ねずみとヒトの恩返し 前編

眼前の弱い光が、僕のまぶたをゆっくりと指で押し上げる。
飛び込んできたのは、ぼやけた濃淡のある古い木の色。
斜めに差し込んだ茜色の薄らいだ光が、背後の窓から僕の膝に降りていた。

部屋を見回すと、小型の行燈が小さな木の机の上に置いてある。
その横に添えられるように、小さな二つの椅子があった。
どうやら、僕がいるのはただの粗末な小屋のようだ。

その小屋の壁に寄りかかって、気絶していたらしい。
腰を上げ、床から軋んだ音がしたかと思うと、腰と肩に痛みが走った。
再び座り込んで真下に目をやると、腕は麻布で吊られている。
丁寧に何度も巻いてあった。

直前の記憶については全部飛んでいるが、
察するに小屋の主が、負傷した僕をここまで連れてきてくれたのだろう。

その主らしき者は、今ここにはいないが。
ふと、小屋の入り口を見ると、一匹の太った鼠が入ってくる。
近頃鼠に悩まされた身なので、あまりいい気はしなかった。

顔をしかめていると、二匹、三匹…続々と入ってきて、傍に付く。
何だ、何なんだ。僕を食べる気なのかこいつら。
来るならこい、こちとらお前たちに恨みがあるんだ。遠慮なくやる。
腕だけ攻撃の構えをとると、今度は遠くから靴の音。
それはコオロギの鳴き声に交じって、コトン、カタンと大きくなる。

首を上げると、赤い細めた瞳が、まっすぐに僕を見つめていた。
その目が僕の瞳孔を捉えて、靴音は止まる。

「私の鼠たちに乱暴するのはやめてくれ。ほら君たちも離れて」
後半は優しく僕の足元の鼠に諭すように。

僕よりもいくつも年下に見える少女は、
濃灰色の窓付きスカートの端をそっと払って、僕の前にしゃがみ込んだ。
スカートの長方形の窓から見える、華奢な白い腿は目に毒だった。
鼠の面影はほとんどないが、その尻尾と丸い毛質の耳を見ると、疑う余地は失せた。

「私だ」
その少女の言葉を、頭のなかで繰り返したが、何も思い当たらない。
今までの記憶も、消えたはずの今日の記憶も。
返答に窮していると、まあいい、と嘆息。

これ、きみが手当してくれたのか、と頭には浮かんだ。
「あいにく、僕は鼠が憎くてね」
出てきたのは、お礼とは程遠い薄めた罵声。
口を押さえる手を上げることすらできなかった。
ただただ、目の前の硬い表情を、穴を穿つように見つめる事しかできなかった。
そうか、と彼女は小さくつぶやいた。
「君が魔法の森で倒れていたのを偶然見つけただけだ」
僕から目をそらして咳払いする様子が、やけに既視感を覚えて。
何かが脳に、注ぎ込まれるように。
目の前の少女に、違う意味が足されていく。

「ねずみのおねえちゃん…」
初めて眼前の重たい表情が、和んだ。

慌てて口をふさいだが、頭では記憶を反芻し始めていて、
もう止めることはできなかった。止めようとも思わない。


僕の実家は、人里の妖怪の山寄りに立地する団子屋だった。
昼夜を忘れる呑気な母親と、飼い猫にも雷を落とす厳格な父親。
二人とも、甲斐甲斐しくお手製の団子を人妖問わず売り、生計を立てていた。
僕は、その二人を手伝うひとり息子だった。

ある日、一匹の小さなやせた鼠が罠にかかっていたので、
かわいそうという幼気な子供心に任せて、罠を外してあげた。

お腹がすいているような気がしたので、団子もあげた。
その鼠は、血走った目で団子を食べた。
翌日から数匹の鼠が、僕に団子をせがむようになった。
それからというもの、両親にばれないように、こっそり団子をやり続けた。

それとほぼ時期を同じくして、僕よりもふたまわり大きい、
鼠のお姉さんがよく団子を買いに来てくれた。
ある日思い切って話しかけると、一緒に遊んでくれた。
優しくて、気のいいお姉さんだった。
ねずみのおねえちゃん、そう呼んで、慕っていたのを思い出した。

昔の話だ。


「鼠が嫌いなんだ」
ぶっきらぼうに言い放って、彼女を睨み付ける。
彼女は目をそらさずに、消えた表情のまま立てるかと声をかける。
まだ腰と肩に強い痛みがあるが、どうにか立つことはできた。

足を引きずって掘立小屋から出ると、
満月の下、辺り一面咲き乱れた彼岸花が揺れていた。

一度だけ、薬の材料を取りに来たことがあるから道はわかる。
間違えて踏み入れてしまったと言った方が正しい。
ここは、本来僕が来るような場所ではないからだ。

その際、帰路で妖怪に殺されそうになったのも、はっきりと覚えている。
そのうえ今は満月である。このまま帰るのは、綱渡りだ。
鼠風情に借りを作ったまま、道を尋ねるのも護衛を頼むのも嫌だ。

