東方幻想明日紀 十六話 こうして僕たちは村人になった

頭上の揺れた明かりが、四人を照らしていた。
少女の小さな白い手を握りこんだまま、僕は強張った表情で彼女を見つめる。

心臓の早鐘が、部屋全体に響きわたりそうにせわしない鼓動を繰り返していた。

人食いの妖怪、僕の友達に僕は勝手なお願いをした。
お願いと言うにはあまりにも酷で、勝手な意見の押しつけだった。
人を襲うのをやめてほしい。
何年、何十年続けてきたこの習慣を、やめるように彼女に提案した。

「…どうして?」

少女は、僕の雰囲気に気圧されながら、小さく、消え入るように呟く。
胸が締め付けられた。

なんでもいいだろ。
そんな言葉が喉元まで出かけた瞬間に、それを死に物狂いで呑み込んだ。

逃げるな。

僕たちは、この事実を死ぬまで背負っていかなければいけないんだから。
事実を言えば彼女を傷つける。

でも、僕に選択肢なんてない。

意を決して、僕は深く息を吸う。

「…ぴのすけ、僕は人間に友達がいたんだ。」
「え…?」

透き通るような白い顔の表情が一瞬だけいっそう強張って、また元に戻る。
どうやら、本当に疑いもしていなかったみたいだ。
僕が彼女に隠し通してきた事、すべて。

重い、焦がすような空気が喉を擦って僕の声を出す。
「…僕の帽子をかぶっていた女の子が…その友達だ。」

少しの間をおいて、白い顔から表情が消えた。

漆黒の綺麗な瞳の視線が、一瞬で遠くなる。
音を立てて何かが崩れ落ちるように、瞳の光沢は無くなった。
柔らかそうな唇が、小刻みに振動を繰り返していた。

…僕は、目の前のか弱い女の子の身体を、もう一度抱き寄せた。
震えていた。

どっちも。
冷たい温もりが、凍りついたように熱を放つ。
お互いがお互いを、何か大きな恐怖から守るように。

「だから…お願いだ。もう二度と、人を襲わないでほしい…。」
焼き切れた喉からやっとの思いで絞り出した声。
目頭が熱くて、こぼれそうだった。

僕の腕の中の頭は、しきりに首を振っていた。
傷を負った肩に、熱水が染み込むのを感じた。

その綺麗な涙は傷口に、染みた。

二度と癒えない傷に。


…ごめんね、沙代ちゃん…



「…ぴのすけ。」

僕が小さな声で彼女を呼ぶと、彼女はもっと強く僕の服をつかんだ。
もっと強く、頭を僕に押し付けた。
何も言えなかったのだろうが、その手の力が全てを物語っていた。
彼女が掴んだ僕の背中の布が、千切れていた。

辺りを見回した。
ぼやけた視界の隅に、白いものが映った。

紫詠さんが察したのか、僕にそれを手渡す。
それを受け取ると、僕は湿った兎の帽子を深々と被った。

「ぴのすけ。」

少女は、ゆっくりと顔を上げた。
涙と鼻水でもうほとんど面影が無くなっていた。
顎には水滴が溜まっていて、とめどなく落ちていた。

袖で、彼女の顔をそっと拭いた。

「…似合う…かな。」

少女は充血した眼を細めて顔をくしゃっとゆがめて、満面の笑みを作ってみせた。
僕も涙でぐしゃぐしゃになった顔で、精一杯の笑顔を作った。


穏やかな時間が、そこには流れていた。





ぴのすけは寝込んでしまった。
嘘みたいに、とても穏やかな表情で。

間もなくして紫詠さんに、彼の部屋に呼び出された。
何をするつもりなのか、全く見当がつかなかった。

「…何の用ですか?」
「少し、動かないでもらえますか?絶対に喋らないでください。」

何の事だか、全く分からなかった。
そう頭に浮かんだ瞬間だった。

「っ!?」
視界が揺れて、頬に打ったような痛みが走る。
身体がぐらりと傾いたところで、空中で止まった。

僕の襟を、紫詠さんが掴んでいた。

…紫詠さんが、僕を殴った。
すぐに僕は事態を受け入れた。
考えてみれば、当たり前だった。

自分への情けなさが、頬のひりひりと一緒に襲ってくる。

「もっと、僕を殴ってください…」

殴るなら、徹底的にたたきのめせばいい。
それだけの事を僕はしたのだ。
それで、彼に対する罪の償いになれば…

「何言ってるんですか。ほら、起きてください。」

力なく僕が言うと、彼は襟を強く引き上げて立たせた。
喉が引っ張り上げられて、苦しかった。
彼は僕の襟をつかむ手を投げるように離した。

…もう一度、僕は目を閉じた。
今度は、腹だろうか。目だろうか、頭だろうか急所だろうか。

…しかし、いくら待っても第二撃はやってこない。

「何をやっているんですか!今度はあなたが僕を殴ってください!」
思わず僕は目を見開いた。
そこには確かに、軽く腰を落として頬を差し出す紫詠さんの姿。

「…意味がわかんないです。」
「さっきは僕があなたを殴りました。今度はヒカリ君が僕を殴る番です。」

道理が通っているようで、めちゃくちゃだった。
そんなこと、納得できるわけがない。
身体は依然固まっていた。拳を握る気にもなれない。

「僕は、ヒカリ君に謝りたい事がいっぱいあります。
 怒りたい事がいっぱいあります。言いたい事が山ほどあります。」

いつになく饒舌に切々と、紫詠さんはまくしたてる。

「…きっと、ヒカリ君もそうだと思います。
 だから、お互いを一度ずつ殴って、終わりにしましょう。」

頭がいかれそうだった。
紫詠さんにこんなに短絡的な事を言わせてしまった。

こんな自分が、大嫌いだ。
彼に、こんな事を言わせちゃうなんて。

…らしくなかった。

僕はふっと笑って、彼に近づいた。
左手で彼の後ろ襟を掴んで、足を払って。

拳の角を頬の中心に思い切り振りぬいた。
固い音が、辺りに響き渡る。

倒れた紫詠さんの胸ぐらを掴んで、少し引き上げる。
もう一度、今度は左手を開いたまま平手で彼の頬を振りぬく。

高い音が響き渡る。

「ほら…殴られっぱなし、だっさいですよ?」
自分の立場を忘れて、こんな口汚い事をほざいていた。
どうせなら、気が済むまで殴り合った方がいいに決まっている。

それが、せめてもの償いになると思ったからだ。
お互いの気持ちにけじめをつけたかったんだ。

…僕が彼を殴る義理なんて、何もない。
そんな事を言えるわけがなかった。

紫詠さんは頷くと、僕の顎に腕を振り上げる。
そのまま僕は後ろに倒れ込む。
お互いに避けも守りもしない。

純粋な殴り合いを、僕たちは繰り返していた。
怪我が残りにくい場所を選びながらではあったけれど。

身体の動きが鈍るまで。
どのくらいそれを続けていたのだろう。


途中で昨狐さんが割って入って止められるまで。


僕と紫詠さん、一緒に床の間に正座させられて。
ぴのすけは、それを笑って見つめていた。



どうやらご飯一か月抜きらしいんだけど、正気の沙汰じゃないと思った。
もちろん口が裂けても言えなかったが。



つづけ