東方幻想明日紀 四話 僕にはできない

今日も、朝が来た。
硬い岩肌から身体を起こすと、背中がひりひりした。

あの日から、三日が経った。

「おはよっ、ヒカリ!」

そして目の前には少し返り血を浴びた少女ぴのすけ。
朝から、とても心臓に悪いものを見てしまった。

この子、ほとんど笑わない。
というより、常に半笑いのような表情だから、感情がつかみにくい。

声の調子でわかりやすいのだから、まだ良いのだけれども。

「また、人を?」
「うん…駄目ー?」

僕が目を伏せると、彼女は慌てて口を袖で拭いた。
ある意味、仕方ないと思い始めてきた。

それは、彼女の生活そのものなのだから。
主な食べ物が人間。たったそれだけのことなのだ。

そして彼女と一緒にいたいなら、
僕もそれ相応の覚悟を決める必要がある。

ただ、僕はどうしても抵抗感がぬぐえない。
考えただけで胸が、きゅっと締め付けられてしまう。

僕が魚をとって食べるのに抵抗がないように、
彼女は人を獲って食べるのだ。

だからと言って、その行為が僕には到底許容できるものではない。
でも、いつかは慣れてしまうのだろう。
同じ形をした誰かが、
彼女に殺害される光景を受け入れてしまう日が来るのかもしれない。

いや、そればかりではなく…

いずれにせよ、先の話だ。
この先を考えるのはやめよう。僕がもたない。

「あ、そうだ。ヒカリも人を襲ってみようよ。
 そうしたらさ、少しは抵抗感がなくなるかもしれないよー。」

突然、酷い理屈と一緒に彼女に真顔で持ちかけられたその提案に、
僕は何も答える事が出来なかった。


陽が照らす影は、ほとんどその長さを失っていた。
少しだけ蒸し暑い昼下がり、僕は川辺のそばの草むらに息をひそめる。
その隣に、しゃがんだ真顔のぴのすけ。
本当に、勘弁してください。

誰かが通るかなんて保障されていない。
むしろ、誰も通ってほしくなかった。

さわさわと通る涼しい風が、僕の背中をやんわりと冷やす。嫌な風だ。
既に、ここに身をひそめて数時間ほどになるのだろう。
このまま、誰も来なければいいのに…

「あ、人の匂いだ。こっちにくるよ。」
抑え気味に言う彼女は、半笑いを崩さずに残酷な事を言う。
もう何も思うまい。僕が念じた事の逆の事が起こる。

「…ねえ、どうしても行かなきゃだめ?」
こんなこと、間違っている。
少なくとも、まだ心の準備ができていない。

「死ぬの?」
「はい、ごめんなさい。」
彼女の返答を待った僕が馬鹿だった。
答えは、最初から出ていたんだよね。そうだよね。

その会話の間に、足音が耳に入るくらい近づいてきた。
喉が、ごくりと嫌な音を立てる。

「大丈夫。人間って、案外すぐ死んじゃうから。」

ごめんねぴのすけ。それ励ましの言葉じゃないんだよ。
「…ほら、そろそろ目の前にくるよ。」
彼女の言葉で我に返り正面を向くと、木の葉の間に、黒い革靴が見える。

目をぎゅっと閉じてから、僕は勢いよく草むらから飛び出した。
着地して、僕は顔を上げ・・・

「あっ…。」
「…。」

活発そうな黒髪眼鏡の青年と、目が合う。
青年の手には長竿と、腰に魚籠が下げられていた。
そして、僕と青年は石像のように動かなくなった。

さらさらと、水が川べりを撫でる音だけが聞こえてくる。

「あっ、今日はいい天気ですね!」
しばしの沈黙を破ったのは、青年だった。

「え、ええ!すごくいい天気ですよね…!」
僕は、ひきつった顔で返した。
「そうですね…ところで、こんな場所でどうしたんですか?」

眼鏡の青年が優しく僕に尋ねた。もう頭が真っ白だった。
「いやちょっと、その、釣りを…。」
あなたを襲おうと思ってたなんて口が裂けても言えない。
「釣りですか、奇遇ですね!僕もなんですよ!」

まずい。この人も釣りだった。
冷静に考えれば、持ち物を見れば察する事が出来たのに、僕の馬鹿…。

「何を釣りに来たんですか?」
この青年が悪魔に見えてきた。ぴのすけがよこした刺客じゃないよね?
こ、この辺では何が釣れるんだ!?