片意地は僕の命を捨てる決意を固めさせた。

「人間には危ない道だ、護衛する。あまり腕がたつ方ではないが…」
「付いてくるな。もう鼠に借りは作りたくない」

話を遮ると、むっとした様子が空気を通して伝わってくる。
「私が助けた命だ。ここで死なれては助けた意味がない。
 言っておくが、君に断る権利はないぞ」

それに、と前置きをして、彼女は息を小さく吸い込んだ。
「鼠、じゃない。『ナズーリン』だ」

それ以上彼女は何も言わずに、スカートを翻して僕の前を歩き始めた。
僕は足を引きずっているのに、いささか早足で。
複雑な気持ちだった。

僕は、本当なら彼女に感謝するべきなのに。
二度も、命を救われている。幼少の頃の恩もある。
何がこんなに謝辞を口にするのを阻んでいるのか、不思議だった。
喉にすら、上がってこないのだ。

僕は、こんなに鼠が嫌いだっただろうか。
憎くて憎くて、仕方がなかったのだろうか。

もちろん仕事柄、鼠には悩まされている。


ふと発作のように浮かび上がった、見たこともないような父親の形相。
七年経った今でも、忘れることはない。

とうとう、鼠にこっそり団子をやっていたことがばれてしまった。
生まれて初めて、頬を張られ、出て行けと言われた。
力なくさめざめと泣いて、こんな月夜に逃げるようにして家を出た。
当然、ねずみのおねえちゃんにも会うことは無くなった。

当て所なくさまよい行き付いた先は、気のいい老爺の小屋だった。
その老爺は、薬屋だった。
老爺はやがて咳をこじらせて亡くなったが、漢方の分厚い本と、
若い身に余るほどの潤沢な知識を僕に与えてくれた。

薬売りとして生計を立て、材料を手に入れに奔走する日々。
季節は何度も巡り、次第に、幼少の頃の記憶は薄らいでいった。
ねずみのおねえちゃんの事も、例外ではない。
生活も困窮しているなか、材料を食い荒らされてはたまったものではなかった。
この生活は、鼠との戦いの生活と言っても過言ではなかった。


だからこそ、彼女の行動に当惑しきっていた。


「さあ、着いたぞ。あとは大丈夫だな」
やがて、吐き気のするような瘴気の漂う魔法の森を抜け、
人里の入り口にたどり着いた。道程は短く感じられた。

振り向くと、もう彼女はいなかった。
結局、礼を言いそびれてしまった。

礼を言ったところで、恩を返せるわけではないと自分に言い聞かせて、家の方につま先を向けた。

今後、彼女に会うことはないだろう。
妖怪と人間、鼠と人間なのだ。相容れることは決してない。
今日の出来事の記憶もだんだん遠ざかっていき、無かった事になる。



「―若主人、最近浮かないなァ、悩んでるのかい」
「あ、そうですかね。元気ですよ」
常連の中年の男は、僕をよく見ていた。
わずかばかりの代金を貰い、
薬を渡して男の背中を見送る最中にうっかりため息が漏れた。

何日経ってもあの出来事を忘れることはなかった。
そればかりか、日増しに鮮明になって僕の胸を軋ませていた。

再会を喜べなかった。助けてくれたお礼を言えなかった。
全て、鼠への恨みにかこつけた、下らない意地で。

確かに、暮らし向きは楽ではない。鼠にもほとほと困っている。
だから毒薬の知識を駆使して、毒団子を作った。
鼠に困っているのは、何も僕だけではない。
事実その毒団子は、よく売れている。
何を隠そう、さっき男に渡した薬も、その毒団子だ。
あの日までは、この毒団子をのうのうと売り捌くことができた。
住民のため、生活のため。

もう、そんな言葉を心内で唱えることはできなかった。
そして、もう彼女に会う術は、ない。
ただの胸の痛む独り相撲だった。


ある朝、いつものように店を開ける準備をすると、
四肢を投げ出した小さな鼠の死骸が目についた。
激しくもがいた痕跡から、どうやら僕の毒餌を食べたらしい。
立てかけてある火ばさみを取った。

鼠の死骸の前に来ると力が抜け、その火ばさみを落としてしまった。
その火ばさみを拾い上げる気が、どうしても起こらなかった。
痩せた鼠はあばらが浮いていて、
僕が幼少の頃に最初に助けた鼠によく似ていた。

手でその灰色の毛玉を拾い上げると、ほんのり温かくて硬かった。
庭に出て、軽く地面に穴を掘ってその鼠を埋めた。
手を合わせて目を閉じると、身が打ち震えるような感覚に襲われた。

