東方幻想明日紀 十五話 もう取り返しのつかない齟齬

広めの和室、後ろではひとりの少女が、寝ていた。
僕の傍には、強張った面持ちの紫詠さんと、
ほとんど表情を穏やかにしている昨狐さん。

かつて生きていた少女が、使っていた部屋だった。

「…沢山の、嘘をついていました。」

温かい明かりの下。
真っ暗な表情で、僕は重い口を割る。

僕の身体は自由だった。
でも、僕そのものは視線の包帯で巻かれて身動きが取れなかった。
良心も、その包帯にあったかもしれない。

娘のように可愛がっていた子が、ぴのすけの手によって殺された。
僕の大切な人が、僕の大切な人を殺した。

何の悪意もなく、唐突に。
彼女の行為に善か悪かを決めるなんて、もう不毛だった。

ぴのすけは悪くない。沙代ちゃんにこそ非があるはずがない。
僕に、全ての非がある。

偽りを重ねて、この些細な関係を保とうとしていた。
そんなこと、淡い幻想だった。
結果的に、ぴのすけは殺されかけて、沙代ちゃんは命を落とした。

「僕が、全部悪かったんで…」
「そんな事はどうだっていいんです。」

言葉をさえぎるようにして、紫詠さんは言い放つ。

「…どうして、今まで僕達に黙っていたんですか…
 彼女と、友達である事を…僕は、それがわからない。」

思わず、言葉に詰まってしまった。
確かに今思うと言えばよかったんだと思う。

現に紫詠さんにとって衰弱したぴのすけを殺すのは難しい事ではない。
ついでに裏切り者であった僕も切り捨てて、
この小さな村の平和を取り戻す事が出来たはずだった。

でも紫詠さんも、昨狐さんもそれをしなかった。

どうしてかなんて、尋ねたくもない。
僕のせいで、酷く迷惑をかけた。

僕に関わった全員が、こんなにも辛い目に遭っている。

「…ごめんなさい…僕が、僕がわぷっ…?」

涙で曇りついた顔に、しめった何かを投げつけられた。
懐かしい匂いと、ほんのり遠くで、鉄の匂い。

肌をなでるこの感触は物を見るまでもなかった。

沙代ちゃんの兎の帽子だった。
「これ、あの山姥の女の子が持ってたよ。大事そうにね。」

胸が見えない感傷にぐいと締め付けられるのがわかった。
昨狐さんの声が、帽子を持って呆然とする僕の耳に響く。

「ねえねえ、尋ねていい?素直に答えてね。」
「…?」

子供を諭すような声に、小さく頷いてみせた。
内心では足場を失ったような気分でいたが。

「…あの山姥…ぴのすけ、だっけ。いつから一緒にいたの?」
「三年前からずっと。僕が川で溺れていたのを助けてくれたんだ。」

簡潔に、出会いだけを話した。
尋問にも似たその空気は、僕の胸を穿っていた。

一呼吸をすると、再び昨狐さんは口を開く。
「沙代ちゃんと出会った時の事、教えてくれる?」

ヘの字に口を結んだが、僕は小さくため息をついた。
今でも、さっきあった出来事のように覚えている。
隠している場合ではない。
僕に選択肢など、端から存在していない。


全部を、話す事にした。

最初沙代ちゃんを、僕は殺すつもりでいた事。
その場の情に流されて、思わず助けてしまった事。
良心が起きたのか、殺そうとした時が魔がさした状態なのか。

そんな事はわからないけれど、
その時に、もう二度とそんな気を起こすまいと僕の帽子を渡した事。
昨狐さんはその経緯を表面的に知っている。
二人は、怒る事もなく悲しむ事もなく黙って聞いていた。
紫詠さんは僕と沙代ちゃんの出会いが、
想像以上に過酷なものだったようで、動揺していたようだったが。

今思うともう全てが懐かしく、哀しい。
平和な時間がつい数日前まで、ゆっくりと船のように流れていたのに。
清流の先には、滝が待っていた。

昨狐さんは、首を傾けた。

「ぴのすけちゃんはさ、帽子を取り返そうとしたんじゃないの?」
「え…?」

思考を切り裂くようにして、昨狐さんは笑った。
その笑顔の意味が、まるでわからなかった。

頭が真っ白になった。
その白に、リフレインする言葉があった。

(…帽子、どうしたの?)

