東方幻想明日紀 二話 岩窟に棲む純粋無垢な妖怪

身体が、何だかまとわりつくように重くて。

空気が、まるで自分と一体化しているように、
身体の奥底に、透明になって染み込んでいるようだった。

ここは、一体どこなんだろう。


目を開けて上を見上げると、ゆらゆら揺れている薄い青い光芒。

心なしか、息が苦しい・・・。

すっと、一つの影が目の前を横切る。
腕が、重たかった。

手を伸ばしてそれをつかみ取ると、ぬるぬるしていた。


指を掻き撫でる鱗の感触で、僕は全てを悟った。

・・・早く上がらなきゃ、死ぬ!


必死に空気を下に下に掻き下ろして、
僕は揺れる丸い光を目指した。


「うっ・・・おごおほ、えほっ!うぱっ・・・」

水面から死に物狂いで顔を出すと、
僕は視界端に映った緑めがけて、腕を伸ばした。

しかし、手は空をつかんで、また水面に叩きつけられる。

苦しさの中に、僕は死を直感した。
さっきよりも、水面を掻く力が弱くなっていたのだ。

体中に手がまとわりついて、水中に引きずり込もうとしている。


もう、だめ。


意識が途切れだした頃、自分の手に優しい手が添えられた。

そな・・・?

そななんだよね。
ありがとう。ありがとう。

やっぱり、君は絶対に僕を見捨てないんだね。

僕は笑顔で、ゆっくりと目を閉じた。


君だけが、僕なんかを・・・。









「・・・あ、やーっと目を覚ましたんだ。」

耳を掻き撫でる、柔らかい声。

目をうっすらと開けると、
見覚えのない少女の顔が目の前にあった。

光を点らせた黒い瞳

まじまじと観察すると、肩までの長さのふんわりとした白髪。
頭頂の毛束の一部が、上に跳ね上がっていた。

ふと周りを見ると、薄クリーム色の岩肌。
明るい洞穴に、僕と彼女はいるようだ。

不可解な事に、空はもう真っ暗だった。
明かりらしきものが見えないのに、この洞穴は明るい。

ゆっくりと立ち上がると、服はもう濡れていなかった。
彼女は少しだけぎょっとすると、一緒に立ちあがる。

少女は、見た感じは僕とさほど変わらない年のようだった。

袖口の広い長袖の、きつめのワイシャツのような上着に、
ハーフパンツ。裏地が赤の、白い腰マントだった。

「もう、平気?川でおぼれていたんだよ。」

高く明るい声で、言葉だけで案ずる少女。
その声に、僕は困惑した。

さっきのは夢じゃなくて。

でも、彼女はそなじゃない。

お礼を言いたい。
でも、言葉が出てこない。

必死に、首を前後に振るしかできなかった。


「あはは、犬みたいだねー。」

少女は呆れたように、ほどけた顔だった。
どこか間延びした声と丸みのある目は、どことなく僕を落ち着かせた。

彼女は表情があまり変わらないけど、僕を拒んでいない。
常にゆるんだ半笑いのような表情だった。

でも、それだけで、胸の中があったかくなっていった。

「・・・ところで、どうして川になんか落ちてたの?」
「気が付いたら、川にいたの。」

彼女はきょとんとした。
確かに、おかしな回答だが、気が付いたら川にいたのだ。

それどころか、僕は水中にいたのだ。

「やっぱ、おもしろいよお前。ねえ、どこから来たの?」
「えっ・・・」

彼女の問いかけで、頭の中が真っ白になった。

自分はどこで、何をしていたのか。

考え出すと何も、何もわからない。
自分が、そもそも何であるかすら。

覚えているのは、自分が深水光という名前の少年であるという事。
そして、僕のずっとそばにいる友達がそなであるということ。

「・・・わかんないんだー。」

促すような問いかけに、首を縦に、今度はゆっくりと振る。

不思議な事に、何も悲しいとは思わない。
考えてみればそれは当たり前のことだ。

仮に、自分に前世があったとして、それを覚えていない。
僕は、それを悲しい事だとは思わない。

もしかしたら、その前世はもっと悲惨かもしれない。

でも、何も分からないという事は、漠然としている恐怖があるものだが。
今だけかもしれないが、その感情はかなり薄い。

これから何があるのか、わからないというのに。
安全かどうかすら、わかったものじゃない。

でも、目の前の彼女は優しかった。
僕は、一人じゃないんだ。

どうして、ちょっと優しくされただけで、涙が出るんだろう。
こぼれそうになった目を、袖でふき取る。

「いいよいいよ。何か覚えている事ってある?」
「僕の名前と、友達は覚えてる。」

「ほんと?じゃあ教えて。」

目の前の少女は、首を傾けて僕の言葉を待つ。

「僕は光っていうんだ。僕の友達の名前はそな。」
「ヒカリね!友達って、今どこにいるのー?」

「・・・時々、僕には見えるんだ。僕の中にいるよ。」
「そっか。よろしくね、そな、ヒカリ。」

僕が真顔でそう言うと、彼女は朗らかな声で返した。
そう言えば、彼女の名前は何だろう。

「君は?」
「あー、私?名前なんてものはないよ。」

・・・え?

