東方幻想明日紀 五十三話 異国の少女と帰り道

帰り道にソナレノから色々調べてきたけど、と切り出された。
言いたい事だけ言って、道の半ばで姿を消した。
言っている内容もわざとまとめていない。
僕に考えさせるためかは知ったことではない。
彼女が何も考察をしないのなら僕が考えるしかない。

鈴虫の音が、冷えた空気と相まって心地いい。

「あの世界、平和だね。略奪もなければ食料の枯渇もない」
「そうだね、まるで桃源郷だ」
言われた時はそこまで考えはしなかった。
滔々とした切れ目ない、たわいもない話の一部だったから。
記憶を逆さになぞるようにしていくと、指はわだかまりで止まった。
「どうやらあの地下都市には、三つの部隊があるね」

甲乙丙、三つの部隊だ。
それぞれ総務、警備、人事という具合になっている。
僕は警備担当の乙部隊に所属している。

略奪も食料の枯渇もない。

そんな状況で警備がどの程度の意味を持つのか。
必要があるにしても比重が大きいわけもなく、総務に組み込めばいいことだ。
それなのに、なぜ警備でひとつ部隊を形作ったのか。
人数も、かなりのものだ。
あの都市では食料は勝手に支給される。
働きに応じてではなく、在籍するだけで、だ。

たえず外敵が侵入してくる、これしか可能性は考えられない。
一応あの都市は地底と地上の中間に位置しているし、
何よりも僕が相手をしたのもさとりさんの妹だ。
いや、待てよ。
あの地下都市は、簡単に侵入できないようになっているはずでは…
それも単なる物理的妨害ではない、そんなことをペディアスさんは言っていた。

さとりさんの妹が入ってきたのは例外としても、
乙部隊そのものの必要性とは…?
存在しない侵入者に対して、延々と力を蓄え続けることの意味。
…自分の中で、少しばかり霧が晴れた。

駒として、僕は果たせるだろうか。



道程の、なかば。
一羽の雄鶏が、暗闇でしだり尾を優雅に揺らす姿がふと目に留まる。

その様子を見つめていると、鶏は振り向いた。
はっきりこちらを一瞥すると、また向き直る。
思い込みかもしれないが、こっちにきて、そう促すかのように。

袖を引かれる感覚を覚えた。


大きく向きを変えて、その雄鶏についていく。
その目指すべき方角は、おおよその見当がついた。

魔法の森だ。


森の入り口に差し掛かった時、少々尻込みをした。
昼でも薄暗いし、不気味で瘴気が漂っているのに、今は夜。

やがて、穏やかな薄い黄色が森に降りた。

出てきた月明かりに、雄鶏の色が朧気に浮かぶ。
一見普通の鶏だが、その長い尾と鶏冠は真紅。
純白の羽毛の下に、何やら鱗のようなものが垣間見える。

そんな不思議な雄鶏は、飛びもせず浮いて進むかのように歩く。
夜露と不気味な声のこだまする足元を走り抜けて、しばし。

突然、視界が開けた。

真っ先に視界に飛び込んできた、紫とも藤色とも藍色ともつかぬ幽玄の色。
それは、虹のかかった淡い月明かりでも否応なしに僕を引き留めた。

その根本、ぼんやりと浮かぶ膝を抱えた小さな影があった。
暗がりでよくは見えなかったけれど、膝で胸を抱えた猫背。
頭には、乗かっているような小さな帽子。
そこから伸びる二本の触覚が、急角度の放物線を描いていた。

顔だけは、低い空を仰いでいた。
顔立ちも表情もわからない。
それでもその小柄な丸顔の先にある視線は、
虚ろと言う言葉では足りないほど虚ろだった。
山の向こうを通して、もっと遠く。
その喪失感に溢れた視線遣いに引かれるようにして、
僕はその鈍暗い木の根本に近寄った。

