東方幻想明日紀 五十二話 蝿の仕返し

どうにかして、巨大な翼を持つ少女との戦闘を回避できた。
溶岩に落ちるか、溶岩に落ちるか、彼女と戦うか。
考えてみれば三択だった。もちろん行先は全て死だったが。

そんな危機から生還できたのも。

僕の背中で深い息をしている、持病で倒れた少年、ペディアスさん。
黙っていれば可愛げのある少年だが、どうも掴めない。
彼が僕の首を手刀で気絶させて助けてくれたのだ。
ただ、疑念はいくつかある。

僕を助け出す時に気絶させる必要性はあったのか。
何よりも、その時の攻撃があまりに強すぎた。
僕は生まれつき血の量が少なく体も頑丈だから助かったが。
本当は、僕を殺す気だったんじゃ…

ただ、部隊の副長を務めるような方だ。
力の制御ができなかったのかもしれない。

近代的な装飾の施されたゲートをくぐると、ほっとした。
西日は射す。この人工の世界でも、例外ではないらしい。
違和感を何も感じないあたり、この茜色は

洞窟や灼熱地獄は、しばらく見たくないものだ。

と、同時に、目の前に黒着物を着た短い黒髪の少女の姿。
少しだけ頭を捻ったが、すぐに出てきた。七つ鬼火の小春様だ。

僕に向いたくりくり黒い瞳は、けげんそうな色をしていた。
正確には、僕じゃなくて。

「ああ、倒れたか」
いかにも舌打ちでもしそうな雰囲気である。
心配しているような様子は、微塵も感じられない。

「僕を助けてくれたんです」
「そう言えと言われたんだろ?起きることないから吐いちまえよ」
華奢な白い腕が覗く黒い余る袖を組ませながら、小春様は口許を苦く固める。

「…にしても首、大丈夫か?」
「あ、全然平気です」
慌てて首を隠すと、彼女は嘆息する。

「『全然』って使うときは最後に打消しを付けろ」
「は…は、はい」
まさかここで文法の訂正を迫られるとは思わなかった。

「まあいい。俺、こいつが嫌いなんだよ」
一応適当な相槌を打っておくが、わからないわけがない。

「…」
今度は、少し視線を上げた先、僕をまっすぐ見つめて思案顔。
立場が立場だけに、委縮する。
彼女自身、ころころ話題を変えるからやりづらい。
性根は良さそうだから、顔色を真剣にうかがう必要はないとは思う。

「お前の名前、何だっけ…いや、まて今思い出す」
この苦悶に満ちた真剣そうな表情を見ると、それは確信になった。
やはり、彼女は真面目なのだ。
こんな平の僕の名前くらい、憶えてなくてもいいのに。
いいですよと彼女に促すと、そのままの表情で手のひらを僕に向けた。

ノーザンライツか、サザンクロスのどっちかだったはずだ…」

そんなお洒落な名前だった時は片時もない。
一応、ノーザンライツ(オーロラの意)はかすってる。

前者が惜しいです、そう告げると彼女はぱっと顔を明るくした。
「極光だな!!」

少しずつ近づいている。ただ、きらきらした瞳になるほど近くない。
できれば、オーロラから離れてくれると嬉しい。

結局「じゃあ、名無しか…」とか腕を組んで呟きだしたので、
ヒカリという名前を告げた。彼女はそうだったっけかと頭を掻いた。
痴れ者じゃないのはわかるけど、どこかずれてる。
強者である彼女の強い人間臭さを見て、複雑な思いが巡る。

「――ところで、どうしてここにいらっしゃるんですか?」
話が一段落したところで、話題作りにも似た疑問を投げてみる。

「えっ、俺ここの部隊長だけど」
思わず血の気が引いていくのが自分でもわかる。
謝ろうにも、口が重くて開こうとしない。

「ヒカリさんは新入りですし、
 小春様はここに普段いないですのでお気になさらないでください」
黒い着物の後ろからおかっぱ顔がのぞく。
音もなく、白い薄衣を重ねた僕くらいの背丈の幼女が前に出てきた。
小春様も両手を上げて驚いている。

「乙部隊部隊長補佐の、ののです。どうぞよろしくお願いします」
あまりにも丁寧すぎる挨拶に、それ以上の返しはできなかった。
委縮するばかりで、不完全な敬語で返さざるをえなくなった。

「とりあえず、ペディアスさんどうしましょう…」
「あー、東の端に森があるんだ」

小春様が人差し指を立てて、もう片手で東を仰ぐ。
体調なら、彼女の特効薬の場所でも…
「そこに埋めるか」
言いたいことは山ほどあるが、僕は立場上とやかく言えない。
言えるわけがない。

「奴が臨終したらお前かイシュラが副長になるんだろ?
 まあここにいるのが長い事を考えるとイシュラだろうが」
爛々と輝く黒い瞳を見ると、思わず尻込みする。

「小春様、ヒカリさんはもう四つ鬼火じゃありません。
 ペディアスさんに試験と称してひとつ鬼火を剥奪されたのです」
そう言うが否や、のの様は僕の横に音もなく詰め寄る。

そして背後で、トットッと、液体を静かに注ぐ音が…冷たっ。
思う間もなく、今度は首に冷たい水を含んだ手の感触が往復する。

「傷薬です。あなたなら数秒で完治しますよ」
一体どんな薬だろう…少なくとも僕の理解の範疇ではなさそうだ。

夕日が落ちかけて、荒涼とした地にぽつねんと佇む小屋を見つけた。
掘立小屋のような粗末で小さい廃屋に彼女を運び込んだ。

見た目は廃屋だが、中は清潔な豪邸を期待していた。
その期待は、見事に裏切られた。
屋根と枯草の床、畳食う虫も住まぬような場所だった。

「礼でも言ってほしそうな顔をしてますね」
「ののがいなかったら山中に棄てて蟻の餌にでもしたんだがな」

帰りたい。

日常茶飯事の口喧嘩の空気じゃない。一触即発である。
お互いの溜まりに溜まった不満が漏れだしてきている感じのそれだ。

それにしても、階級が二つも違うのにペディアスさんは果敢だなあ…

そんな二人を尻目に、のの様は僕にこしょっと耳打ちをする。
迎えが来ているので帰っていいですよ、と。
僕は忍者だと心の中で何回も唱えて、抜き足差し足。
助け船を出してくれたのの様に会釈をして、狭い修羅場を後にした。

外に出ると、まぶたの重そうな緑髪の少女と目が合う。ソナレノだ。
今までどこにいたのか尋ねると、まあいろいろ、と茶を濁された。

どうせ神出鬼没だし、姿を晦ますことなんてよくあること。
ただ、消耗しているのは初めて見たし、何よりも口が重そうなのが気になった。

「一緒に帰ろう。あったかいお茶でも入れるよ」
「どうしたの?今日は随分と優しいね」
擦り切れた笑顔が、その珍しい反応が。やけに喪失感を煽っていた。

「そなって呼んで」
「やだ」


もう長い間、おじさんに会ってない。
どこに行ってたなんて野暮なことは訊かないだろうが、
心配しているかもしれない。何も連絡も寄越していないのだから。


道のりは長いはずなのに、足は急いていた。



つづけ