東方幻想明日紀 六話 人に背かず、妖として僕は生きる

小さな小さな足音が、僕の目をはっきりとこじ開ける。
寝ぼけた意識を一瞬で吹き飛ばす、些細な足音。

「人里にいくの。」
身体を起こして、深淵の洞窟の出口に向かって言う。

「ヒカリも行くー?」

ぴのすけの、楽しい狩りの時間だった。
もちろん僕は楽しくない。

でも、僕は決意したんだ。

「行くさ。」
僕は誇らしげな顔で、薄明るい岩肌の地面を蹴った。




「僕もぴのすけの役に立つんだ。」

真っ暗やみの林道、二人の周りだけぼうと薄明るく球ができる。
この苔は本当に大した苔だ。

これを売るだけで、生活だってできるんじゃないだろうか。
でも、それは僕とぴのすけの生き方ではない。

「どうしたのー、無理してるでしょ?」
「してない。僕だって、やればできるんだから。」

変な自己陶酔に駆られていたのはすぐにわかる。
中途半端な使命感も、それを後押ししていた。

昨日、僕は彼女と共に生きていく事を決意した。
彼女を、もう一人にさせない。
だから、変に息巻いていたのだろう。

「ふうん、まあいーよ。」

ぴのすけは特に気にした風もなく、
足取り軽く柔らかな林道を踏みしめる。

「ねえねえ、その帽子ってかわいいよね。
 どうやってもらったかは、覚えてないんだよね。」
「うん。気か付いたらあった。」

かわいいと言われて悪い気はしない。
僕は帽子に付いているウサギの耳を指でぴんとはねた。

そんな雑談をしながらも、僕たちの意識は他の音や光。

ぴのすけの狩りは周囲の散策から始まる。
うっかり迷い込んだ人間を獲るためだ。

彼女によると、そういった不用心な人から襲いたいとのこと。
もっとも、最近は彼女を警戒して
この辺りに立ち入る人が以前よりぐっと減ったらしい。

あたりまえである。
わざわざ茸や魚と、命は天秤にかけるまでもない。

歩く事しばし、少し先の明かりがぴたりと止まる。
僕もそれに続いて、息をひそめる。

僕が来てからというもの、かなりの頻度で通りかかる人がいる。
でも、それは偶然で普段はもっと少ないらしい。

近づく小さな足音に、僕は違和感を覚えた。
足音の場所を見るとそこには暗闇が広がっているだけであった。

ぴのすけが草むらから林道の方に足を踏み入れる。
だがゆっくりと、そして緩慢に。

ぴのすけが照らす苔玉の向こうには、小さな男の子がいた。
年の程、五つか六つほどの、小さな小さな男の子。

「ねえ、どうしたの?」

そして、穏やかに少女がその子にしゃがんで話しかける。
擦りすぎたのか、目が痛かった。

「おうち、帰れなくなったの?」
「うん…。」

か細い声で、その小さな男の子は頷く。
てっきり、ぴのすけの事だからその男の子を殺すのだと思ってたけど…

ぴのすけにも人間に対して情があったんだね。
考えてみればそうだよね。
ぴのすけだって、小さい子を見たら気持ちもほぐれちゃうよね。

肩車する少女の後ろ姿を見て、僕は温かくため息をついた。

「ぴのすけ、ちゃんと子供は家に帰すんだね。優しい。」

彼女は振り向いて、顔を傾けた。
「だって、子供を獲っちゃったら人間の数が減っちゃうでしょ?」

当たり前のように真顔で言う彼女を、僕は無意識に一瞬、拒絶した。
ぴのすけは、やはりぴのすけだった。




いよいよ夜が深くなる人里は、ところどころに火が灯される。
ゆらゆら、小さな赤い光があちこちに動いている。

そして。

「おいあっちだ!逃げろ、殺されるぞ!」
「あんたぁ!あんたも逃げてえ!!」

あちらこちらで聞こえてくる阿鼻叫喚の声。
さっきまでの雰囲気と違いすぎて、もはや笑えてくるほどだ。

なーんだ、ぴのすけは気でも狂ったのか。

人里に着くとぴのすけは男の子の家に送り出した。
ちゃんと男の子の無事を確認すると、
ぴのすけは息をするように隣の家に入りこんだ。

そして聞こえてくるがっすんがっすんというリズミカルな打撃音。

僕は逆方向へ全力で逃げました。
それが、ここまでの経緯です。

僕は遠い、遠い目をしていたと思うのです。
やっぱり、僕と彼女は一緒になれないのかもしれない。

そな、僕はどうしたらいいかな?
(そんなの、自分が信じる方に行けばいいよ。)

そなはそう言うけれど、僕はここで急に自分が信じられなくなってきた。
だから、君に尋ねているんだけど…。
(じゃあさ、あなたはぴのすけが好き?)

えっ…
(ごめんね、質問が悪かったか。彼女の役に立ちたい?)

…僕は黙って首を縦に振った。
僕にできる事、それは…



人の叫び声が幾分か遠く聞こえる場所。
僕は暗くて藁の匂いのする大きい倉庫の中で、麻袋の端をつかんだ。

どれほどの時間が経ったかはわからない。

息切れが、頭を重くする。
締め付けられる心臓が、壊れてしまうんじゃないかと思えてくる。

中身は、ごろごろしていて、硬いもの。
じゃがいもが、大量に入っている重い袋を持ち上げる。

「人を殺すより、ずっとましだっ…」

僕は、一体誰に言い聞かせているのだろうか。
舌先が、早い吐息でどんどん乾いていく。
頭の中が真っ白になりながら、僕はそれを抱えて一目散に外へ飛び出す。

外に出てみると、幾分か明るく穏やかな暗闇が僕を包んだ。
もう、悲鳴なんて何も聞こえてこなかった。

嘘のように、外は静かになっていて、火の明かりも消えていた。
ぴのすけが引き上げたのだろう。

麻袋を置いて、空を見上げた。

丸みを帯びた月が傾いて、山にかかろうとしていた。
綺麗で、綺麗な雄大な月だった。

僕はこんな袋一つ持ち出すのにどれだけの時間をかけたのだろうか。
既に何もかも事は終わっていたというのに。

ふと視界に映ったのは、見覚えのある、朗らかな半笑いの顔。

「さ、帰ろー?」
間の抜けた声と、顔の太さはさまざまの茶色の帯がアンバランスだった。

僕は彼女が怖い。心の底から恐ろしいと思う。

でも僕は、彼女を放っておけない。
彼女は人を人と思えないせいで、こんなにも寂しいのだから。
それを、悲しい事だと思えないのだから。

寂しいという感情を、表せる言葉がないのだ。
彼女のお腹には、同じ容をした人の肉だけが溜まっていく。

その健康的な脚や腕や可憐な顔も、心の埋め合わせなのかもしれない。
人の形をした、人を襲う人形のような存在だった。

美しい人が人形に喩えられるかのように、彼女は可愛らしかった。
でも、それと同時に悲しくもあった。

麻袋から取り出したじゃがいもに少女は歯を立てる。
「おー、これおいしいね!」

気に入ってくれたようで、よかった。
僕も麻袋からじゃがいもを手に取り、控えめにじゃがいもを噛んだ。
顎に響く大きな音と、口の中に広がる泥臭さ。

僕はぴのすけを見つめて、表情を緩めた。


僕たちの今日が、終わる。
先の不安を考えると、腐るほどある。

でも、今は考えたくなかった。


彼女と一緒にいられる。
それだけで、それだけでよかった。




その夜、僕は謎の腹痛で悪夢を見た。



つづけ