東方幻想明日紀 五十一話 灼熱地獄とアンテナペディア

ひたすら体が持ち上げられる感覚に、いまだに慣れずにいた。
自分は落ちているのかどうかさえ疑問に思うほど、長い。

だんだんと気温が上がり、下方が赤熱しているかのように、
薄赤くぼんやり発光しているのが分かった。

視界が明るく、赤くなるにつれ不安は大きくなる。
真下は、溶岩である可能性だ。
既に焼けそうなほど暑いが、まだ落ちているのだから、それはつまり。

次に瞬きすると、ゆっくりと朱く流れる粘性の川が近づいてくる。
その水面が、遅々と流れていたのをすぐに溶岩だと察した。

目を閉じた瞬間に、首が急に締まって、体が急に上に持ち上がる。

再び目を開けるとさっきのように、
目の前すべて、一様に溶岩がゆっくりと流れていた。
ただ、違う点があるとすれば…
「あなた、間違ってここに落ちてきたの?飛べる?」

落ち着き払った知性を伴った女性の声が、僕の頭上から響く。
襟首を掴まれているのだろうか、何にせよ、助かっ…。

「待って僕飛べない!放さないで!」
襟元の手が一瞬緩んだと同時に、思わず叫んでいた。
動悸が激しくなっている。こんなの、いつぶりだろうか。
強い生への執着を覚えたのか、それとも。

「どうしてここに?」
くらくらする頭を起こして、静かに思い出す。

「私が投げ入れたの」

ふいに横を見ると緑色のスカートから、細い白い足が伸びていた。
黒いブーツの下には、溶岩の海が広がっている。

「にしても、おくう少し見ない間に変わったね?見た目も…力も」
「えへへ、やっぱりばれた?」

僕を助けた人はおくうというらしい。
ガールズトークが始まっている中、
僕は宙ぶらりんのまま忘れ去られている気がしてならない。

「そりゃわかるよー。だって、すっごく無骨な力だもん」
「ふふん、当然。私は神の力を手に入れたんだもの」

その力は誰にもらっただの、そんな話が数回交わされた辺りだった。
「まあどうでもいいや。お姉ちゃん知らない?」

落ち着いた声がここにはいないと答えると、ブーツの足は消えた。
僕は、ここにひとり取り残された。

「あの、僕もここから出してくれないかな」
僕が首を上に伸ばして、女性を見上げようとする…が、首が上がらない。

「聞いてる?」
「…貴方、腕には自信がある?」

唐突な逆質問に、耳を疑う。
理由を問い返すと、女性は少しの間、抑えるように笑っていた。
「決まってるじゃない。新しい力を試したいの。
 鉄塊すら蒸発させる神の火を私は手に入れたわ」

どうやら、はったりではなさそうだ。当然、僕の出る幕ではない。

「ないと、言ったら」
「この手を放すでしょうね」

死ぬか、さもなくば死。僕はこの二択を強いられた。
こんな理不尽を突き付けられるのは、
おそらく今後数回も味わうことはないだろう。

こうなったら、一か八だ。

「わかった、相手になろう。多少は腕が立つからね。
 だけど、僕は飛べないので、まずここから出してほしい」

逃げようという算段なのは言うまでもない。
それなのに。
「私に盾突くほどの強者で飛べるか否かは、貴方の気合いの有無ね。
 さあ手を放すわよ。飛ぶ気がないなら溶けて死ぬほかはない」

こいつ馬鹿じゃないの。ほんと馬鹿。
「やめてやめて!僕飛べない!」
「飛べる!あなたは飛べる!さあ力を抜いて!」

傍目喜劇。我が身悲劇。明日はどっちだろう。

「おいおい、子供相手にみっともないことしてるな」
頭上から、聞いたようなどこか気力の削げた饒舌が響く。
この声は…
「あら、今日はお客が多いですね。何の用かしら」
「間欠泉を止めに来た。お前はさとりとやらのペットだろう?」

頭上で、緊迫した会話が行き来する。
ちなみに、僕の視界にはずっと溶岩がゆっくりと流れている。
既に緩やかに流れている溶岩を見ると、
気持ちがそこはかとなく落ち着いてくるまでになっていた。

