東方幻想明日紀 五十四話 秘密の刻印

魔法の森を抜け、帰路の田圃道に合流する。
後ろをつけてきた鶏(おそらく護衛のつもり)に軽く会釈をした。

鶏も、小さく会釈をした。
「お疲れさまだ。気を付けてな」
「うん」

この鶏喋れるんだ。今まで喋らなかったのはなぜだろう。
そんなことを気に留めつつ後ろを振り向くと、その鶏は回り込んだ。

「どうして驚かない。ただの鶏じゃないと思っただろう」
「多少は驚いたさ。お前がただの鶏じゃないのは薄々わかってる」
なんだ、驚かせたかったから今まで喋らなかったのか。

「俺がどういう鶏か当ててみてくれよ」
こいつめんどくせえやつだ。
しかし、適当に答えるともっと面倒だ。
考えるふりでもしておくと、何かと何かのハーフだとヒントをくれた。
当分帰してくれそうにない。どうせ鶏と鳥だろう。
まさか、これが目的でついてきたのか。
「答えは人間と鳳凰のハーフだ」

結論から言うと、持て余したので適当に茶を濁して撒いた。
余計な事を言って反感を持たれても困る。
父親か母親かは知ったことではないが、
鶏なんぞに不倫された人間が不憫でならない。

それにしても、珍妙な出来事だった。



素朴な八百屋に戻ると、人の気配がしない。
野菜も綺麗に片付いていて、倉庫も小綺麗だった。
油が切れていて、明かりを点けられない。
どこにも予備の油はない。

そのかわり、吸ってもいないたばこのやにの匂いが充満していた。
おじさんは大酒する男だが、たばこは忌避していた。

ただ事ではないが、手掛かりもないので闇雲に探せない。
でも、ここに腰を落ち着けても戻ってきそうにない。

後悔が、何度も僕の胃を押し上げる。
静かな絶望感に打ちひしがれていた。

どの可能性もあるが、諦観の念は拭えそうもない。
暗い畳の上に、白い物が割り込んだ。

でた、なんて驚く余裕もないが、見上げるとソナレノの影。
そして、目の前に差し出されているのは手紙だった。
「どこにあったんだ、それ」
「引出し」

手紙を奪い取り、外に出てその手紙を大きく広げた。
右上がりで太い抑揚の強いおじさんの文字が、はっきりわかる。

『親父が危篤だから帰る事にした』
裏返しても、それ以上の事が書いてあるわけでもなし。

おじさんは、親父が死んだ時の事を語ってくれたことがあった。
そんな口実で出ていくわけがないことは、火を見るより明らかだ。

誰かが、おじさんの筆跡を真似て書いたものだろうか。
店中を包む煙草ヤニ。ありえない口実の手紙。
それなのに、小奇麗な店の中。
頭が働くわけもなく、壊れてしまいそうだ。
でも、この感覚をどこかで知っていた。
身体の底の底に、刻みつけられていた。

これは、知っている。

けたたましく戸を蹴破る音で、唾を呑みこみ損ねてむせる。
背後を振り向くと、店の扉が壊されていた。
慌てて中に入ると、見知った後ろ姿。

「何してんだお前!」
呼び止めると、その影は振り向いて、歯を見せた。

「師匠〜ッ!」
間延びした声で、怒る気も失せてしまった。
格下げされて同格になったのに、なぜこいつはいつもいつも…
「で、わざわざ来たのはどうしてなの」
「ああ、緊急招集があったから来てくれると嬉しいと、ペディアス様が」

物言いを考えるにペディアスさんの上、即ち小春様の命令だ。
そして、来てくれると嬉しいというより、来いということだ。
余程のことなのだろう。

頭のもやもやを振り払って、砂銀と一緒に急行することにした。


門をくぐり、ススキの繁る荒廃した地を駆ける。
遠くに、人の小隊を取り囲むように、小さな狗や狛犬
その中央にイシュラさんの影。
見回しても、またソナレノはいなかった。
どうせ後でひょっこり現れるだろうと、こっそり人だかりの後ろの方に入った。


「なあ師匠、アヤク様がいるのはなぜだ?」
前の方を見ると、確かにイシュラさんの傍に背の高い青年がいる。
「なぜ僕が知っていると思ったんだ」
「ああ、だって懇意にして頂いてるだろ?アヤク様は丙部隊だし」

懇意にして頂いている…か。
確かに、アヤクさんがいなかったら、僕がここにいることはない。
だけど、それだけだ。
それよりも、別部隊の重役であるアヤクさんがここにいる。
光栄というよりは、胸騒ぎがした。

人だかりが、時間に伴い小さくなっていく。
前の方で並んでいた者は、どこかに行ってしまう。
一体、真ん中で何が行われているのだろうか。
前の一団が消えたら、いよいよ僕の番だ、という時だった。

「ヒカリくんじゃないですか。来てください」
アヤクさんが、僕の後ろに回り込んで、僕の腕をそっと太い手でつかんだ。
そして、無理やりに近い勢いで真ん中に立たされた。

獣の面影を残した年様々の男達の視線に、足が少しすくむ。
首に手をかけられ、その手を離される。

首には何も付いていなかった。
「終わりです。後で事情を説明するのでこの周辺にいてください」
そんな指示を受けて、僕は解放された。

少し離れた場所で座り込んでいると、同様の儀式を獣人たちに次々と施していた。
何やら、それは洗礼を彷彿とさせていた。

それが終わると、アヤクさんは僕のそばに歩み寄りしゃがみ込んで。
既に眠気が襲ってくる頃だった。
「腕、まくってみてください」
そっと袖をまくると、細い腕に漢数字で「三」と刻印が打ってあった。
これは…
「いいですか、これから一週間、誰も親しい人に触れてはなりません」

「もしも…むっ」
僕が言おうとした口を、大きな手がふさいだ。
そして、深い深い微笑をたたえて、アヤクさんはその手を離した。

「近々、大きなお仕事があります。それまでの辛抱ですよ」


つづけ

ねずみとヒトの恩返し 後編

幼馴染に謝辞と謝罪をしようとしたら、
つんのめって好意の告白をしてしまった。

僕の金で買った彼女のてんぷらを食べる手が止まるほど、
それは彼女にとって衝撃的だったらしい。
身動きが取れなかった。
心にもない事を言ってしまったわけじゃない。
頭の中が真っ白になっていて、取り乱すこともできなかった。

少し冷静ならば撤回しようとしていたかもしれない。
それこそ、自分の首を絞めることになるから結果的にはよかった。

ただ、この沈黙はなんともいたたまれない。

彼女の細い眉が、すっと緩んで、表情が柔らかくなる。
「失言癖は、変わっていないんだな」
まるで、飴を落とした稚児を諭すような口調だった。

その場から逃げ出せるなら、そうしている。
…順序を間違えただけだ。
もっと先に言うべきことが僕にはある。

「でも、今言う言葉じゃない」

ん、と彼女は小さく鼻をつままれたような声を出した。

そして、急にああと思い出したような声を出して、尻尾をまさぐる。
大きめの懐紙にくるまれた何かを、僕の神妙な表情とは裏腹に、笑顔で。

少し首をかしげて、懐紙を受け取って、開く。
形のいい黒胡麻の団子だった。

僕が最初にあの痩せた鼠に渡したのも、黒胡麻の団子だった。
あれから、僕の生活が変わった。

良し悪しを言うつもりはない。良し悪しは本来、最後までわからない。
こうして彼女の買ってきてくれた団子を食べることができるのだから。

団子を口に含んで、前歯を落として。

「ばっ…!!」
血相を変えたナズーリンが椅子を蹴飛ばして、僕に覆いかぶさって。

そこで、記憶は途切れた。



気が付くと、知らない和室にいた。
横には、正座している少女がいて。
その少女は命蓮寺だ、とぶっきらぼうに言った。
「効かなかったら、どうしようかと思っていたところだ」
安堵した声に振り向くと、少女は丸耳を萎れさせて、酷く疲れた顔をしていた。
「念の為、解毒薬を貰っておいてよかった。
 まさか君がこんなに肝が据わっているとは思わなくてな」

