東方幻想明日紀 十話 まっくら闇の中で吐いた嘘

(起きて、起きてよ。)

かすかに響く小さな声が、胸を震わせる。
薄く目を開けると、薄明かりの苔に照らされる洞窟が目に入る。

たった、一人だった。

「…そな?」

確かに、そなの声だった。
周りに誰もいないからではない。

そなの声のような気がしたのだ。


この狩猟採集生活が始まって、既に三ヶ月が経っていた。
最近、まるでそなの声を感じなくなってしまった。

でもかすかに、けれどもはっきりと聞こえた。

後ろを振り向いても、誰もいない。
当たり前だった。

胸がすっと引き締まって寂しくなる。

息を吐ききると、ひんやりした空気と一緒に、
嘘みたいに不安が押し寄せてきた。
胸騒ぎに似た、嫌な感情だった。

鈴虫の声が、周りをより一層冷やしていた。

不安に駆られて外に飛び出すと、月明かりが林道を照らしていた。
綺麗な綺麗な、満月だった。

僕は急いで草を掻きわけて、人里へ向かった。
また、彼女の狩りが始まったのだろう。

理由はわからない。

…ただ、今日は嫌な予感がした。




深夜のせいなのか、人里は嘘みたいに静かだった。
だけど、刹那の前に喧騒があったらしい痕跡のある家は見つかった。

少し大きめの、しっかりとした屋根の家が数軒。
そのうちの一つの玄関から、ピクリとも動かない足がのぞいていた。

…今日は、ここだな。

心の中で、僕は口角を上げた。
誰にも見つからずに、食べ物を調達できるのだから。

持って行ってしまおう。

…三ヶ月という時は、
人の習慣をすっかり変えてしまうのに十分な時間だった。

人間にかける情愛を心と形容するならば、
僕は心を失っていたのかもしれない。

中に入ると、生臭いような独特の匂いが鼻をつく。
薄暗い中に壁に寄りかかる影が、嫌になるくらい重く暗い。

その臭気にもうろうとする。
さっさと見つけて、退散しよう。
そう思った、その時だった。

「…!」

ぴくりと動く気配を遠くに感じた。
駆け寄ると、ゆっくりと上下する小さな背中を見つけた。

「…誰?」

ほとんど光を通さない暗い家の中で反響する声は、僕の記憶を呼び覚ました。
それは、以前の、暑い日の薄い記憶。

僕をかばった、少女の声だった。

そう言ってしまうと多少語弊がある。彼女は僕を助けた訳ではない。

少女の名前は沙代。
苗字は無い。
この村の有力者の娘だった。

もう、その有力者はいないけれど。

懐から例の光る苔の球を取り出し、声のある方向を照らす。
すると、まごう事なき三月前に会った少女の顔が照らし出された。

白い肌から、数か所にわたる傷。
致命傷になるようなものではなかったけれど、
僕の胸がぎりぎりと締め付けられるのがよくわかった。

「…助けに、きてくれたんだね。」

…違う。

助けに来たわけなんかじゃない。
僕は食べ物を盗みに来ただけなのだ。

見つかる前に、気絶させてしまおう。
僕の左手は自然と、少女の首に伸びる。

「?」
…少女の首は、優しい熱で温かくなっていた。
このまま、強めに握っていけば…。

…わかってはいるのに、手は震えだす。
ぴのすけが当たり前にやっている事が、僕には出来ないままだった。

不規則な吐息が、次第に大きくなるのを感じた。
少女が軽く身震いしたので、僕は思わず手をひっこめた。

少女は僕のその引っ込めた手を、弱々しく握る。
「!?」
涙をためた、怯えきった表情が僕の頭を凍りつかせた。
「…こわかった。おじいちゃんが、おじいちゃんが…
 目の前で、目の前で…」

少女の血走った声が、悲しい息遣いが、温かく震える手が、すべて。
僕を打ち震えさせてたまらなかった。

…何かが、僕の中で吹き飛んだ。

「…怖かったね、怖かったね。」
「…うん。うん」

少女の黒髪を梳くように、同情するように。
何回も往復させた。

「…もう大丈夫、怖くないよ。」
何を言っているのか、自分でもわからなかった。
ふわふわと浮いた自分が、自分じゃないみたいだった。

大丈夫な訳がない。
少女の身寄りは、もうこの世にいないのだから。

…それだというのに目の前の少女はしきりに、壊れそうなほど頷いている。

あんまり、人間に情はかけたくない。
僕はぴのすけの仲間であって、人間の仲間では無い。
頭では分かっていたのに、僕にはそれができなかった。

彼女を助けたい。
…でも、どうすればいい?

ぴのすけの元へ連れて行くのはありえない。
まだ小さいので殺されはしないはずだが、恐らく食料としか見ていない。

それ以前に、この子はきっとぴのすけの姿を
はっきりとでは無いはずだが、見ている。
しばらく精神的な傷も大きいはずだ。

…心当たりがあるとするならば、ひとつしかない。

「おいで。立てる?」

僕は小さく首を縦に振った少女の手を握って、起こした。
生まれたての孤児かの如く、その華奢な足が小刻みに震えていた。

僕の頭のてっぺんより、その少女の頭は上にあった。
複雑な気持ちで、この暗い地獄から少女を連れだした。


目指すは恩がある、あの方の家。



小綺麗な戸を軽く叩くと、引き戸はゆっくりと開く。
眠そうな桃色の髪、小柄な妖狐の女性が出迎えた。

「…わ。ヒカリくん、久しぶり。どうしたの?」
おっとりとした目をさらに丸くして、妖狐の女性は僕の後ろに目をやる。

「…そっか、沙代ちゃんの家も山姥に襲われちゃったのね。
 誰も、生き残っていなかった?」

額に大量の汗を浮かべながら、僕は首を縦に振った。
握った手からわかる。
僕の後ろに隠れている少女は、怯えきっている。

「そろそろ、あの山姥に手痛い思いをさせないと駄目ねー。
 ね?ヒカリくんもそう思うでしょ?」

妖狐の女性が、にっこりとほほ笑む。

「ソウデスネ」
僕も、笑ったままの表情で凍りついていた。

「まー二人とも上がって。沙代ちゃんは傷の手当てもしないと。」
「あ、僕はいいんです。」

僕が断ると、女性は疑問符を浮かべた。
「いいの?沙代ちゃんと一緒に暮らしてるんでしょ?」

…え?
なんか、訳のわからない事を言われた。

この子を連れてきただけなんですけど。

「な、なんでですか?」
「え?紫詠がそう言ってたんだけど…」

紫詠さんが、どうしてそういう思い込みをしているんだ。
いや、確かにぴのすけと一緒に暮らしているなんて言うわけがないけど。

僕が紫詠さんにこの子と一緒に暮らしているなんて一度でも言ったっけ?

…考えてもわからない。

「とにかく大丈夫です!この子の面倒だけでも見てください!」
僕は笑顔で、黒髪の少女を前に出した。

黒髪の少女は振り返って、強張った笑顔をつくる。
「…ありがとう。危なくなったらまた、来てくれるよね?」

言葉に一瞬詰まったが、もう迷わない。

「約束する。この帽子を預けるよ。」
白い兎の帽子を外して黒髪の少女に深々とかぶせた。
少女はきょとんとして、少しして表情が溶けた。

そして、僕は逃げるようにその場を立ち去った。



身体が温かいのは、走ったためだけではない。
守りたいものが、もう一つできたからだ。


照らす鈴の道、僕はその中を全速力で兎のように跳んだ。


つづけ