ねずみとヒトの恩返し 後編

幼馴染に謝辞と謝罪をしようとしたら、
つんのめって好意の告白をしてしまった。

僕の金で買った彼女のてんぷらを食べる手が止まるほど、
それは彼女にとって衝撃的だったらしい。
身動きが取れなかった。
心にもない事を言ってしまったわけじゃない。
頭の中が真っ白になっていて、取り乱すこともできなかった。

少し冷静ならば撤回しようとしていたかもしれない。
それこそ、自分の首を絞めることになるから結果的にはよかった。

ただ、この沈黙はなんともいたたまれない。

彼女の細い眉が、すっと緩んで、表情が柔らかくなる。
「失言癖は、変わっていないんだな」
まるで、飴を落とした稚児を諭すような口調だった。

その場から逃げ出せるなら、そうしている。
…順序を間違えただけだ。
もっと先に言うべきことが僕にはある。

「でも、今言う言葉じゃない」

ん、と彼女は小さく鼻をつままれたような声を出した。

そして、急にああと思い出したような声を出して、尻尾をまさぐる。
大きめの懐紙にくるまれた何かを、僕の神妙な表情とは裏腹に、笑顔で。

少し首をかしげて、懐紙を受け取って、開く。
形のいい黒胡麻の団子だった。

僕が最初にあの痩せた鼠に渡したのも、黒胡麻の団子だった。
あれから、僕の生活が変わった。

良し悪しを言うつもりはない。良し悪しは本来、最後までわからない。
こうして彼女の買ってきてくれた団子を食べることができるのだから。

団子を口に含んで、前歯を落として。

「ばっ…!!」
血相を変えたナズーリンが椅子を蹴飛ばして、僕に覆いかぶさって。

そこで、記憶は途切れた。



気が付くと、知らない和室にいた。
横には、正座している少女がいて。
その少女は命蓮寺だ、とぶっきらぼうに言った。
「効かなかったら、どうしようかと思っていたところだ」
安堵した声に振り向くと、少女は丸耳を萎れさせて、酷く疲れた顔をしていた。
「念の為、解毒薬を貰っておいてよかった。
 まさか君がこんなに肝が据わっているとは思わなくてな」

さすがに、僕もそこまで愚鈍なつもりではない。
試していたんだ。僕にあの毒団子を出して。

「気づかなかった…のか?」
信じられないような目をしていたから、恐々首を縦に振る。
すると、これでもかというほど肩を落として深く嘆息した。
「私を、鼠を見くびっていたのか」
詰問の調子だ。思わず、顔を退きたくなった。
「なぜ私が君の団子を使って揺さぶりをかけたか考えなかったのか」
僕がまだ疑問符を浮かべているのに見かねたのか、早口だった。
どうして僕が鼠を侮っていることになるのか、見当がつかない。

らしくない、言っていることが支離滅裂だった。
考えなかったものは考えなかった。それに理由を求めるなんて。
「わからない」
彼女はそれを言うと、我に返ったように息を吸い込む。
「でももし僕の薬だとわかっても、僕の薬だと思わなかったと思う」
自己暗示をかけて、隠蔽したはずだ。彼女が差し出した団子だから。

目の前の少女は、すっかり押し黙ってしまった。

「実は、あの時謝りたいことはそれだったんだ」
「…それがわかったから、あの時団子を渡したんだ」
怒り心頭に発していたのだろう。
毒団子を毎日持ち歩くほど、僕に問いただすこの機会を伺っていた。
裏切られたと思ったのかもしれない。

「人間は昔から鼠を多産、か弱くて、些細なものの象徴とした」
窮鼠の諺を持ち出す勢いだった。
「私も馬鹿ではない。毒薬の対策は容易だった。
 君の団子を握る手癖くらい、嫌というほどわかっていたからな」