近寄っていくと、やはりそのシルエットは少女のものであった。
おそらく、僕よりも一回り大きい。
人間の少女で言うと、十代前半だろうか。

服装も、わかってきた。
最初は全裸かと思ったが、薄手のタイトな服らしい事がわかった。
半袖半ズボンに、すねと前腕を覆う筒状の布。
服の形状までわかるほど近づいても、その少女は空を見ていた。

彼我の距離、五十センチ。
気がつくと、そこまで僕は近づいていたのだ。

突然、火花が飛ぶような勢いで視線が合った。
考える暇もあらばこそ、いきなりその少女は立ち上がって、
力なく僕の体に覆い被さってきた。
体全体を包むような体温。何とも比喩の利かぬいい匂いがした。
振り払おうと思えば地面に叩きつけることができただろう。
けれど、そんな気は起きなかった。
あまりにも弱々しく、すがるように細い女の子の指が
僕の脇腹に巻き付いていたからだ。

お互いの呼吸の音が、何往復した頃合いだろうか。
急にはっという息の音と一緒に、
柔らかくて温かい感触がすっと離れていった。

そして少女は、氷が溶けるように静かに泣き出した。
声を出すほどの力はもう残っていないらしく、
下げた顎先からからとめどなく落ちる水滴が月夜に光っていた。

僕はそれをただただ見つめていることしかできなかった。

きっと、誰かと僕を間違えたのだろう。

「落ち着いたか」
少女の顔が乾いて、呼吸も静かで深いものになってからしばらくした頃を見計らって、損なことを持ちかけた。

「うん。ごめんね」

一体どうしたんだ。言った瞬間に口を塞いだが、時間は戻らない。
こんなに消耗している子の傷を、杭でえぐってしまった。
謝るのもおかしな話だった。
「他人事だと思えなくて、放っておけない」
だから、これだけ付け加えておいた。
共感できると言ったのは彼女の気持ちを無視する事。
そんな簡単な事実に気づくのに、そう時間はかからなかった。

「私の友達に、よく似ててさ。だから、つい…急にごめんねっ」

大丈夫、それだけ言うと、彼女もそれ以上何も言わない。
少女の声は高かったけれど、トーンは果てしなく低い。
そして、僕の胸によく刺さった。

暗がりのその姿は、夢でも見ているような気分にさえなった。
さっきの言葉は、決して詭弁なんかじゃない。
本当に、他人事に思えないのだ。

うまく言えないけれど、僕の中に共感できる何かがある。
根拠もないし、確信すらない。
彼女の空元気の相槌から、どれくらいの沈黙が続いただろうか。

ふいにさっきの雄鶏が、少女の抱えた膝と胸の間に割り込む。

「この鶏が、案内してくれた」
「そっかー…ありがとね、丁子」

ていし、と呼ばれた鶏は嬉しそうに頭を震わせた。

「丁子っていうのか」
「うんっ。すごくいい子だよ。そういえば名前を尋ねてなかったね」
ヒカリと名乗ると彼女はいい名前だねと褒めてくれた。
僕自身は、どうにも安易な名前のような気がしてならないが。

きみは、と尋ねると彼女は困ったような顔をしてしまった。
名前がないのか、なんて野暮なことは尋ねまい。口が裂けても。

ただ、諭すように彼女を見つめていた。

「…丙」
ひのえと、小さくか細くつぶやいた。
後ろめたさが、声に籠りきっていた。
でも、僕にはそんな響きは一切聞こえない。

「いいねえ〜」
いい名前と言おうとして、気が動転したのかもしれない。
くすっと彼女が笑ったのを契機に、僕も笑った。
小さく手を振ると、彼女は微笑んで手を小さく横に揺らした。

後腐れなく、僕はその彼岸花の花畑を後にした。

後ろを振り向くと、護衛のつもりなのだろうか、
雄鶏の丁子が心配そうに後をつけていた。

大丈夫だってば…

行きと違い、足どりは前のめりで、幾分慌ただしさを伴っていた。
はやく、おじさんに顔を出さないと。


つづけ