「や、ヤマメ…。」
「ヤマメですか!それだと、もう少し上流に行かないと…」

青年がそこまで言った瞬間、突如青年の姿が横に流れて行った。
そして、青年の襟をつかむぴのすけの姿が一瞬映りまた流れて、林道が見える。

直後、小さな水の音がざぶんと一度すると、
辺りはまた静かな川辺に戻っていた。

さらさらという水の音が、僕の凍りついた耳は受け付けなかった。

しばらくして、重い首を川に動かすと不自然に水面が揺らめいていた。
水面が揺らめく辺りに、たくさんの泡が浮かんでは、はじけて消える。
陽の光がキラキラと反射して、えも言われぬ景色を僕の目に焼き付けた。

釣り竿と魚籠が下流へ流れていくのを、僕はただ見ていることしかできなかった。

どれほどの時間が経ったのだろう。
ずっと立ちすくんでいると、水面が静かになった。
浮かんでくる泡も、規則正しく、数も少ない。

水面に白い陰がすっと浮かび、派手な水音を立てて、
少女と、襟を掴まれた物言わぬ青年が引き上げられる。

ぴのすけはいつもの顔で、容赦なく酒樽のように青年を地面に転がした。
青年は、仰向けになって、だらんと手足を投げだす。
眼鏡は、青年の顔にしっかりとしがみついていた。

「あとは、この辺りを思い切り踏めば大丈夫。」
ぴのすけは、青年の喉仏のあたりを指さす。
真顔だった。彼女は、黒くて綺麗な瞳をしていた。

少女の可愛らしい顎や白い髪に伝うのは涙でもなくて、ただの川の水だった。
顔より下を見まいとして、ぴのすけの目をじっと見つめる。
やましい気持ちが全て霧散するほど、彼女が怖かった。

ここまで人間に対して冷酷になれる彼女が、恐ろしく感じる。

「隙を与えちゃだめだよヒカリ。
 下手したら相手次第でやられちゃうかもしれないからね?」
ぴのすけが僕に詰め寄り、首をかしげて注意する。

恐怖の中に、彼女の優しさを感じる。
少なくともぴのすけ、僕には気を払ってくれているのだから。

「じゃあ、私これから友達に会いに行ってくるから!」
その理由は、とうとう尋ねる事ができなかった。

ぴのすけはすぐに、その場から立ち去ってしまった。
後には、僕と一つの青年が残された。

僕が、とどめを…?
青年に近寄ると、僕は青年の首に向かって、足をゆっくり上げる。
自分の脚は、ぶるぶると震えていた。
(ねえ、後悔、しない?)
不意に、小さな声が頭で響く。
僕の脚が、止まった。
(よく考えてみて?その青年は、ヒカリに何をしたの?)
小さな声は、また続ける。
我に返ることが、できた。

「そうだよね、駄目だよね……こんなの…」
湧き上がる吐き気のような自己嫌悪に、僕は耐えきれなかった。
脚を慌てて引くと、動悸が収まってきた。

ありがとう…そな。
そながいなかったら、今頃僕は狂っていたかもしれない。

転がっている青年をよく見ると、背筋が再び凍りつく。
僕が話した時と、全くどこにも変化がなかった事だ。
外傷は特に見当たらなかったことに、青年の苦しみが見て取れる。
恐らく、溺れるまで水中でただ押さえつけ続けただけなのだろう。

もしも、僕だったら耐えられない。ひと思いに首でも絞めるだろう。
想像するだけで、胸が苦しい。

まさか、僕にとどめを刺させるためだけに、あえてそんな事を…
そうだとしたら、あまりにも青年に申し訳ない。

苦しかったのだろう。辛かったのだろう。

小さく僕は目を閉じて、胸の前に両手を差し出した。
「うっ…ごほっ、うえ!」
「!?」

驚いて目を開けると、大量の水を地面に吐きながら、
苦しそうに顔をゆがめる青年の姿があった。

よかった、生きてた…!