さすがに、僕もそこまで愚鈍なつもりではない。
試していたんだ。僕にあの毒団子を出して。

「気づかなかった…のか?」
信じられないような目をしていたから、恐々首を縦に振る。
すると、これでもかというほど肩を落として深く嘆息した。
「私を、鼠を見くびっていたのか」
詰問の調子だ。思わず、顔を退きたくなった。
「なぜ私が君の団子を使って揺さぶりをかけたか考えなかったのか」
僕がまだ疑問符を浮かべているのに見かねたのか、早口だった。
どうして僕が鼠を侮っていることになるのか、見当がつかない。

らしくない、言っていることが支離滅裂だった。
考えなかったものは考えなかった。それに理由を求めるなんて。
「わからない」
彼女はそれを言うと、我に返ったように息を吸い込む。
「でももし僕の薬だとわかっても、僕の薬だと思わなかったと思う」
自己暗示をかけて、隠蔽したはずだ。彼女が差し出した団子だから。

目の前の少女は、すっかり押し黙ってしまった。

「実は、あの時謝りたいことはそれだったんだ」
「…それがわかったから、あの時団子を渡したんだ」
怒り心頭に発していたのだろう。
毒団子を毎日持ち歩くほど、僕に問いただすこの機会を伺っていた。
裏切られたと思ったのかもしれない。

「人間は昔から鼠を多産、か弱くて、些細なものの象徴とした」
窮鼠の諺を持ち出す勢いだった。
「私も馬鹿ではない。毒薬の対策は容易だった。
 君の団子を握る手癖くらい、嫌というほどわかっていたからな」

もう言葉が出てこない。胸が強く締め付けられるのがわかる。
言い過ぎたと思ったのか、最後に遅い早いあれど、
寿命は理、鼠なら尚更だがなと、僕の顔を見て締めくくった。
「…本当に、ごめんなさい」
あまりにも、受け身だった。
僕が、自分の薬と知ってて飲んでたら少しは謝罪になったのに。
「君は、本当に成長していないな」
どこか皮肉めいた声は、遠くに消えていた。
また、長い沈黙が訪れた。

ちょっと厠と言って立ち上がろうとすると、何かに歩を阻まれた。
僕の腕を掴んでいるらしかった。

「君、右腕…」
だらんと下がった右腕を、彼女は目ざとく捉えていた。
僕の手のひらから、ぺちんという音が聞こえてきて。
惨状を把握した。利き腕が麻痺していて、感覚がない。

我ながら凄まじい薬を作ってしまった、参ったものだ。

黙って首を横に振ると、彼女はむきになって僕の指のあたりを握って、
曲がらない方向にゆっくり力を入れ始めたらしかった。
伝わってくるのは痛みではなく、彼女の華奢な指の震えだけだった。

それが、痛々しかった。
僕の指の感覚があるかどうかを確かめずにはいられなかったのだろう。

僕の顔色を見ながら、幼虫を潰さないぎりぎりを探るかのように。
やがて、バシッ、と乾いた枝を折るような音が、
僕の手元から聞こえてきて、彼女は慌ててその手を引っ込めた。
まるで夢から覚めたような、今まで見たことのない表情をしていた。

「よくも……よくもこんな薬を……」
誰ともなしに言った震えた低い恨み言は、畳に掻き消えた。

腕の麻痺も指の骨折も、すべては報いだ。
左手で腕を持ち上げると、桑の実と見紛う指が見えた。
きっと、妖怪だから力加減ができなかったのだろう。

簡潔に厠を教えてもらい、戻ると西日はすっかり深くなっていた。
帰ると告げると、送っていくよと能面のような顔で言う。

顎を縦に落とすと、少し胸のつかえが取れた。
今度は、意地を張らなくてもよかった。

白い息を吐き吐き、日も落ちて細くなった帰路を進む。
貸してもらった羽織の袖を伸ばすと、暖かかった。
「ところで、あの団子は何を材料にしたんだい」

思わず、腰を捻って彼女の顔を覗き込んでしまった。
今、こんな話題を持ちかけてくるなんて。
隠す事でもないが、いい話じゃないよと前置きをしておく。

「魔法の森で採れた、血を固める作用を促進するキノコを使った」
どこにでもありそうだが、その実悪魔の茸である。
ひとたび食べると即座に吸収され、全身にまばらに血栓を作る。
それが飛んで、対象は昏倒して各臓器で梗塞を起こし命を奪われる。

彼女が飲ませた解毒薬はおそらく抗血液凝固の作用を示す、
妖怪ヤナギの樹皮と一角貂の生腸が主だとは思うが…
誤飲するとまず間に合わないし、一角貂が希少すぎて手が出ない。

彼女が自力で調剤したとは思えないから、
僕よりも遥かに腕利きの薬売りがいるのは確かだが…

説明を終えると彼女はそうか、と憂悶に満ちた声を出した。
言わんこっちゃない。
すると小さな靴音が止まって大きな丸耳が横に揺れて、こっちを見つめる。

白い息が、小さな口から洩れた。
「…君はすっかり、薬屋になってしまったんだな」
月明かりが強くなった。
憂悶ではなく、寂寥の響きだということに、初めて気が付く。

思えば、彼女にとって僕の団子の意味はすっかり変わってしまった。
以前は口馴染みのある味、今や一族殺しの道具。
僕に彼女の気持ちを汲みとりきることは、きっとできやしない。

自分の犯した罪の重さを、今まで僕は毛ほども知らなかった。

道程の半分でじゃあこの辺でと告げると、彼女はもういない。
月明かりに伸びた遠い影を目で追うと、その失言を悔やみ始めた。

雲が月にかかり、細く暗く長い道を一人で歩く。
「明日からどうやって生活していこう」
「こんな手じゃ、薬を作るのも材料を採るのも難しい」
「今日はやたらと寒いね」
ひとりごとは、彼女と話した時より饒舌だった。
それでも、道の半分は過ぎていたのに、残りはやけに長く感じた。



翌朝、戸を弱く叩く音で目を覚ますと、外はまだ薄暗かった。
こんな時間に誰だろうと恐る恐る戸を開けると、雪が落ちてきた。

「やあ」
片手を小さく上げて、もう片手で穴開き笠の雪を落とす少女がいた。
大きな丸耳は、手拭いで何重にも巻かれていた。
まだ僕は寝ているのだろうか。

「ん」
彼女が近づいて頭を下げてきたので、思わず後ずさりしそうになる。
混乱した頭で、手拭いを解いてほしいと解釈した。
手拭いの温かみが手になじんで、僕の胸をせわしなくさせる。
幸い、その解釈は間違っていなかった。

ただ、我に返ると彼女がこんな早い時間にここにいる。
おかしい、何かあるに決まっている。
というか、それ以前に。
「なぜここを知っている」
少女はふふんと鼻を鳴らした。
「あいにく、私の特技はダウジングでね」
僕がおうむ返しすると、いわば捜索や探知だと付け加えてくれた。
「用件は何?」
「ああ、君の業務を手伝おうと思う」

いくら妖怪と言っても、やはり人に通じた心の動きがあるらしい。
彼女は責任感を感じていた…と考えるのは少し呑気だろうか。
一応左手だけでも調達は可能だし、商売も調剤もできる。
だけどせっかくの厚意を無下にできない。
何よりも、並大抵でなく浮かれている自分もいて。
嬉しかった。
「ありがとう!」

彼女は少し照れくさそうに、顔をそむけた。
お腹のあたりで手が遊んでいる様子が、こみあげるものを感じた。

僕の店は日が昇る前に材料を調達しに行き、
日が高くなる頃に戻ってきて、薬を作りがてら売り始める。
だから行ける場所も限られるし、大きな材料も取れない。

説明し終えると今日はいいのか、とくるもんだから、この雪と返す。
外は珍しく大雪で、これが収まるまでは寝ていようと思っている。
「軟弱だなあ、ご飯はちゃんと食べているのかい」
食べているわけがない。こちとら生活に困っているんだ。
あまり体力を使いたくないので、布団に戻ろうとすると阻まれた。
「ここまで来た私に退屈でいろと言うのか」
お前が勝手に来たんだろう。
折角だし、何かしようにもこの家には特に何もないはず、だが。

