見えなかった。
全身の毛を逆立てて立ち上がり、天を仰いで雨乞いみたいにしているのだから。
お前は本当に猫かと。

不意に、目の前の少女が急に覚醒して身体をいきなり起こした。
腰抜けるかと思った。
その少女はこちらを見ると、露骨に嫌そうな顔をした。
ちょっと悲しくなった。

僕はどうしてこの子にこんなに嫌われているんだろう。
嫌われるような事は何もしていないはずなのに。

肩を落としていると、猫は少女に近寄った。
少女は何かを閃いたように、枯れた花を置いて立ち上がってこちらに向かった。

そして、僕の前で立ち止まると紫色の深い目をこちらに向ける。
「……あの亡霊は……成仏できた?」

重い口からの第一声。
僕は、自信満々に頷いた。

「……あなたは私を、疑っていた。…謝るべき」
次の瞬間、度肝を抜かれた。
胸に金串を突きとおされた気分だった。

考えてみればそうだった。
途端、申し訳ない気分になった。
彼女が僕を嫌う理由も、はっきりとした。
この子…心が読めるのか?

「疑ってた。本当にごめんなさい」
誠心誠意、気持ちが悪くなるほど強く頭を下げた。

「…誠意が足りない。」
どうせいと。
そうか、土下座を…んなもんできるか。
じゃあ今度は、もっとはっきりと声を…

「本当に申し訳ありませんでッ!!」
「うるさい…」
何これ、いじめ?

横の猫は腹ばいで短い前足でお腹を抱えながらもう片方の足で空を叩いていた。
絶対お前は猫じゃない。僕が認めない。
またたびをあげてもふんぞり返って後ろ足で蹴りそうだ。

僕は少女に向き直る。
「じゃあ、どうすればいい?」
その言葉を投げると、少女の焦点は一瞬だけふらついた。

そして、僕からおもむろに離れた。
僕を見ていた侮りの色の瞳は、すっかりと萎縮し怯えきった瞳になっていた。
わけがわからなかった。

今の質問の何がよくなかったのだろう。
首をかしげていると、猫はあやすように少女に近づく。

少女はため息をついて、また僕に近づいた。
そして、やぼったい口を動かす。
「………私に質問しないで……。
 ……あたま…まっしろになっちゃうよ……」

「そっか」

なるほど、そういうことだったのか。
そういえば、思い当たる節があった。

あの溜池で、紫詠さんが彼女に質問を投げた時、
反応がないのを見てすぐに言い切りの形で言い直していた。
彼はどこまで頭が切れるんだ…

何か、トラウマでもあるのかもしれない。
そこは僕の知るところじゃない。
彼女とどこまでの付き合いになるのか皆目わからないが、今は覚えておこう。

「…ごめん、名前を教えてほしい。
 もしかしたらこれからも会うかもしれない。」
途端に少女は、むくれた。
「……前言った。勝手に思い出して。」

うっ。以前に名前を言われたっけ…
また会うなんて思いもしなかったから覚えていなかった。

「……で、本題。」
「本題?」

僕から彼女に別段の用はない。
ここに勝手に連れてこられただけだ。
だが、口ぶりから彼女が呼んだ訳ではなさそうだった。

あの猫が、何かを少女に吹きこんだとしか思えない。
…見回すと、既に猫は姿を消していた。

少女に向き直る。
紫色の瞳の濁りが、消えた。

「……あの女の子は私が実体化させた。」
「僕の謝罪を返してくれると嬉しいんだけど。」
というか時間。摩耗した精神。もう全部返せ。

「………成仏できずに困っていた魂があった。
 ……あなたに、一目会いたい、それが未練……」
「僕に?」

沙代ちゃんは、僕に…

そうか。
あまりにも唐突だったんだ。
彼女の事だ。よもや僕のせいだとは思う訳がないだろう。
それが、逆に辛かった。
僕は彼女に恨まれているとばかり思っていた。

…ただ、真実を知ったところで、彼女は笑って許しただろう。
いや、何らかの形で彼女は知っていた。
彼女は、彼女なりの答えを見つけて、満足したんだ。

僕も、そうだったはずだ。

「…私は叶えようとした。力になりたかった……
 それには…『想い』の塊が必要だった。」
紡ぐように、淀みなく少女は言葉を続けた。

「だから、あの花をぴのすけから取ったと」
「……そう」
湧き上がるような憤りと、疑問を覚えた。

「彼女はあんなに人を殺さなければならなかった。おかしいだろ」
「……何の事……?」
僕が詰め寄っても、彼女は涼しい顔をしていた。
ただ首をかしげて、何も知らないようだった。
これは演技なんかじゃ無い。

「彼女はたくさんの人を殺した。調査にきた働き盛りの男を、十何人も」
「……嘘……でしょ…」

小刻みに震える唇は、正直だった。
僕が首を横に振ると、小さな肩はがっくりと落ちた。

何が悪いのかなんて、僕にはわからない。
彼女のしたことが正しいのかも、間違っているのかも。
直接の原因なのかも、何も詳しい事はわからない。

考えても、無駄だった。

でも。

「…助けてあげたかったんだよね。」
「……!!」

緑色の柔らかい髪に覆われた頭が、こくこくと上下に動いた。
ああ、やっと思い出した。
「ヰ哉…彼我ちゃん!」
「……馴れ馴れしい。」

彼女に、悪意はない。
もっと別の何かが…

そこまで考えた瞬間、意識が混濁した。
視界がひし形に歪んで、楕円になって、真っ暗になった。



身体をゆっくりと起こすと、いつもの部屋だった。
ぴのすけと紫詠さんが思い思いの形の顔を浮かべる。

零れそうな笑顔。憂慮。
どうやら、短い夢を見ていたようだ。

向こうからは、昨狐さんが料理を作る水音がしていた。





夕飯を食べ終えて、さて寝るかという時間になるところだった。
紫詠さんがふと、手帳のようなものを懐から取り出した。
「それは?」
青年は、眼鏡を中指で軽く上げた。
「村長の手記です」
「!?どうやって手に入れたんですか?」

「ああ、前々から怪しい動きが目立っていたのでこっそりとですね…」
やはり、この人は切れ者だった。
むしろどうして犠牲者が出るまでどうにかできなかったのだろうか。

「見せてください!」
「駄目です」
あっさりと跳ねのけられて、脱力した。
気になるが、こればかりは仕方のな…
「明日、村の皆を集めてこれを皆の前で読み上げます」

自分の瞳孔が開いていくのがわかった。
この手帳には、僕の知らない何かが詰まっている。
知りたかった、知り得ない何かが、すべて。


僕は小躍りした。


つづけ