次にするべき事は、わかっていた。

大きな麻袋を部屋の奥から引っ張り出す。
売り場に戻って、小分けにされた袋の中身を全部その麻袋の中にぶちまける。
店の奥に置いておいた作り置きしていた団子も、全部麻袋に放り込む。
黒い団子がぎっしり詰まった袋を引きずって、庭で逆さにした。
ぼたぼたと音をさせ、頂が膝くらいの高さの黒い山が出来上がった。

山の前でしゃがみ、火打石を懐から出して強めに叩き合わせる。
やがて、鮮やかな紫色の煙が山から立ち上ってきた。
今まで嗅いだことのないような匂いが鼻を突き刺す。

黒い山に紫苑色の火柱が立つ頃には、
胃袋を素手で引きずり出すような激臭に耐えかね、屋内に逃げた。
目がひりひりして仕方がない。

それにしても、よく燃える。
燃料にすればよかったかもしれないとも思ったが、
こんな物凄い煙が屋内に充満する事を思うとぞっとした。

余談だが、近所の人が何事かと駆けつけて大騒ぎになっていた。
上にもこの話は届いたらしく、僕はしばらくの謹慎処分を下されることになった。

でも、心なしか、幾分胸のつかえが下りたような気がした。

前より一層売り上げは落ち、ぎりぎりの生活にはなった。


「はて、耳慣れねえなあ。無縁塚の話はついぞ聞かねェからなあ」
お得意様の例の中年の男は、あの毒薬を焼いて以来、
以前よりも買い付けてくれるようになっていた。

礼を言って男を見送ると、そのまま荷物を整えて店を閉めた。
方向が男と同じだったため、男を抜き去ってはにかんだ。

「ちょっと、『薬の材料を探し』に」
男は、何も言わずに老獪な笑みを浮かべた。
僕の嘘を見抜いていた。



――再び店を開けたのは、その日の夜だった。
透明な雪が、空の方でちらついていた。

もう、そんな季節になっていた。

彼女と再会した帰り、ぼんやり見た紅葉をたっぷりつけた木は、
枯れ木になってぽつねんと佇んでいた。

今までの懺悔と、謝罪と、また会えたね、という言葉を、まだ。

「……ナズーリン

この名前を、何度呟いただろうか。何度、人に尋ねただろう。
しかし、この名前を知っている人は、苦々しい顔をする。
捨て台詞まで、吐かれてしまう。

ひょっとして、彼女が無縁塚に住居を構えている理由は…


だとしたら、どの面下げて僕は彼女に会えばいい。
何がお互いにとって幸せなのかを考える時間は、十二分にある。

ひとつの結論が出かかっていた。

断行できずにいた。



薬を患者さんの家まで配達して帰りを急いでいると、
多くの人妖が石段を登っては、降りている様子が目に付いた。
子供の綻んだ笑顔と、手に持った飴細工で、すぐに祭りだとわかった。


急ぎの用事もないので、腹ごしらえでもしようかと石の段に足を乗せる。
石段の頂上に、青空に交じって灰色の紐が揺れて、消えた。
僕の中で何かがほどけて、吹っ切れた。

人の波をかき分けるようにして、石段を二段飛ばしで駆け上がって。

屋台が中央に斜めに集まるように、中心で消えるようにして。
あの、毛質の灰色の丸耳を雑踏の中に見出して。

矢も楯もたまらず、その少女の影を追いかけていた。

少女は振り向くと、足を止めて、赤い瞳を細めた。
まるで、彼女の他に誰もいないような錯覚に陥っていた。

彼女の鼻先が目の前にまで来て、
喉まで引き上げた言葉を全てのっくんでしまった。
目の前の血色の悪い顔はきょとんとしていた。

「あの…ッ、…何でもない」
何を思ったか反射的に踵を返して、また元の道を引き返そうとした。
袖を、掴まれた。

「私は君に用事があるぞ」

少女は仏頂面のまま、僕の袖をぐいと引き込む。
そんなに怯えないでくれ、という言葉がなかったら、僕は逃げ出していた。

「この芋のてんぷら、なかなかだな」
さく、さくと油の衣を噛みしめる音をさせながら、首を縦に振る。
小さな口に、大きなてんぷらを噛む様子に、敵意はうかがえない。

危惧していたような復讐はまだだった。

何をしようとしていたのか、すっかり忘れていた。
お腹が減った、てんぷらを奢ってくれないか。
彼女に持ちかけられ、目が点になるかと思った。

粗末な木の机を挟んで、一緒にてんぷらを食べる羽目、
そう言っては語弊があるが、一緒に同じものを食べている。

以前にも、こんなことがあったかもしれない。

こんな、空気が冷え切った青空の下で。


「君の家のだんごは本当においしいなあ」
ねずみのおねえちゃんが、屈託のない笑顔で、白い頬をなでる。
それが、嬉しくて、嬉しくてたまらなかったのだ。



「――ずっと、ずっと好きだった」


丸くなった赤い瞳。
豆鉄砲を喰らったような、呆然に近い顔。


僕が口を押さえたのは、あまりにも、遅すぎた。




つづけ