「大丈夫ですか!?」
「あっ…無事でしたか、ごほっ、良かった…。」
咳き込みながら、青年は切れ切れに言う。

それはこっちのセリフだ。
僕を心配してくれているなんて…

しばらく経つと、青年の呼吸も整ってきた。
「さっき、僕を襲った奴は一体…。」

いぶかしげそうに言う青年に対して、僕は笑うしかできなかった。
「何にせよ、もう大丈夫です。
 この辺は危険ですから、もう帰った方が良いですよ!」

それだけ吐き捨てるように言って、洞穴に戻ろうと青年に背を向けた瞬間だった。
僕のお腹が大きく鳴りだした。

「待ってください、助けてくれたお礼をさせてください!
 お腹、減ってますよね?」

眼鏡の青年は、僕の肩を掴んでいた。



僕は、林道を抜けた小高い畑道、青年の後ろを歩いていた。
「僕の家は、あの辺りなんですよ。」

青年は眼鏡を直すと、白い入道雲の下の村を指さす。
大変な事になってしまった。僕は人里に行くらしい。
ぴのすけは時々人里へ狩りに行くらしい。
顔くらいは覚えられているはずだ。

「今、友達が来ていますが、まあ大丈夫だと思います。」

彼女の、去り際の言葉が頭の中によみがえった。

それにしてもぴのすけの友達って、一体どんなひとなんだろう。
彼女と気が合うなんて、人間の線はありえないだろう。

というより、言動から察するにぴのすけは人間じゃない。
ぴのすけは人間を殺す。でも、僕は大切にしてくれる。

…なんだか、もやもやする。

一体どんな友達なんだろうか。
きっと、僕なんかよりも、もっと優しく接しているんだろうな。

もやもやが、より大きくなる。
この気持ちは、一体何なんだろう。何だか凄く嫌な気持ちだ。
別に、ぴのすけに友達がいたっていいじゃないか。僕にはそながいるのだし。

それなのに、何だか暗雲が立ち込めているかのように、頭が重い。
いいや、もう考えないでおこう。

正体不明の気持ちを封じ込めて、僕は前を向いた。
気持ち、切り替えていこう。

「そういえば、あなたの名前はなんですか?」
青年がふと振り返り、僕に尋ねる。
どうして、名前を…。まあ、もしかしたらこの先。
いや、彼が人間である以上、この先は無いかもしれない。
「ヒカリっていいます。」
一応、答えておく事にした。
「良い名前ですねー。僕は狐狸精 紫詠(こりせい しえい)って言います。」
眼鏡の青年は、明るい笑顔をこぼして言う。
きゅっと胸が締まった。

僕は、こんなにも優しそうな青年の命を奪おうとしていたなんて。
自己嫌悪で、胸が焼かれそうになる。

「あ、そうですね。僕、狐の妖怪なんですよ。
 今は人間の姿をしていますが…。」
「妖怪…?」

聞きなれない単語に、耳がくすぐったくなる。
思わず訊き返すと、青年は軽く手を振って、くしゃっと笑う。

「まあ、その話は僕の家でしますね。」

青年は笑うとまた前を向いて、悠々と歩きだす。
頭にいくつもの疑問符を浮かべながら、僕は彼について行った。

日差しは、少しずつ西へ傾いていく。
もうお昼時は、とうに過ぎていた。

僕のお腹が鳴ると、僕も青年も、笑った。
蒸し暑くも穏やかな、夏の日差しの下で。


つづけ