東方幻想明日紀 五話 残酷で孤独な白い花

僕は青年、紫詠さんの家にお邪魔している。
見る限りの質素な和室に、存在感を放つザル。

目の前の芳醇な香りを立てる蕎麦。
それを見る自分の目が、あまりにもぎらついていたのだろう。

「どうしました、食べていいですよ?」

少しだけ呆れながら僕は自分の食欲の底深さを知った。
「あ、ありがとうございますっ…」

必死にすすりこんだ蕎麦は、喉をつるつると通り抜けて止まらない。
遠慮など知らないその手は、目の前のザルを一瞬で空にしてしまう。

「凄い食べっぷりですね。どんどんどうぞ。」
僕を家に入れてくれた眼鏡の青年が、新しい蕎麦のザルを出す。
一心不乱に、それを無言で汚らしい音で平らげる僕。

思えば僕はこの数日、まともに物を食べた事がなかった。
ぴのすけには魚を食べただの木の実を食べただの、嘘をついていた。

彼女はあっさり騙されてくれた。疑いもしなかった。
幸い、おいしそうに彼女が肉を食べても、
僕の食欲がわき上がる事なんてなかった。それでよかった。

僕の手が止まり長い息を吐き出す頃には、目の前には堆いザルの山。
ざっと数える事二十ほどだった。
「ご、ごめんなさい!ついお腹が減って…」

「いいですよ。沢山ありますし、
 こんなにお腹が減ってただなんて、気の毒ですし。
 助けてくれたお礼です。これくらい安いものです。」

…どうしよう。実のところ、僕は彼を助けてはいない。
これ、まずいんじゃないか。
今さら助けていないだなんて、言えない…。

というより、あなたを襲ったのは僕の友達なんです、
などと言った日には八つ裂きにされても何らおかしくはない。

「…あれ、その子どうしたの?」
「あー、僕の命の恩人なんだ。
 山姥に襲われたところを助けてくれたんだよ。」

柔らかな声が背後でしたかと思うと、
青年は軽く僕の後ろに微笑みかける。

…やまんばに襲われた?

振り向くと小柄な身長の狐の耳尻尾を湛えた穏やかな雰囲気の女性。
髪の色は、ふんわりとした桃色だった。

声の主はどうやら彼女のようだ。
女性は僕に近づくと、ありったけの笑顔を僕に振りまく。

「ど、どうも…ヒカリっていいます。」
「ヒカリ。良い名前ね。紫詠を助けた事、
 私からもお礼を言います。ありがとう。」


もう一度言います。僕は何もしていないんです。
でももう後には引けないんです。助けてください。

「でも困ったわねー。あれをいい加減何とかできないかしら。」
「そうだね。でも僕達じゃどうしようも出来ないね…。」

ふと、顔を見合わせて二人が肩を落とす。

「あれ…とはなんですか?」

「ああ、かなり前からこの地にいる野良妖怪でね、
 山姥って言うんだ。真っ白な髪と人智を超えた身体能力で、
 見境なく人を襲って食べてるんだ。
 ちょうど、僕が襲われた場所がその棲み家の近くだけど…」

うん。どこかで見た事あるなあ、そういう人。
僕はもう殺されない内にここから逃げた方がいいんじゃないかな。

僕は苦笑いしかできなかった。悟られたら、死ぬ。

…でも、ぴのすけにはわからない事だから、これだけは聞いておきたい。
「あの、妖怪って何ですか?」

「そうだね。そういえば分らないんだったね。簡単に言うと、
 この辺りには人間と妖怪がいるんだ。容姿にさほど違いは無いけど
 妖怪は基本的に人間より強くて寿命が長い。僕たちがそれだ。
 それを知らないという事は、君はきっと外の世界から来たんだね。」
青年が眼鏡を上げて淡々と言う。

「あの…記憶をなくしちゃったんです。」
僕が恐る恐る言うと、青年は目を丸くした。

「え…本当?大丈夫!?しばらく家で泊っていくかい?」
「いえ、良いんです。今は帰るところがあるので。」

どんなに危険でも、あそこが僕の家なのだ。
嬉しいお誘いだけど、お断りさせていただく。

「あ、どうぞ続けてください。」
「うん。…元々、妖怪と人間は捕食関係にあって、
 僕たち妖怪は人間を食べていたんだ。
 普通の食べ物の中の選択肢に人間がある。それだけなんだ。」