見ると、少女は黒い装飾のついた棒を二本、
昆虫の触覚のように動かしながら部屋中を嗅ぎまわり出した。
「何してるの」
「知れたこと、娯楽用品ぐらいあるだろう」
本気で迷惑な話だった。
「やめてくれ、ここは僕の家じゃないんだ」
駄目だ、目が爛々と輝いている…
制止も聞かず、とうとう彼女は戸棚から立派な将棋盤を取り出してきた。
悪戯を成し遂げた悪餓鬼のような顔をしていた。どうにも憎めない。
「さあ、さあ」
観念して膝を折った。僕は将棋を打ったことがない。
わからないなら教えてやるとでも言わんばかりに僕を見つめる。
ついでに、将棋は指すものだと教わる。
こんなに子供みたいだ、と思ったのは初めてだった。

「これが飛車だ」
「ひしゃ」
「そうだ。縦横、盤の中なら左右でどこまでも動ける。
 で、こうやって相手の陣地に入り込むと」
「裏返った」
「そう、これが『成る』というんだ」

彼女はこうして、一通りの駒の動きを教えてくれた。
取った駒は、自分で好きな時に使えるらしい。
「じゃあ、試しにやってみようか」
やっぱりか、と思った。覚えるだけでお腹いっぱいなのに。

彼女は駒の動きは教えてくれたが、戦法を教えてくれなかった。
前の歩を全部進めていたら、瞬く間に陣形が崩壊して負けてしまった。

二回目は、少しだけ負けるのに時間がかかった。
三回目は、相手の歩をいくつか取った。
四回目は、飛車を成らせることができた。

彼女は乗せるのがうまかった。

光が障子から射しこんで、開けると空は晴れて日は高かった。
時間を忘れて夢中になっていたらしい。
「ああ…昼は用事があったんだった。すまない、帰るよ」

結局、彼女は将棋を指しに来ただけだった。

戸棚に将棋盤をしまいこむと、一冊の粗末な褐変した小冊子。
開くと、将棋の戦法が書いてあったので、懐にそれを入れた。

結局材料の調達はできなかったが、店を開けることにした。
在庫を確認していると、常連の中年男がやってくる。
「おう、若主人」
嬉しそうだな、と続けてきたのでやんわり肯定した。
最近のことは口にしなかったけれど。

夕食の準備をしている時分、裏口を弱く叩く音。
どうぞと言うと、戸がゆっくり開いた。
まさかと思ったら、そのまさかだった。
「やっ」
朝よりも、挨拶が軽かった。
菜を千切る手を止め、視線を送る。

粗末なお椀に、千切った菜に塩をかけて、机に乗せる。
「それ、まさか…」
少女は凍り付いていた。
人の晩飯を見て凍り付かないでほしい。
「君はもっと痩せていてもいいんじゃないか?」
余程動揺していたのか、妙な事を口走っていた。
「一応薬で栄養補助してるからね。しかもこの草栄養あるんだ」
食べるかと持ちかけるともう食べてきたと素っ気なく返される。
「君、団子屋だったんだよな…」
団子だけに、やたらと蒸し返してくる。

薬の質を落とさないためにも、生活費をぎりぎりまで削らなければならない。
そのためには、日々野草や虫を食べるしかない。

質素な十秒飯を終え、彼女と一緒に薬を作った。
薬と言ってもただの漢方薬だけでなく、
自分自身で作る栄養補助の薬も豊富に取り揃えてある。
彼女は虫を潰すのもさほど抵抗がなかった。
正直、ちょっと抵抗を示してほしかったが、鼠だから仕方ないか。


あくる日も律儀に彼女は僕の店に顔を出してくれた。

「この配置は客避けにしかならない。もっと入り口を明るくしよう」
こんな提案をしてくれて、深々と納得したのでさっそく取り掛かる。

そんな努力の甲斐あってか、少しだけ、生活に余裕が出てきた。
ある日彼女がなかなか来ないことをいい事にこっそり買い出しに出た。

小さな袋を二つと水瓶を抱えて帰宅すると、
机の上にリンゴが二つ置いてあった。
誰の贈り物かは容易に見当がついた。
知ったら怒られるが、ありがたく薬の材料にさせて頂こう。

小さな作業机の上に、袋と水瓶と小鍋を置く。 
袋を開けると、白い粉が舞った。
止まった手を、再び動かすまでには時間がかかった。



翌朝、手を小さく上げて、少女は裏口で手拭いを解いて。
もうすっかり、なじみである。

手招きをすると、少女は首をちょっとかしげて入ってくる。
包み紙にくるんだ団子を差し出すと、表情が強張った。

恐る恐る華奢な手がそれを開くと、紅の瞳が丸くなって綻んで。
彼女が団子を小さな口に放り込むまで、あっという間だった。

何を言われたかは、憶えていない。
媚びを含んだその表情が、あまりにも強く焼き付いて。


「君の腕が治るまで、君の仕事を手伝うよ。監視がてら、な」
昼、いつまで手伝うんだと尋ねた時に、彼女は胸を小さく叩いた。

「治らないかもしれないんだけど」
同じ言葉は繰り返さない、そう言った彼女は屈託のない笑顔を見せる。

「…今日は一緒に材料を探しにいかないか」
彼女は裏口の戸を開け放した。

柔らかい日差しと冷たい風が一緒に吹き込んできて、身をすくめる。



春が、裏口の戸から広がっていた。




ねずみとヒトの恩返し 前編

眼前の弱い光が、僕のまぶたをゆっくりと指で押し上げる。
飛び込んできたのは、ぼやけた濃淡のある古い木の色。
斜めに差し込んだ茜色の薄らいだ光が、背後の窓から僕の膝に降りていた。

部屋を見回すと、小型の行燈が小さな木の机の上に置いてある。
その横に添えられるように、小さな二つの椅子があった。
どうやら、僕がいるのはただの粗末な小屋のようだ。

その小屋の壁に寄りかかって、気絶していたらしい。
腰を上げ、床から軋んだ音がしたかと思うと、腰と肩に痛みが走った。
再び座り込んで真下に目をやると、腕は麻布で吊られている。
丁寧に何度も巻いてあった。

直前の記憶については全部飛んでいるが、
察するに小屋の主が、負傷した僕をここまで連れてきてくれたのだろう。

その主らしき者は、今ここにはいないが。
ふと、小屋の入り口を見ると、一匹の太った鼠が入ってくる。
近頃鼠に悩まされた身なので、あまりいい気はしなかった。

顔をしかめていると、二匹、三匹…続々と入ってきて、傍に付く。
何だ、何なんだ。僕を食べる気なのかこいつら。
来るならこい、こちとらお前たちに恨みがあるんだ。遠慮なくやる。
腕だけ攻撃の構えをとると、今度は遠くから靴の音。
それはコオロギの鳴き声に交じって、コトン、カタンと大きくなる。

首を上げると、赤い細めた瞳が、まっすぐに僕を見つめていた。
その目が僕の瞳孔を捉えて、靴音は止まる。

「私の鼠たちに乱暴するのはやめてくれ。ほら君たちも離れて」
後半は優しく僕の足元の鼠に諭すように。

僕よりもいくつも年下に見える少女は、
濃灰色の窓付きスカートの端をそっと払って、僕の前にしゃがみ込んだ。
スカートの長方形の窓から見える、華奢な白い腿は目に毒だった。
鼠の面影はほとんどないが、その尻尾と丸い毛質の耳を見ると、疑う余地は失せた。

「私だ」
その少女の言葉を、頭のなかで繰り返したが、何も思い当たらない。
今までの記憶も、消えたはずの今日の記憶も。
返答に窮していると、まあいい、と嘆息。

これ、きみが手当してくれたのか、と頭には浮かんだ。
「あいにく、僕は鼠が憎くてね」
出てきたのは、お礼とは程遠い薄めた罵声。
口を押さえる手を上げることすらできなかった。
ただただ、目の前の硬い表情を、穴を穿つように見つめる事しかできなかった。
そうか、と彼女は小さくつぶやいた。
「君が魔法の森で倒れていたのを偶然見つけただけだ」
僕から目をそらして咳払いする様子が、やけに既視感を覚えて。
何かが脳に、注ぎ込まれるように。
目の前の少女に、違う意味が足されていく。