薄暗い洞窟の中、尋ねてくるぴのすけの声。
三年前に無くなっていた帽子のことだった。

…そんな昔の話に、僕はなんと答えたんだろうか。

思い出した。

血の気が引いて、背中が震えた。
体中から、体温が奪われるような寒気に襲われた。



何気なく答えた。
どこかに、「置いてきた」と。


彼女に、そんな「嘘」を吐いたのだった。

些細な、些細な嘘だった。
少なくとも、僕にとっては、失くしたのもあげたのも同じこと。

正直に言うなんて、出来なかった。
人間と通じているなんて言った日には、
彼女と敵対する恐れもあったからだ。

その妥協に似た恐怖が全ての原因だった。

頭が割れそうだった。
帽子に顔をうずめて、僕は感情をそのまま染み込ませていた。

あの時、僕が…嘘をついたせいでぴのすけは取り戻しにいったんだ。
僕が失くしていたはずの帽子を。

必死に探していたのだろう。
考えてもみれば、彼女は珍しく洞窟にほとんど戻っていなかった。

必死に見つけると、食糧でしかない人間なんかが、
その友達の大切な帽子を被っていた。

だから、彼女は帽子を取り返しただけだった。


…それなのに、僕は、僕は何をした。
戻ってきた、彼女に、感情に任せて…

平手を、彼女に向かって振りぬいたんだ…。

いよいよ僕はおかしくなっていたらしい。
最低だった。

こんなに、取り返しのつかない事をしたのだ。
内側から顔が圧壊するかと思うくらい、
煮えたぎる黒い感情が、喉と目を焼いていた。

お前が好意で帽子を取り返してくれたのに。
僕はそれを台無しにしたんだ。

それどころか、その恩を僕は踏みつぶした。
勘ぐって、彼女を傷つけた。
何も食べれないほど、衰弱するまでに。

ぴのすけ…


「…ここ、どこ?」

小さな小さな声が、真後ろでぽつんと。
反射で顔を上げて、反射で近寄って。

気が付くと上体を起こしかけた、弱弱しい少女の両手を握っていた。

「…ヒカリ?…ぅえ!?」

彼女の体を思い切り自分の体に抱え込んでいた。
頭が真っ白だった。
「ごめん…ぴのすけ、ごめんねっ…!!」

彼女の柔らかくて、温かい体温で頭はほとんど回っていなかった。
腕の力が強すぎるくらいだった。
よくわからないと言った様子で彼女は困惑しながらも、
まるで抵抗しなかった。

「…私の事、嫌いになってなかったんだね…。」
くすんだ鈴の転がるような声が、耳元を掻き撫でた。

ぴのすけは、この状況を何一つわかっていなかった。
僕は、彼女の事を何一つわかっていなかった。

僕と彼女の思考は食い違っていた。
でも、もうそれでよかった。それでよかった…。

…いや、よくない。

彼女に伝えなきゃいけない事があったんだ。
急に冷めたように、僕は彼女から離れる。

零の距離を顔二つ分にして、僕は彼女を見据えた。

「ぴのすけ、ひとつだけ…勝手なお願いがあるんだ。」
「…なに?」

ぴのすけは、くりくりした紅の目をまたたかせた。
僕は、深く息を吸い込む。


「…もう、人間を襲わないでほしい。…お願いだ。」


絞り出した声は、上ずってしまった。
あまりにも、一方的で身勝手な提案だった。


わずかに、上の電灯がゆれた。


つづけ