もう言葉が出てこない。胸が強く締め付けられるのがわかる。
言い過ぎたと思ったのか、最後に遅い早いあれど、
寿命は理、鼠なら尚更だがなと、僕の顔を見て締めくくった。
「…本当に、ごめんなさい」
あまりにも、受け身だった。
僕が、自分の薬と知ってて飲んでたら少しは謝罪になったのに。
「君は、本当に成長していないな」
どこか皮肉めいた声は、遠くに消えていた。
また、長い沈黙が訪れた。

ちょっと厠と言って立ち上がろうとすると、何かに歩を阻まれた。
僕の腕を掴んでいるらしかった。

「君、右腕…」
だらんと下がった右腕を、彼女は目ざとく捉えていた。
僕の手のひらから、ぺちんという音が聞こえてきて。
惨状を把握した。利き腕が麻痺していて、感覚がない。

我ながら凄まじい薬を作ってしまった、参ったものだ。

黙って首を横に振ると、彼女はむきになって僕の指のあたりを握って、
曲がらない方向にゆっくり力を入れ始めたらしかった。
伝わってくるのは痛みではなく、彼女の華奢な指の震えだけだった。

それが、痛々しかった。
僕の指の感覚があるかどうかを確かめずにはいられなかったのだろう。

僕の顔色を見ながら、幼虫を潰さないぎりぎりを探るかのように。
やがて、バシッ、と乾いた枝を折るような音が、
僕の手元から聞こえてきて、彼女は慌ててその手を引っ込めた。
まるで夢から覚めたような、今まで見たことのない表情をしていた。

「よくも……よくもこんな薬を……」
誰ともなしに言った震えた低い恨み言は、畳に掻き消えた。

腕の麻痺も指の骨折も、すべては報いだ。
左手で腕を持ち上げると、桑の実と見紛う指が見えた。
きっと、妖怪だから力加減ができなかったのだろう。

簡潔に厠を教えてもらい、戻ると西日はすっかり深くなっていた。
帰ると告げると、送っていくよと能面のような顔で言う。

顎を縦に落とすと、少し胸のつかえが取れた。
今度は、意地を張らなくてもよかった。

白い息を吐き吐き、日も落ちて細くなった帰路を進む。
貸してもらった羽織の袖を伸ばすと、暖かかった。
「ところで、あの団子は何を材料にしたんだい」

思わず、腰を捻って彼女の顔を覗き込んでしまった。
今、こんな話題を持ちかけてくるなんて。
隠す事でもないが、いい話じゃないよと前置きをしておく。

「魔法の森で採れた、血を固める作用を促進するキノコを使った」
どこにでもありそうだが、その実悪魔の茸である。
ひとたび食べると即座に吸収され、全身にまばらに血栓を作る。
それが飛んで、対象は昏倒して各臓器で梗塞を起こし命を奪われる。

彼女が飲ませた解毒薬はおそらく抗血液凝固の作用を示す、
妖怪ヤナギの樹皮と一角貂の生腸が主だとは思うが…
誤飲するとまず間に合わないし、一角貂が希少すぎて手が出ない。

彼女が自力で調剤したとは思えないから、
僕よりも遥かに腕利きの薬売りがいるのは確かだが…

説明を終えると彼女はそうか、と憂悶に満ちた声を出した。
言わんこっちゃない。
すると小さな靴音が止まって大きな丸耳が横に揺れて、こっちを見つめる。

白い息が、小さな口から洩れた。
「…君はすっかり、薬屋になってしまったんだな」
月明かりが強くなった。
憂悶ではなく、寂寥の響きだということに、初めて気が付く。

思えば、彼女にとって僕の団子の意味はすっかり変わってしまった。
以前は口馴染みのある味、今や一族殺しの道具。
僕に彼女の気持ちを汲みとりきることは、きっとできやしない。

自分の犯した罪の重さを、今まで僕は毛ほども知らなかった。

道程の半分でじゃあこの辺でと告げると、彼女はもういない。
月明かりに伸びた遠い影を目で追うと、その失言を悔やみ始めた。

雲が月にかかり、細く暗く長い道を一人で歩く。
「明日からどうやって生活していこう」
「こんな手じゃ、薬を作るのも材料を採るのも難しい」
「今日はやたらと寒いね」
ひとりごとは、彼女と話した時より饒舌だった。
それでも、道の半分は過ぎていたのに、残りはやけに長く感じた。