「ねずみのおねえちゃん…」
初めて眼前の重たい表情が、和んだ。

慌てて口をふさいだが、頭では記憶を反芻し始めていて、
もう止めることはできなかった。止めようとも思わない。


僕の実家は、人里の妖怪の山寄りに立地する団子屋だった。
昼夜を忘れる呑気な母親と、飼い猫にも雷を落とす厳格な父親。
二人とも、甲斐甲斐しくお手製の団子を人妖問わず売り、生計を立てていた。
僕は、その二人を手伝うひとり息子だった。

ある日、一匹の小さなやせた鼠が罠にかかっていたので、
かわいそうという幼気な子供心に任せて、罠を外してあげた。

お腹がすいているような気がしたので、団子もあげた。
その鼠は、血走った目で団子を食べた。
翌日から数匹の鼠が、僕に団子をせがむようになった。
それからというもの、両親にばれないように、こっそり団子をやり続けた。

それとほぼ時期を同じくして、僕よりもふたまわり大きい、
鼠のお姉さんがよく団子を買いに来てくれた。
ある日思い切って話しかけると、一緒に遊んでくれた。
優しくて、気のいいお姉さんだった。
ねずみのおねえちゃん、そう呼んで、慕っていたのを思い出した。

昔の話だ。


「鼠が嫌いなんだ」
ぶっきらぼうに言い放って、彼女を睨み付ける。
彼女は目をそらさずに、消えた表情のまま立てるかと声をかける。
まだ腰と肩に強い痛みがあるが、どうにか立つことはできた。

足を引きずって掘立小屋から出ると、
満月の下、辺り一面咲き乱れた彼岸花が揺れていた。

一度だけ、薬の材料を取りに来たことがあるから道はわかる。
間違えて踏み入れてしまったと言った方が正しい。
ここは、本来僕が来るような場所ではないからだ。

その際、帰路で妖怪に殺されそうになったのも、はっきりと覚えている。
そのうえ今は満月である。このまま帰るのは、綱渡りだ。
鼠風情に借りを作ったまま、道を尋ねるのも護衛を頼むのも嫌だ。

片意地は僕の命を捨てる決意を固めさせた。

「人間には危ない道だ、護衛する。あまり腕がたつ方ではないが…」
「付いてくるな。もう鼠に借りは作りたくない」

話を遮ると、むっとした様子が空気を通して伝わってくる。
「私が助けた命だ。ここで死なれては助けた意味がない。
 言っておくが、君に断る権利はないぞ」

それに、と前置きをして、彼女は息を小さく吸い込んだ。
「鼠、じゃない。『ナズーリン』だ」

それ以上彼女は何も言わずに、スカートを翻して僕の前を歩き始めた。
僕は足を引きずっているのに、いささか早足で。
複雑な気持ちだった。

僕は、本当なら彼女に感謝するべきなのに。
二度も、命を救われている。幼少の頃の恩もある。
何がこんなに謝辞を口にするのを阻んでいるのか、不思議だった。
喉にすら、上がってこないのだ。

僕は、こんなに鼠が嫌いだっただろうか。
憎くて憎くて、仕方がなかったのだろうか。

もちろん仕事柄、鼠には悩まされている。


ふと発作のように浮かび上がった、見たこともないような父親の形相。
七年経った今でも、忘れることはない。

とうとう、鼠にこっそり団子をやっていたことがばれてしまった。
生まれて初めて、頬を張られ、出て行けと言われた。
力なくさめざめと泣いて、こんな月夜に逃げるようにして家を出た。
当然、ねずみのおねえちゃんにも会うことは無くなった。

当て所なくさまよい行き付いた先は、気のいい老爺の小屋だった。
その老爺は、薬屋だった。
老爺はやがて咳をこじらせて亡くなったが、漢方の分厚い本と、
若い身に余るほどの潤沢な知識を僕に与えてくれた。

薬売りとして生計を立て、材料を手に入れに奔走する日々。
季節は何度も巡り、次第に、幼少の頃の記憶は薄らいでいった。
ねずみのおねえちゃんの事も、例外ではない。
生活も困窮しているなか、材料を食い荒らされてはたまったものではなかった。
この生活は、鼠との戦いの生活と言っても過言ではなかった。


だからこそ、彼女の行動に当惑しきっていた。


「さあ、着いたぞ。あとは大丈夫だな」
やがて、吐き気のするような瘴気の漂う魔法の森を抜け、
人里の入り口にたどり着いた。道程は短く感じられた。

振り向くと、もう彼女はいなかった。
結局、礼を言いそびれてしまった。

礼を言ったところで、恩を返せるわけではないと自分に言い聞かせて、家の方につま先を向けた。

今後、彼女に会うことはないだろう。
妖怪と人間、鼠と人間なのだ。相容れることは決してない。
今日の出来事の記憶もだんだん遠ざかっていき、無かった事になる。



「―若主人、最近浮かないなァ、悩んでるのかい」
「あ、そうですかね。元気ですよ」
常連の中年の男は、僕をよく見ていた。
わずかばかりの代金を貰い、
薬を渡して男の背中を見送る最中にうっかりため息が漏れた。

何日経ってもあの出来事を忘れることはなかった。
そればかりか、日増しに鮮明になって僕の胸を軋ませていた。

再会を喜べなかった。助けてくれたお礼を言えなかった。
全て、鼠への恨みにかこつけた、下らない意地で。

確かに、暮らし向きは楽ではない。鼠にもほとほと困っている。
だから毒薬の知識を駆使して、毒団子を作った。
鼠に困っているのは、何も僕だけではない。
事実その毒団子は、よく売れている。
何を隠そう、さっき男に渡した薬も、その毒団子だ。
あの日までは、この毒団子をのうのうと売り捌くことができた。
住民のため、生活のため。

もう、そんな言葉を心内で唱えることはできなかった。
そして、もう彼女に会う術は、ない。
ただの胸の痛む独り相撲だった。


ある朝、いつものように店を開ける準備をすると、
四肢を投げ出した小さな鼠の死骸が目についた。
激しくもがいた痕跡から、どうやら僕の毒餌を食べたらしい。
立てかけてある火ばさみを取った。

鼠の死骸の前に来ると力が抜け、その火ばさみを落としてしまった。
その火ばさみを拾い上げる気が、どうしても起こらなかった。
痩せた鼠はあばらが浮いていて、
僕が幼少の頃に最初に助けた鼠によく似ていた。

手でその灰色の毛玉を拾い上げると、ほんのり温かくて硬かった。
庭に出て、軽く地面に穴を掘ってその鼠を埋めた。
手を合わせて目を閉じると、身が打ち震えるような感覚に襲われた。

次にするべき事は、わかっていた。

大きな麻袋を部屋の奥から引っ張り出す。
売り場に戻って、小分けにされた袋の中身を全部その麻袋の中にぶちまける。
店の奥に置いておいた作り置きしていた団子も、全部麻袋に放り込む。
黒い団子がぎっしり詰まった袋を引きずって、庭で逆さにした。
ぼたぼたと音をさせ、頂が膝くらいの高さの黒い山が出来上がった。