名前が、ない?
そんな事って・・・あるの?

じゃあ、彼女は誰になんて呼ばれるんだろう・・・
いや、そんな事を考えるのは、いいことじゃない。忘れよう。

僕が耳を疑っていると、少女はぱんと手を打った。

「じゃあさ、ヒカリが付けてよ。私の名前!」
「ぼぼぼ、僕が!?」

その綺麗な期待のまなざしに、耐える事が出来なかった。
しゃがみこんで、頭を押さえつつ考え込んだ。

数分ほど考え込んでも、それは出てこない。
自分が他人につける名前。

彼女は、呼び方を決めてくれと言ったのではない。
名前をつけてくれと頼んだのだ。

これからは彼女は人に、僕が考えた名前を名乗るのだ。
仮に、僕と彼女が関係無くなっても。ずっと。

名前って、そういうものだから。
自分を表す、一つの大切な看板だから。

「・・・やっぱ、だめ?」
「あのさ、僕が君に名前をつけるのは・・・。」

もっと親しくなってからにしようと言いかけて、やめた。
冷静に考えると、そんな彼女は僕に信頼を置いてくれている。

仮にそれが、自分を好きに呼んでいいという意味だとしてもだ。

あだ名は、親しみを込めて呼ぶ。
初対面であだ名をつけて呼ぶなんてことはめったにない。

僕が求められたのは、それよりもさらに上。

こんなにも、僕を信頼しようとしているのだ。
独りよがりかもしれない。

でも、目の前の彼女は僕に歩み寄ってくれている。

「・・・二人で、一緒に考えない?」
「いいね!じゃあ半分お前が考えてよ!私がもう半分を考えるから!」

彼女は少しだけ顔をほころばせて、手を打った。
ほとんど表情は動かなかったけれど、声はだいぶ変わっていた。

これを、僕は笑ったとみなしていいんだよね。

ただ、頭の片隅に違和感が。

「ねえ、半分ってなに。」
「半分は半分だよ。私はもう考えたよ!」

わけがわからない。
半分ってなんだ。半分って。

上の名前、下の名前とかそういうことかな?

まあ、一応下の名前を考えてみるかな。
彼女は白髪だ。腰マントもしているし、あまり和風の感じがしない。

カタカナで通用して、しかもかわいい名前が良いだろうな。

僕は今結婚して、子供が生まれたんだ。女の子だ。
そして、僕はかわいい子供に名前をつけなければいけない。

さあ、神よ仏よ、僕に素晴らしい名前を授けてください。

いや、こういう時は、直感に頼るんだ!
迷ってたら、いつまでたっても決まらない。神仏はポイ。

・・・よし。

「決まった?」

僕は、軽く首を縦に振る。
そして、僕は深く息を吸い込むと、自信満々に口を開く。

「ぴの。」

口に出して、柔らかい言葉で。
そして、かわいい言葉。

自分の中で、かなり傑作な名前だった。
言わば、漢字の「大」の字を、綺麗に書けたように。

「じゃあ、私は『すけ』って考えたから『ぴのすけ』だね!」

まって。せっかく書いた大の字を犬の字にしないで。
半分ってそういう意味だったの?びっくりだよ。

何とか助っていろいろまずくないか。

「ねえねえ、私の名前呼べる?」
「・・・。」

まじまじと僕を見つめるかわいらしい丸い目。
彼女の眼には魔力でも籠っているのだろうか。

雑念を全て取り払う、魔力が。

「ぴのすけ。」

「なーに?ヒカリ。」

僕がそう呼ぶと、彼女は大仰に首を傾けた。
口に出すと、思いのほか抵抗感はない。

アンバランスだけれど、どこか口当たりの良い言葉だった。

「ぴのすけ、僕はこれからどうすればいい?」
「そうだねー・・・お腹すいたでしょ?」

言われてみればお腹がすいていた。
身体って、不思議なものだ。

急に、何かが食べたくなってきた。

僕はこくりと頷くと、彼女は洞穴の外に向かって指をさす。

「じゃあ、一緒に食べ物を獲りにいこう?」


外は、黒い砂で塗りつぶしたような漆黒だった。
薄く見える木々の影が、僕の不安をあおる。

小さく、僕は顎を下げて戻した。



つづけ