翌朝、戸を弱く叩く音で目を覚ますと、外はまだ薄暗かった。
こんな時間に誰だろうと恐る恐る戸を開けると、雪が落ちてきた。

「やあ」
片手を小さく上げて、もう片手で穴開き笠の雪を落とす少女がいた。
大きな丸耳は、手拭いで何重にも巻かれていた。
まだ僕は寝ているのだろうか。

「ん」
彼女が近づいて頭を下げてきたので、思わず後ずさりしそうになる。
混乱した頭で、手拭いを解いてほしいと解釈した。
手拭いの温かみが手になじんで、僕の胸をせわしなくさせる。
幸い、その解釈は間違っていなかった。

ただ、我に返ると彼女がこんな早い時間にここにいる。
おかしい、何かあるに決まっている。
というか、それ以前に。
「なぜここを知っている」
少女はふふんと鼻を鳴らした。
「あいにく、私の特技はダウジングでね」
僕がおうむ返しすると、いわば捜索や探知だと付け加えてくれた。
「用件は何?」
「ああ、君の業務を手伝おうと思う」

いくら妖怪と言っても、やはり人に通じた心の動きがあるらしい。
彼女は責任感を感じていた…と考えるのは少し呑気だろうか。
一応左手だけでも調達は可能だし、商売も調剤もできる。
だけどせっかくの厚意を無下にできない。
何よりも、並大抵でなく浮かれている自分もいて。
嬉しかった。
「ありがとう!」

彼女は少し照れくさそうに、顔をそむけた。
お腹のあたりで手が遊んでいる様子が、こみあげるものを感じた。

僕の店は日が昇る前に材料を調達しに行き、
日が高くなる頃に戻ってきて、薬を作りがてら売り始める。
だから行ける場所も限られるし、大きな材料も取れない。

説明し終えると今日はいいのか、とくるもんだから、この雪と返す。
外は珍しく大雪で、これが収まるまでは寝ていようと思っている。
「軟弱だなあ、ご飯はちゃんと食べているのかい」
食べているわけがない。こちとら生活に困っているんだ。
あまり体力を使いたくないので、布団に戻ろうとすると阻まれた。
「ここまで来た私に退屈でいろと言うのか」
お前が勝手に来たんだろう。
折角だし、何かしようにもこの家には特に何もないはず、だが。

見ると、少女は黒い装飾のついた棒を二本、
昆虫の触覚のように動かしながら部屋中を嗅ぎまわり出した。
「何してるの」
「知れたこと、娯楽用品ぐらいあるだろう」
本気で迷惑な話だった。
「やめてくれ、ここは僕の家じゃないんだ」
駄目だ、目が爛々と輝いている…
制止も聞かず、とうとう彼女は戸棚から立派な将棋盤を取り出してきた。
悪戯を成し遂げた悪餓鬼のような顔をしていた。どうにも憎めない。
「さあ、さあ」
観念して膝を折った。僕は将棋を打ったことがない。
わからないなら教えてやるとでも言わんばかりに僕を見つめる。
ついでに、将棋は指すものだと教わる。
こんなに子供みたいだ、と思ったのは初めてだった。

「これが飛車だ」
「ひしゃ」
「そうだ。縦横、盤の中なら左右でどこまでも動ける。
 で、こうやって相手の陣地に入り込むと」
「裏返った」
「そう、これが『成る』というんだ」

彼女はこうして、一通りの駒の動きを教えてくれた。
取った駒は、自分で好きな時に使えるらしい。
「じゃあ、試しにやってみようか」
やっぱりか、と思った。覚えるだけでお腹いっぱいなのに。