山の前でしゃがみ、火打石を懐から出して強めに叩き合わせる。
やがて、鮮やかな紫色の煙が山から立ち上ってきた。
今まで嗅いだことのないような匂いが鼻を突き刺す。

黒い山に紫苑色の火柱が立つ頃には、
胃袋を素手で引きずり出すような激臭に耐えかね、屋内に逃げた。
目がひりひりして仕方がない。

それにしても、よく燃える。
燃料にすればよかったかもしれないとも思ったが、
こんな物凄い煙が屋内に充満する事を思うとぞっとした。

余談だが、近所の人が何事かと駆けつけて大騒ぎになっていた。
上にもこの話は届いたらしく、僕はしばらくの謹慎処分を下されることになった。

でも、心なしか、幾分胸のつかえが下りたような気がした。

前より一層売り上げは落ち、ぎりぎりの生活にはなった。


「はて、耳慣れねえなあ。無縁塚の話はついぞ聞かねェからなあ」
お得意様の例の中年の男は、あの毒薬を焼いて以来、
以前よりも買い付けてくれるようになっていた。

礼を言って男を見送ると、そのまま荷物を整えて店を閉めた。
方向が男と同じだったため、男を抜き去ってはにかんだ。

「ちょっと、『薬の材料を探し』に」
男は、何も言わずに老獪な笑みを浮かべた。
僕の嘘を見抜いていた。



――再び店を開けたのは、その日の夜だった。
透明な雪が、空の方でちらついていた。

もう、そんな季節になっていた。

彼女と再会した帰り、ぼんやり見た紅葉をたっぷりつけた木は、
枯れ木になってぽつねんと佇んでいた。

今までの懺悔と、謝罪と、また会えたね、という言葉を、まだ。

「……ナズーリン

この名前を、何度呟いただろうか。何度、人に尋ねただろう。
しかし、この名前を知っている人は、苦々しい顔をする。
捨て台詞まで、吐かれてしまう。

ひょっとして、彼女が無縁塚に住居を構えている理由は…


だとしたら、どの面下げて僕は彼女に会えばいい。
何がお互いにとって幸せなのかを考える時間は、十二分にある。

ひとつの結論が出かかっていた。

断行できずにいた。



薬を患者さんの家まで配達して帰りを急いでいると、
多くの人妖が石段を登っては、降りている様子が目に付いた。
子供の綻んだ笑顔と、手に持った飴細工で、すぐに祭りだとわかった。


急ぎの用事もないので、腹ごしらえでもしようかと石の段に足を乗せる。
石段の頂上に、青空に交じって灰色の紐が揺れて、消えた。
僕の中で何かがほどけて、吹っ切れた。

人の波をかき分けるようにして、石段を二段飛ばしで駆け上がって。

屋台が中央に斜めに集まるように、中心で消えるようにして。
あの、毛質の灰色の丸耳を雑踏の中に見出して。

矢も楯もたまらず、その少女の影を追いかけていた。

少女は振り向くと、足を止めて、赤い瞳を細めた。
まるで、彼女の他に誰もいないような錯覚に陥っていた。

彼女の鼻先が目の前にまで来て、
喉まで引き上げた言葉を全てのっくんでしまった。
目の前の血色の悪い顔はきょとんとしていた。

「あの…ッ、…何でもない」
何を思ったか反射的に踵を返して、また元の道を引き返そうとした。
袖を、掴まれた。

「私は君に用事があるぞ」

少女は仏頂面のまま、僕の袖をぐいと引き込む。
そんなに怯えないでくれ、という言葉がなかったら、僕は逃げ出していた。

「この芋のてんぷら、なかなかだな」
さく、さくと油の衣を噛みしめる音をさせながら、首を縦に振る。
小さな口に、大きなてんぷらを噛む様子に、敵意はうかがえない。

危惧していたような復讐はまだだった。

何をしようとしていたのか、すっかり忘れていた。
お腹が減った、てんぷらを奢ってくれないか。
彼女に持ちかけられ、目が点になるかと思った。

粗末な木の机を挟んで、一緒にてんぷらを食べる羽目、
そう言っては語弊があるが、一緒に同じものを食べている。

以前にも、こんなことがあったかもしれない。

こんな、空気が冷え切った青空の下で。


「君の家のだんごは本当においしいなあ」
ねずみのおねえちゃんが、屈託のない笑顔で、白い頬をなでる。
それが、嬉しくて、嬉しくてたまらなかったのだ。



「――ずっと、ずっと好きだった」


丸くなった赤い瞳。
豆鉄砲を喰らったような、呆然に近い顔。


僕が口を押さえたのは、あまりにも、遅すぎた。




つづけ

東方幻想明日紀 五十三話 異国の少女と帰り道

帰り道にソナレノから色々調べてきたけど、と切り出された。
言いたい事だけ言って、道の半ばで姿を消した。
言っている内容もわざとまとめていない。
僕に考えさせるためかは知ったことではない。
彼女が何も考察をしないのなら僕が考えるしかない。

鈴虫の音が、冷えた空気と相まって心地いい。

「あの世界、平和だね。略奪もなければ食料の枯渇もない」
「そうだね、まるで桃源郷だ」
言われた時はそこまで考えはしなかった。
滔々とした切れ目ない、たわいもない話の一部だったから。
記憶を逆さになぞるようにしていくと、指はわだかまりで止まった。
「どうやらあの地下都市には、三つの部隊があるね」

甲乙丙、三つの部隊だ。
それぞれ総務、警備、人事という具合になっている。
僕は警備担当の乙部隊に所属している。

略奪も食料の枯渇もない。

そんな状況で警備がどの程度の意味を持つのか。
必要があるにしても比重が大きいわけもなく、総務に組み込めばいいことだ。
それなのに、なぜ警備でひとつ部隊を形作ったのか。
人数も、かなりのものだ。
あの都市では食料は勝手に支給される。
働きに応じてではなく、在籍するだけで、だ。

たえず外敵が侵入してくる、これしか可能性は考えられない。
一応あの都市は地底と地上の中間に位置しているし、
何よりも僕が相手をしたのもさとりさんの妹だ。
いや、待てよ。
あの地下都市は、簡単に侵入できないようになっているはずでは…
それも単なる物理的妨害ではない、そんなことをペディアスさんは言っていた。

さとりさんの妹が入ってきたのは例外としても、
乙部隊そのものの必要性とは…?
存在しない侵入者に対して、延々と力を蓄え続けることの意味。
…自分の中で、少しばかり霧が晴れた。

駒として、僕は果たせるだろうか。



道程の、なかば。
一羽の雄鶏が、暗闇でしだり尾を優雅に揺らす姿がふと目に留まる。

その様子を見つめていると、鶏は振り向いた。
はっきりこちらを一瞥すると、また向き直る。
思い込みかもしれないが、こっちにきて、そう促すかのように。

袖を引かれる感覚を覚えた。


大きく向きを変えて、その雄鶏についていく。
その目指すべき方角は、おおよその見当がついた。

魔法の森だ。


森の入り口に差し掛かった時、少々尻込みをした。
昼でも薄暗いし、不気味で瘴気が漂っているのに、今は夜。

やがて、穏やかな薄い黄色が森に降りた。

出てきた月明かりに、雄鶏の色が朧気に浮かぶ。
一見普通の鶏だが、その長い尾と鶏冠は真紅。
純白の羽毛の下に、何やら鱗のようなものが垣間見える。

そんな不思議な雄鶏は、飛びもせず浮いて進むかのように歩く。
夜露と不気味な声のこだまする足元を走り抜けて、しばし。

突然、視界が開けた。

真っ先に視界に飛び込んできた、紫とも藤色とも藍色ともつかぬ幽玄の色。
それは、虹のかかった淡い月明かりでも否応なしに僕を引き留めた。

その根本、ぼんやりと浮かぶ膝を抱えた小さな影があった。
暗がりでよくは見えなかったけれど、膝で胸を抱えた猫背。
頭には、乗かっているような小さな帽子。
そこから伸びる二本の触覚が、急角度の放物線を描いていた。

顔だけは、低い空を仰いでいた。
顔立ちも表情もわからない。
それでもその小柄な丸顔の先にある視線は、
虚ろと言う言葉では足りないほど虚ろだった。
山の向こうを通して、もっと遠く。
その喪失感に溢れた視線遣いに引かれるようにして、
僕はその鈍暗い木の根本に近寄った。

近寄っていくと、やはりそのシルエットは少女のものであった。
おそらく、僕よりも一回り大きい。
人間の少女で言うと、十代前半だろうか。

服装も、わかってきた。
最初は全裸かと思ったが、薄手のタイトな服らしい事がわかった。
半袖半ズボンに、すねと前腕を覆う筒状の布。
服の形状までわかるほど近づいても、その少女は空を見ていた。

彼我の距離、五十センチ。
気がつくと、そこまで僕は近づいていたのだ。

突然、火花が飛ぶような勢いで視線が合った。
考える暇もあらばこそ、いきなりその少女は立ち上がって、
力なく僕の体に覆い被さってきた。
体全体を包むような体温。何とも比喩の利かぬいい匂いがした。
振り払おうと思えば地面に叩きつけることができただろう。
けれど、そんな気は起きなかった。
あまりにも弱々しく、すがるように細い女の子の指が
僕の脇腹に巻き付いていたからだ。