余裕が出て、僕は声の主を記憶の海に探していた。

「お前、あの時の子供だろ?災難だなあ。
 どうしてこんなところにいるんだ?」

声の主が、僕の視界に割り込んだ。
その顔が見える前に、既に箒の先端が僕の記憶を穿り返していた。
彼女は白い歯を見せると、黒い大きな鍔の魔女帽をくいと上げた。

あらかた事情を説明し終え、彼女の肩に乗せてもらうと、
仮にも一度は僕を助けた声の主を目の前に見据えることができた。

その少女のシルエットに、目を奪われた。
凛々しい顔立ちに、巨大なの烏の翼。星空をあしらったマント。
そして、目を引くのは右手に付いている砲塔のような赤茶けた無骨な柱。

その姿をまじまじと眺めていると、突如、僕の首に何かがめり込んだ。
わずかな間に、ゆっくりと視界が揺れて、暗闇に放り出された。


ふたたび目を覚ますと、目の前には振り子のように揺れる二つの柱。
その二本の柱の間で、ゆっくりと景色が前へ前へ進む。

その柱が帽子だとわかった途端に、状況を把握した。

「ペディアス…さま?」
「ですよ」

抑揚のない声が、真下から洞窟に反響する。
恥ずかしながら、僕はペディアスさんに引き取ってもらったらしい。

「ああ、降りなくていいですよ、怪我してますし」

怪我?と尋ねると、気絶させるときの手刀が強すぎたらしい。
実際に首元を触ると、粘っこい嫌な感触がした。
…僕をあの場で殺める気だったのだろうか。

不穏な邪推はいい。それよりも、言わなきゃいけないことがある。
「その…ありがとうございます」
「お礼なんかいいですよー。それよりも尋ねたい事があるのです」

ペディアスさんは、僕の返答を待たなかった。
「どうして、与えられた仕事ひとつこなせないのですかー?」

警備をする以上、脅されたのは持ち場を離れる口実にはならない。
それは、僕でもわかることだった。

返答に窮していると、ペディアスさんは大きく嘆息した。

「ですが叱るつもりはありません。元々君には期待してないですから。
 君の口からさぼった、と聞けば今日の事は水に流しますよ?」

その一言で、少しだけむっと来た。
「言質を取ってどうするつもりですか」
思わず、立場を忘れてこんなことを口走っていた。

「へー…私が君に対して求めるものは何もないのに、
 どうして言質を取らなきゃならないのですか?ん?」

助けてもらったはずなのに、腹の虫がおさまらない。
どうも、こいつの事は好きになれそうにない。
小さいことであまり憤慨しないたちだが、彼の言動が癪に障る。

洞窟の中は、しばし乾いた靴の音だけが大きく反射する。
しかし、それもそこまで長い間ではなかった。

「…うっ」

靴の音が止まり、視界もそれに合わせてぴったりと止まる。
ペディアスさんがうずくまると同時に、彼の背中から降りた。

まもなく小さな体躯は背中を丸めて、激しい咳と一緒に上下に震えた。
彼の小さな口から、少量ながら鮮血が滴り落ちる。
「とりあえず、壁に寄りかかってください」
「うるさい…指図するな」

よほど余裕がないのか、その少女のような顔をしかめたまま、
違和感のある口調で僕の提案を押しのける。
肩で息を始めて少しの間をおいて、彼を洞窟の壁に寄りかからせた。
そして、そのまま気を失ったように、首ががくんと下がった。

高めの鼻の下に指を置くと、小さいながらも深い呼吸が見て取れた。
どうやら眠ってしまったようだ。

ただでさえ、この洞窟は暑いのだ。熱を逃がさないと…
彼の触覚のような長い帽子に手をかけて、上向きに引っ張る。

柔らかそうな髪の毛から覗く、真っ黒な光沢のある、細くて硬いもの。
おそるおそる取り払うと、思わず息を呑んだ。

彼の頭からは触覚ではなく、蝿の脚がそっくりそのまま生えていた。
こんなの、初めて見た…

こっそり帽子を再び被せて見なかったことにすると、
今度は僕が彼の肩を背負って、道の続きを歩みだした。

僕よりも背が高いくせに、彼の身体はやけに軽く感じた。


つづけ