彼女は駒の動きは教えてくれたが、戦法を教えてくれなかった。
前の歩を全部進めていたら、瞬く間に陣形が崩壊して負けてしまった。

二回目は、少しだけ負けるのに時間がかかった。
三回目は、相手の歩をいくつか取った。
四回目は、飛車を成らせることができた。

彼女は乗せるのがうまかった。

光が障子から射しこんで、開けると空は晴れて日は高かった。
時間を忘れて夢中になっていたらしい。
「ああ…昼は用事があったんだった。すまない、帰るよ」

結局、彼女は将棋を指しに来ただけだった。

戸棚に将棋盤をしまいこむと、一冊の粗末な褐変した小冊子。
開くと、将棋の戦法が書いてあったので、懐にそれを入れた。

結局材料の調達はできなかったが、店を開けることにした。
在庫を確認していると、常連の中年男がやってくる。
「おう、若主人」
嬉しそうだな、と続けてきたのでやんわり肯定した。
最近のことは口にしなかったけれど。

夕食の準備をしている時分、裏口を弱く叩く音。
どうぞと言うと、戸がゆっくり開いた。
まさかと思ったら、そのまさかだった。
「やっ」
朝よりも、挨拶が軽かった。
菜を千切る手を止め、視線を送る。

粗末なお椀に、千切った菜に塩をかけて、机に乗せる。
「それ、まさか…」
少女は凍り付いていた。
人の晩飯を見て凍り付かないでほしい。
「君はもっと痩せていてもいいんじゃないか?」
余程動揺していたのか、妙な事を口走っていた。
「一応薬で栄養補助してるからね。しかもこの草栄養あるんだ」
食べるかと持ちかけるともう食べてきたと素っ気なく返される。
「君、団子屋だったんだよな…」
団子だけに、やたらと蒸し返してくる。

薬の質を落とさないためにも、生活費をぎりぎりまで削らなければならない。
そのためには、日々野草や虫を食べるしかない。

質素な十秒飯を終え、彼女と一緒に薬を作った。
薬と言ってもただの漢方薬だけでなく、
自分自身で作る栄養補助の薬も豊富に取り揃えてある。
彼女は虫を潰すのもさほど抵抗がなかった。
正直、ちょっと抵抗を示してほしかったが、鼠だから仕方ないか。


あくる日も律儀に彼女は僕の店に顔を出してくれた。

「この配置は客避けにしかならない。もっと入り口を明るくしよう」
こんな提案をしてくれて、深々と納得したのでさっそく取り掛かる。

そんな努力の甲斐あってか、少しだけ、生活に余裕が出てきた。
ある日彼女がなかなか来ないことをいい事にこっそり買い出しに出た。

小さな袋を二つと水瓶を抱えて帰宅すると、
机の上にリンゴが二つ置いてあった。
誰の贈り物かは容易に見当がついた。
知ったら怒られるが、ありがたく薬の材料にさせて頂こう。

小さな作業机の上に、袋と水瓶と小鍋を置く。 
袋を開けると、白い粉が舞った。
止まった手を、再び動かすまでには時間がかかった。



翌朝、手を小さく上げて、少女は裏口で手拭いを解いて。
もうすっかり、なじみである。

手招きをすると、少女は首をちょっとかしげて入ってくる。
包み紙にくるんだ団子を差し出すと、表情が強張った。

恐る恐る華奢な手がそれを開くと、紅の瞳が丸くなって綻んで。
彼女が団子を小さな口に放り込むまで、あっという間だった。

何を言われたかは、憶えていない。
媚びを含んだその表情が、あまりにも強く焼き付いて。


「君の腕が治るまで、君の仕事を手伝うよ。監視がてら、な」
昼、いつまで手伝うんだと尋ねた時に、彼女は胸を小さく叩いた。

「治らないかもしれないんだけど」
同じ言葉は繰り返さない、そう言った彼女は屈託のない笑顔を見せる。

「…今日は一緒に材料を探しにいかないか」
彼女は裏口の戸を開け放した。

柔らかい日差しと冷たい風が一緒に吹き込んできて、身をすくめる。



春が、裏口の戸から広がっていた。