お互いの呼吸の音が、何往復した頃合いだろうか。
急にはっという息の音と一緒に、
柔らかくて温かい感触がすっと離れていった。

そして少女は、氷が溶けるように静かに泣き出した。
声を出すほどの力はもう残っていないらしく、
下げた顎先からからとめどなく落ちる水滴が月夜に光っていた。

僕はそれをただただ見つめていることしかできなかった。

きっと、誰かと僕を間違えたのだろう。

「落ち着いたか」
少女の顔が乾いて、呼吸も静かで深いものになってからしばらくした頃を見計らって、損なことを持ちかけた。

「うん。ごめんね」

一体どうしたんだ。言った瞬間に口を塞いだが、時間は戻らない。
こんなに消耗している子の傷を、杭でえぐってしまった。
謝るのもおかしな話だった。
「他人事だと思えなくて、放っておけない」
だから、これだけ付け加えておいた。
共感できると言ったのは彼女の気持ちを無視する事。
そんな簡単な事実に気づくのに、そう時間はかからなかった。

「私の友達に、よく似ててさ。だから、つい…急にごめんねっ」

大丈夫、それだけ言うと、彼女もそれ以上何も言わない。
少女の声は高かったけれど、トーンは果てしなく低い。
そして、僕の胸によく刺さった。

暗がりのその姿は、夢でも見ているような気分にさえなった。
さっきの言葉は、決して詭弁なんかじゃない。
本当に、他人事に思えないのだ。

うまく言えないけれど、僕の中に共感できる何かがある。
根拠もないし、確信すらない。
彼女の空元気の相槌から、どれくらいの沈黙が続いただろうか。

ふいにさっきの雄鶏が、少女の抱えた膝と胸の間に割り込む。

「この鶏が、案内してくれた」
「そっかー…ありがとね、丁子」

ていし、と呼ばれた鶏は嬉しそうに頭を震わせた。

「丁子っていうのか」
「うんっ。すごくいい子だよ。そういえば名前を尋ねてなかったね」
ヒカリと名乗ると彼女はいい名前だねと褒めてくれた。
僕自身は、どうにも安易な名前のような気がしてならないが。

きみは、と尋ねると彼女は困ったような顔をしてしまった。
名前がないのか、なんて野暮なことは尋ねまい。口が裂けても。

ただ、諭すように彼女を見つめていた。

「…丙」
ひのえと、小さくか細くつぶやいた。
後ろめたさが、声に籠りきっていた。
でも、僕にはそんな響きは一切聞こえない。

「いいねえ〜」
いい名前と言おうとして、気が動転したのかもしれない。
くすっと彼女が笑ったのを契機に、僕も笑った。
小さく手を振ると、彼女は微笑んで手を小さく横に揺らした。

後腐れなく、僕はその彼岸花の花畑を後にした。

後ろを振り向くと、護衛のつもりなのだろうか、
雄鶏の丁子が心配そうに後をつけていた。

大丈夫だってば…

行きと違い、足どりは前のめりで、幾分慌ただしさを伴っていた。
はやく、おじさんに顔を出さないと。


つづけ

東方幻想明日紀 五十二話 蝿の仕返し

どうにかして、巨大な翼を持つ少女との戦闘を回避できた。
溶岩に落ちるか、溶岩に落ちるか、彼女と戦うか。
考えてみれば三択だった。もちろん行先は全て死だったが。

そんな危機から生還できたのも。

僕の背中で深い息をしている、持病で倒れた少年、ペディアスさん。
黙っていれば可愛げのある少年だが、どうも掴めない。
彼が僕の首を手刀で気絶させて助けてくれたのだ。
ただ、疑念はいくつかある。

僕を助け出す時に気絶させる必要性はあったのか。
何よりも、その時の攻撃があまりに強すぎた。
僕は生まれつき血の量が少なく体も頑丈だから助かったが。
本当は、僕を殺す気だったんじゃ…

ただ、部隊の副長を務めるような方だ。
力の制御ができなかったのかもしれない。

近代的な装飾の施されたゲートをくぐると、ほっとした。
西日は射す。この人工の世界でも、例外ではないらしい。
違和感を何も感じないあたり、この茜色は

洞窟や灼熱地獄は、しばらく見たくないものだ。

と、同時に、目の前に黒着物を着た短い黒髪の少女の姿。
少しだけ頭を捻ったが、すぐに出てきた。七つ鬼火の小春様だ。

僕に向いたくりくり黒い瞳は、けげんそうな色をしていた。
正確には、僕じゃなくて。

「ああ、倒れたか」
いかにも舌打ちでもしそうな雰囲気である。
心配しているような様子は、微塵も感じられない。

「僕を助けてくれたんです」
「そう言えと言われたんだろ?起きることないから吐いちまえよ」
華奢な白い腕が覗く黒い余る袖を組ませながら、小春様は口許を苦く固める。

「…にしても首、大丈夫か?」
「あ、全然平気です」
慌てて首を隠すと、彼女は嘆息する。

「『全然』って使うときは最後に打消しを付けろ」
「は…は、はい」
まさかここで文法の訂正を迫られるとは思わなかった。

「まあいい。俺、こいつが嫌いなんだよ」
一応適当な相槌を打っておくが、わからないわけがない。

「…」
今度は、少し視線を上げた先、僕をまっすぐ見つめて思案顔。
立場が立場だけに、委縮する。
彼女自身、ころころ話題を変えるからやりづらい。
性根は良さそうだから、顔色を真剣にうかがう必要はないとは思う。

「お前の名前、何だっけ…いや、まて今思い出す」
この苦悶に満ちた真剣そうな表情を見ると、それは確信になった。
やはり、彼女は真面目なのだ。
こんな平の僕の名前くらい、憶えてなくてもいいのに。
いいですよと彼女に促すと、そのままの表情で手のひらを僕に向けた。

ノーザンライツか、サザンクロスのどっちかだったはずだ…」

そんなお洒落な名前だった時は片時もない。
一応、ノーザンライツ(オーロラの意)はかすってる。

前者が惜しいです、そう告げると彼女はぱっと顔を明るくした。
「極光だな!!」

少しずつ近づいている。ただ、きらきらした瞳になるほど近くない。
できれば、オーロラから離れてくれると嬉しい。

結局「じゃあ、名無しか…」とか腕を組んで呟きだしたので、
ヒカリという名前を告げた。彼女はそうだったっけかと頭を掻いた。
痴れ者じゃないのはわかるけど、どこかずれてる。
強者である彼女の強い人間臭さを見て、複雑な思いが巡る。

「――ところで、どうしてここにいらっしゃるんですか?」
話が一段落したところで、話題作りにも似た疑問を投げてみる。

「えっ、俺ここの部隊長だけど」
思わず血の気が引いていくのが自分でもわかる。
謝ろうにも、口が重くて開こうとしない。

「ヒカリさんは新入りですし、
 小春様はここに普段いないですのでお気になさらないでください」
黒い着物の後ろからおかっぱ顔がのぞく。
音もなく、白い薄衣を重ねた僕くらいの背丈の幼女が前に出てきた。
小春様も両手を上げて驚いている。

「乙部隊部隊長補佐の、ののです。どうぞよろしくお願いします」
あまりにも丁寧すぎる挨拶に、それ以上の返しはできなかった。
委縮するばかりで、不完全な敬語で返さざるをえなくなった。

「とりあえず、ペディアスさんどうしましょう…」
「あー、東の端に森があるんだ」

小春様が人差し指を立てて、もう片手で東を仰ぐ。
体調なら、彼女の特効薬の場所でも…
「そこに埋めるか」
言いたいことは山ほどあるが、僕は立場上とやかく言えない。
言えるわけがない。

「奴が臨終したらお前かイシュラが副長になるんだろ?
 まあここにいるのが長い事を考えるとイシュラだろうが」
爛々と輝く黒い瞳を見ると、思わず尻込みする。

「小春様、ヒカリさんはもう四つ鬼火じゃありません。
 ペディアスさんに試験と称してひとつ鬼火を剥奪されたのです」
そう言うが否や、のの様は僕の横に音もなく詰め寄る。