すっと血の気が引くのを感じた。
死の恐怖を克明に感じる時ほど、嫌な気持ちはそうそうない。

「まあ、今は人里に棲む妖怪は人間を襲ったりしないわよ。
 だから私たちは大丈夫。
 それに、ここでは野良妖怪がほとんどいないわ。
 恐らく、残っているのは山姥くらいじゃないかしらね…。」

付け加えるように狐耳の女性が横から言う。
ここから考えるに、山姥はぴのすけの事だろう。

そして彼女は見境なく人を食べるので、村の皆から恨まれていると。
長い間、皆が駆逐されていく中での生き残りなんだ。

人里に適応した目の前の彼女たちと違って、
ぴのすけは不器用なんだ。

たった一人、あの林道で誰からも疎まれ、山姥として蔑まれて…
…胸がきゅっと締まって、目元が緩みそうになった。

「…あの、僕もう帰りますね!お蕎麦おいしかったです!」
僕は立ち上がると、二人は動揺した。


「また来てくださいね。」
「…はい。」
お似合いの二人は、優しく僕を見送ってくれた。




「ぴのすけ、ただいまっ!」

意気揚々と洞穴に戻ると見覚えのある、いつもの少女がいた。
「あれ、どこ行っていたの?」

ぴのすけは不審がるように僕を見つめた。

「ちょっとね、人里を見に行っていた。」
「だめっ!」

洞窟の中に、少女の高い声がぴんと張った。
僕は面喰らって、思わず尻もちをついてしまった。

「外は、お前が思っているよりずっと危険なんだから!」

ぴのすけはいつになく真剣な表情だった。
彼女の目元が、きりっと締まっていて強い光を放っている。

「…ごめん。」

「まあ、次から気をつけてくれればいいよ。
 次からは、一緒に人里に行こう?私がいれば大丈夫死なない。」

あんたがいるから不安なんだよ。
…それは極力勘弁していただきたい。

それよりも出来るだけ彼女には、人を襲ってほしくない。
彼女は、遊びで人を襲ってるんじゃない。

お腹がすいているからだ。
でもその結果、彼女自身を孤独の底に追いやっている。

よくよく考えてみると、そんな考えは独りよがりではないのだろうか。
そういえばぴのすけは、孤独じゃない。
だって、彼女は友達がいると言っていたじゃないか。

「ぴのすけ、そういえば友達は?」
「あ、ちょっと来て!こっちだよ。」

僕が尋ねると、ぴのすけはいつもの半笑いに表情を戻して、
立ち上がって洞穴の入り口に立った。

手招きをしている。

もしかしたら、まだ帰っていないのだろうか。
彼女には、洞穴の裏に木が生い茂っている所にずんずん入っていく。
僕は少し置くしたが、彼女を見失わないようについていく。

しばらく進んでいくと、少しだけ開けた場所が見える。

「…ここだよ。」

彼女が指をさす所を見た。
少しだけ、切り抜かれたようにぽっかりと開けた場所。

誰もいない、開けた空間だった。

そこに、一か所だけ色が違う、
柔らかい土が盛られている上に、誇らしげに咲く大輪の白い花。
名前はわからない、けれど稟として咲き誇る一つの姿が、
僕の目をそこに釘付けにした。

ぴのすけは開けた場所に入って、花のそばに寄った。
僕もそれに続く。

近くで見ると、僕の肩ほどの高さの花は、より大きく見えた。

「私の友達なんだ。」
少女が、誇らしげにつぶやいた。

「前は小さかったんだけど、少ししたらこんなに大きくなったんだよね。」
ぴのすけはそう続ける。

僕は少しだけ絶句したが、彼女とその花を交互に見つめた。
疑問が、氷解した。
どうして、僕は彼女にあの時殺されなかったのか。

彼女は寂しかったのだろう。
自覚は無いけれど、強く、どこかそう感じていたんだ。

同時に、彼女を強く理解した。
彼女はやはり、混じりけのない純粋な奴なんだ。

ぴのすけは僕の顔を見て、優しく目を細めた。
僕も、笑い返した。


…決めた。

何があっても、僕は彼女の味方でいると。



弱い風が吹いて、花が木漏れ日の中で揺れた。


つづけ