そして背後で、トットッと、液体を静かに注ぐ音が…冷たっ。
思う間もなく、今度は首に冷たい水を含んだ手の感触が往復する。

「傷薬です。あなたなら数秒で完治しますよ」
一体どんな薬だろう…少なくとも僕の理解の範疇ではなさそうだ。

夕日が落ちかけて、荒涼とした地にぽつねんと佇む小屋を見つけた。
掘立小屋のような粗末で小さい廃屋に彼女を運び込んだ。

見た目は廃屋だが、中は清潔な豪邸を期待していた。
その期待は、見事に裏切られた。
屋根と枯草の床、畳食う虫も住まぬような場所だった。

「礼でも言ってほしそうな顔をしてますね」
「ののがいなかったら山中に棄てて蟻の餌にでもしたんだがな」

帰りたい。

日常茶飯事の口喧嘩の空気じゃない。一触即発である。
お互いの溜まりに溜まった不満が漏れだしてきている感じのそれだ。

それにしても、階級が二つも違うのにペディアスさんは果敢だなあ…

そんな二人を尻目に、のの様は僕にこしょっと耳打ちをする。
迎えが来ているので帰っていいですよ、と。
僕は忍者だと心の中で何回も唱えて、抜き足差し足。
助け船を出してくれたのの様に会釈をして、狭い修羅場を後にした。

外に出ると、まぶたの重そうな緑髪の少女と目が合う。ソナレノだ。
今までどこにいたのか尋ねると、まあいろいろ、と茶を濁された。

どうせ神出鬼没だし、姿を晦ますことなんてよくあること。
ただ、消耗しているのは初めて見たし、何よりも口が重そうなのが気になった。

「一緒に帰ろう。あったかいお茶でも入れるよ」
「どうしたの?今日は随分と優しいね」
擦り切れた笑顔が、その珍しい反応が。やけに喪失感を煽っていた。

「そなって呼んで」
「やだ」


もう長い間、おじさんに会ってない。
どこに行ってたなんて野暮なことは訊かないだろうが、
心配しているかもしれない。何も連絡も寄越していないのだから。


道のりは長いはずなのに、足は急いていた。



つづけ

東方幻想明日紀 五十一話 灼熱地獄とアンテナペディア

ひたすら体が持ち上げられる感覚に、いまだに慣れずにいた。
自分は落ちているのかどうかさえ疑問に思うほど、長い。

だんだんと気温が上がり、下方が赤熱しているかのように、
薄赤くぼんやり発光しているのが分かった。

視界が明るく、赤くなるにつれ不安は大きくなる。
真下は、溶岩である可能性だ。
既に焼けそうなほど暑いが、まだ落ちているのだから、それはつまり。

次に瞬きすると、ゆっくりと朱く流れる粘性の川が近づいてくる。
その水面が、遅々と流れていたのをすぐに溶岩だと察した。

目を閉じた瞬間に、首が急に締まって、体が急に上に持ち上がる。

再び目を開けるとさっきのように、
目の前すべて、一様に溶岩がゆっくりと流れていた。
ただ、違う点があるとすれば…
「あなた、間違ってここに落ちてきたの?飛べる?」

落ち着き払った知性を伴った女性の声が、僕の頭上から響く。
襟首を掴まれているのだろうか、何にせよ、助かっ…。

「待って僕飛べない!放さないで!」
襟元の手が一瞬緩んだと同時に、思わず叫んでいた。
動悸が激しくなっている。こんなの、いつぶりだろうか。
強い生への執着を覚えたのか、それとも。

「どうしてここに?」
くらくらする頭を起こして、静かに思い出す。

「私が投げ入れたの」

ふいに横を見ると緑色のスカートから、細い白い足が伸びていた。
黒いブーツの下には、溶岩の海が広がっている。

「にしても、おくう少し見ない間に変わったね?見た目も…力も」
「えへへ、やっぱりばれた?」

僕を助けた人はおくうというらしい。
ガールズトークが始まっている中、
僕は宙ぶらりんのまま忘れ去られている気がしてならない。

「そりゃわかるよー。だって、すっごく無骨な力だもん」
「ふふん、当然。私は神の力を手に入れたんだもの」

その力は誰にもらっただの、そんな話が数回交わされた辺りだった。
「まあどうでもいいや。お姉ちゃん知らない?」

落ち着いた声がここにはいないと答えると、ブーツの足は消えた。
僕は、ここにひとり取り残された。

「あの、僕もここから出してくれないかな」
僕が首を上に伸ばして、女性を見上げようとする…が、首が上がらない。

「聞いてる?」
「…貴方、腕には自信がある?」

唐突な逆質問に、耳を疑う。
理由を問い返すと、女性は少しの間、抑えるように笑っていた。
「決まってるじゃない。新しい力を試したいの。
 鉄塊すら蒸発させる神の火を私は手に入れたわ」

どうやら、はったりではなさそうだ。当然、僕の出る幕ではない。

「ないと、言ったら」
「この手を放すでしょうね」

死ぬか、さもなくば死。僕はこの二択を強いられた。
こんな理不尽を突き付けられるのは、
おそらく今後数回も味わうことはないだろう。

こうなったら、一か八だ。

「わかった、相手になろう。多少は腕が立つからね。
 だけど、僕は飛べないので、まずここから出してほしい」

逃げようという算段なのは言うまでもない。
それなのに。
「私に盾突くほどの強者で飛べるか否かは、貴方の気合いの有無ね。
 さあ手を放すわよ。飛ぶ気がないなら溶けて死ぬほかはない」

こいつ馬鹿じゃないの。ほんと馬鹿。
「やめてやめて!僕飛べない!」
「飛べる!あなたは飛べる!さあ力を抜いて!」

傍目喜劇。我が身悲劇。明日はどっちだろう。

「おいおい、子供相手にみっともないことしてるな」
頭上から、聞いたようなどこか気力の削げた饒舌が響く。
この声は…
「あら、今日はお客が多いですね。何の用かしら」
「間欠泉を止めに来た。お前はさとりとやらのペットだろう?」

頭上で、緊迫した会話が行き来する。
ちなみに、僕の視界にはずっと溶岩がゆっくりと流れている。
既に緩やかに流れている溶岩を見ると、
気持ちがそこはかとなく落ち着いてくるまでになっていた。

余裕が出て、僕は声の主を記憶の海に探していた。

「お前、あの時の子供だろ?災難だなあ。
 どうしてこんなところにいるんだ?」

声の主が、僕の視界に割り込んだ。
その顔が見える前に、既に箒の先端が僕の記憶を穿り返していた。
彼女は白い歯を見せると、黒い大きな鍔の魔女帽をくいと上げた。

あらかた事情を説明し終え、彼女の肩に乗せてもらうと、
仮にも一度は僕を助けた声の主を目の前に見据えることができた。

その少女のシルエットに、目を奪われた。
凛々しい顔立ちに、巨大なの烏の翼。星空をあしらったマント。
そして、目を引くのは右手に付いている砲塔のような赤茶けた無骨な柱。

その姿をまじまじと眺めていると、突如、僕の首に何かがめり込んだ。
わずかな間に、ゆっくりと視界が揺れて、暗闇に放り出された。


ふたたび目を覚ますと、目の前には振り子のように揺れる二つの柱。
その二本の柱の間で、ゆっくりと景色が前へ前へ進む。

その柱が帽子だとわかった途端に、状況を把握した。

「ペディアス…さま?」
「ですよ」

抑揚のない声が、真下から洞窟に反響する。
恥ずかしながら、僕はペディアスさんに引き取ってもらったらしい。

「ああ、降りなくていいですよ、怪我してますし」

怪我?と尋ねると、気絶させるときの手刀が強すぎたらしい。
実際に首元を触ると、粘っこい嫌な感触がした。
…僕をあの場で殺める気だったのだろうか。

不穏な邪推はいい。それよりも、言わなきゃいけないことがある。
「その…ありがとうございます」
「お礼なんかいいですよー。それよりも尋ねたい事があるのです」

ペディアスさんは、僕の返答を待たなかった。
「どうして、与えられた仕事ひとつこなせないのですかー?」

警備をする以上、脅されたのは持ち場を離れる口実にはならない。
それは、僕でもわかることだった。

返答に窮していると、ペディアスさんは大きく嘆息した。

「ですが叱るつもりはありません。元々君には期待してないですから。
 君の口からさぼった、と聞けば今日の事は水に流しますよ?」

その一言で、少しだけむっと来た。
「言質を取ってどうするつもりですか」
思わず、立場を忘れてこんなことを口走っていた。

「へー…私が君に対して求めるものは何もないのに、
 どうして言質を取らなきゃならないのですか?ん?」

助けてもらったはずなのに、腹の虫がおさまらない。
どうも、こいつの事は好きになれそうにない。
小さいことであまり憤慨しないたちだが、彼の言動が癪に障る。

洞窟の中は、しばし乾いた靴の音だけが大きく反射する。
しかし、それもそこまで長い間ではなかった。

「…うっ」

靴の音が止まり、視界もそれに合わせてぴったりと止まる。
ペディアスさんがうずくまると同時に、彼の背中から降りた。

まもなく小さな体躯は背中を丸めて、激しい咳と一緒に上下に震えた。
彼の小さな口から、少量ながら鮮血が滴り落ちる。
「とりあえず、壁に寄りかかってください」
「うるさい…指図するな」

よほど余裕がないのか、その少女のような顔をしかめたまま、
違和感のある口調で僕の提案を押しのける。
肩で息を始めて少しの間をおいて、彼を洞窟の壁に寄りかからせた。
そして、そのまま気を失ったように、首ががくんと下がった。

高めの鼻の下に指を置くと、小さいながらも深い呼吸が見て取れた。
どうやら眠ってしまったようだ。

ただでさえ、この洞窟は暑いのだ。熱を逃がさないと…
彼の触覚のような長い帽子に手をかけて、上向きに引っ張る。

柔らかそうな髪の毛から覗く、真っ黒な光沢のある、細くて硬いもの。
おそるおそる取り払うと、思わず息を呑んだ。

彼の頭からは触覚ではなく、蝿の脚がそっくりそのまま生えていた。
こんなの、初めて見た…

こっそり帽子を再び被せて見なかったことにすると、
今度は僕が彼の肩を背負って、道の続きを歩みだした。

僕よりも背が高いくせに、彼の身体はやけに軽く感じた。


つづけ

東方幻想明日紀 五十話 無意識の邂逅

ここに所属して多少の時間が経っているが、やっと初仕事が舞い込んだ。
向こうに見える人影をこの外に追い返すこと。

鼻息を荒くして、駆け抜けた。
浮かない顔をしたソナレノも横について、人影を目指していた。

「どうしたんだよソナレノ、普段はもっと明るいじゃんか!」
ソナレノは、前、とでも言うかのように顎をくいと上げた。

顔を前に戻した瞬間、目の前に火花が散って、バランスを崩した。
腰を打ったが、何よりもぶつけた頭が痛い。

「言わんこっちゃない…」

言ってないじゃん!!
ソナレノのぼやきを聞きながら頭をさすると、我に返った。

「ご、ごめ…」

謝ろうと目を開けると、そこには僕を捉える真っ白な瞳孔。
焦点が少し遠くに合うと、黄緑の髪、白い肌のかわいらしい丸顔。

背格好は、僕よりもふたまわり大きいくらいだろうか。
目の前の黒い丸鍔帽子をかぶった少女は、にっこりと笑った。

次の瞬間、自分の頬にバシンと音が響き、首が痙攣したように張った。
頬を押さえて、少女に殴られた理由を回らない頭で必死で考えた。
目の前の少女は首をかしげて、さっきと同じような表情でにこにこしている。

「ごめんね、ぶつかって悪かっ…」

言い終わる前に、今度はさっきよりも強い、
首をもぐような勢いの平手打ちがノーモーションで同じ頬に飛んできた。

正直、逃げたい。初仕事なんだけど、逃げたい。

「貴方、私が見えるのね!」
しまいには、倒れた僕の両腕をつかんでこんなことを言われる始末である。

この少女、でたらめだ。

警備というと、こいつを追い出さなきゃいけないんだな。
いや、もう戦意は喪失しているんだけど。
しかも、ソナレノはいるのかいないのかわからないけど、手助けひとつしない。
よっぽどまずかったら駆けつけてくるだろうけど…


「ここに何しに来たの」
得体の知れない少女にマウントを取られている恐怖感と、
頬が腫れているせいか、少々喋りづらい。冷や汗もすごい。

一歩間違えば、次は子供が出来ぬ体になるかもしれない。
もっとも、相手はいないけど。

地霊殿を探しているんだけど、どこかなーって」
これは、質問ではない。脅迫と同義だ。

「わかった、案内するよ」
一応、警備の仕事も兼ねているし。
さっきは命と天秤にかかっていたから忘れ去っていたが、両立できるなら遂行するまでだ。

だが、待てよ。ここで気安くこの子を案内していいのか。
地霊殿には、一時の出会いだったが知り合いがいる。恩もある。
「ちなみに、用事は?」
向かう前に尋ねることができた僕は賢明だったと自賛しよう。

「言わなきゃだめなの?」
また、僕の度胸を試す機会がやってきた。

「ごめんなさい、さあ行きましょうか」
誰に何と言われようと、命あっての物種。
命は、地球より重いのだ。


一緒に、外に向かって歩き出す。
それにしてもこの少女は、どうしてここに入ることができたのだろう。
砂銀が少し前に教えてくれたのだが、
認められた人以外は意識の中に入らない、即ち見えないとのことなのに。
まあ僕が考えても無駄だ。質問も怖いし。

それ以前に一緒に歩いていると綱渡りのような怖さがある。
さっきの理不尽な二連撃で、完全に恐怖が植えつけられたのだろう。
逆に考えれば、相手の心を掌握するのにはいい手段かもしれない。
そう考えると、彼女はとても頭の切れる奴であるという可能性も見えてくる。

こんなに、女の子女の子した格好なのに。
ちらっと横を見ると、少女の前に出した手元に目が釘付けになった。

大きな紫色の球体に、閉じた目のような模様。
いや、おそらくまつ毛が生えているから本物の目だろう。
そこに、数本の紫色のコードが体を取り巻いている。

嫌でも思い出さざるを得なかった、あの少女。
「さとりさん、元気かな…」
「貴方、お姉ちゃんを知っているの?」
つぶやいた瞬間、明らかに方向性を持った声で食いついてきた。
目は相変わらずだが、袖に絡みつく指の仕草は明らかに嬉々としていた。

この子、さとりさんの妹だったのか…
自称の可能性も捨てきれないが、面識はあると見て間違いない。

すると、余計に迷う。
地霊殿の場所を知らないということは、
違う場所に誘導しても気づかれないわけであって。

ふいに、蟻の巣を覗き込むような無垢な視線を感じた。
はっとした。
この子がもしもさとりさんの妹だったら、考えていることは筒抜け…

観念するしかないようだ。


そういえば砂銀はここの出身だったな。
僕が思うのも何だが、ちゃんと帰っているのだろうか。

「とりあえずお姉ちゃんがどこか知ってる?」
黙って首を振ると、少女はそれと同時に袖を強く掴んで駆け出した。

本当にこの子の思考回路はよくわからない。
闇雲に探すつもりだろうか。
それでも最初以降は思ったよりまともだったし、
ただ単に自制のききにくい子なのかもしれない。

動物の声が響くチェック柄のタイルを踏み抜いて考えている最中、
急に景色が変わった。

シックな雰囲気から一変、草花がきれいに植えられた中庭。
中央には涼しげな水音と一緒に小川が流れている。

少女はさらに僕の袖を引っ張り、下に続く階段を指差した。
数段先は、真っ暗で何も見えない。
僕が来たときはそこは通らなかったような気がするが、
そこにいることもあるのだろう。

なんだか物々しい雰囲気を醸し出している。

「じゃあ、僕帰っても」
振り向いて笑顔を作ると、襟を掴まれて。
「えーい」

真っ暗な下り階段に放り込まれた。
さすがに、金切り声をあげた。


階段はすぐに終わり、ずっと真下に落ちていくのだから。


つづけ