東方幻想明日紀 十三話 こんにちは家族、さようなら恩情

崖の岩に寄りかかって、ぼんやりと身体を投げ出したまま
どれくらいの時間が既にたっていたのだろう。

乾いた涙跡が、僕の頬を冷たく固めていた。
冷え込んだ空気は既に僕の喉を凍りつかせて、
掠れたあの音すら出す事を許さなかった。

僕の周りの雪は、陽光が差し込む今も、残ったままだった。
崖の下で日陰になっているからか、はたまた僕のせいなのか。

あれから陽が沈んで、陽が昇って、その繰り返しを何度したのか。
回数なんて数えていない。僕はここから動いていない。

不思議だった。空腹も喉の渇きも感じない。
自分が生きていないのではないかとさえ考えた。

誰がどうなったのか、もしくはあれは夢だったのか。
既に僕は考える事をやめていた。

喩え夢だとしても、僕は耐えられない。
あの出来事を証明する何かは、もう僕の中にはない。

僕は、昨日以前を捨てた。
もうぴのすけなんか、知った事じゃない。

あんなのを信用した僕が愚か者だったんだ。
僕の友達を奪った、あんな奴。

考えると、胃がひねり上げられるような気分の悪さが襲う。
涙腺はほとんど機能しなくなっているのか、目頭が熱くなる事はなかった。

…沙代ちゃん…

考えてみると、僕はぴのすけと一緒に生活する時、
日頃紫詠さんの家の方向に行くなとは言っていた。

それなのに、どうしてぴのすけは紫詠さんの家に…

しえ…いさん?

「…!?」
身体を起こすと、左足に鋭い痛みが走った。
そうか、怪我してたんだった…

小崖の岩肌に手を添えて、僕は足を引きずるようにして立った。
頭では急いでいるのに、身体が一向に進まない。
いらだちを覚えるというよりは呆れるばかりだった。

自分と、ぴのすけに。

こんな事になったのは、誰のせいなんだろう。
ため息が、喉を押し広げてとめどなく出る。


陽が斜めに差し込むようになってきた。
余計冷え込んでくる。
左足首が疼き出してきた。
もう少しで、紫詠さんの家に着く。

見据えたくない現実を、僕は目の当たりにしようとしている。
現実じゃなかったかもしれない、そんな一縷の望みもないと言えば嘘になる。


ただ…

「あれ、どうしたのヒカリ君?こんな遅い時間…え!?」

僕が戸を叩くと、見覚えのある薄桃色の髪。
嬉しくなって、僕はぼーっと彼女を見つめていた。
幽霊でも、見るかのような目で。

昨狐さんが…生きていた。



「ひどい怪我ですね…」
「…」
こくこくと頷いた。
喉が切れてて、ほとんど喋る事が出来なかったからだ。
彼女もそれをなんとなく察したのか、微笑みながら僕の足の手当てを続けた。
ちゃんとした方向に足を直して、固定してもらった。

部屋を見回すと、荒らされた様子は無かった。
家も、そうだった。
ぴのすけが押し入ったような様子はほとんどなかった。

血痕も、どこにも見当たらない。

もしかしたら、夢か。
そんな事を考えてはいけない事はわかっていた。

現実を目の当たりにしたときにまた立ち直れなくなっちゃうから。
いまだに痺れている右手を見て、僕は冷静になる。

こんなに強く、強く。
僕は思いを彼女にぶつけた。

違う。思いというより、醜い感情。
決して美化されるべきじゃない、最悪な感情。
自分自身が許せなかった。

本当に、僕は…
「もー。なーに泣いてるのー。
 大丈夫大丈夫、辛かったんだね?」

温かい手が優しく僕の頭を撫でながら、僕の目元をぬぐった。

彼女は何も尋ねなかった。
彼女は何も話さなかった。

それが、僕に対して出来る最善の事だったのだろう。
僕自身も、そう思う。

どうやら僕は後悔をしていたみたいだった。
悔やむべき事は、山ほどあった。

横に首を振りながらも、その優しい手を払うなんて出来なかった。
あの日から既に一週間は経っていた今も、何も変わっちゃいなかった。

時間間隔が狂っているのかもしれない。
その証拠に僕の身体は、何も必要としていなかった。
食物も、水分も、ぴのすけも。

でも、確かにたった今、必要になったものがあった。
「…まだ動いちゃだめ。」

昨狐さんが立ち上がろうとする僕の肩を押さえつける。
その手を、僕は黙って受け入れていた。

意を決して、僕は固唾をのんだ。

「…紫詠さんは?」

案の定の紙を擦るような汚い小さい音が、喉から洩れた。
彼女は、訊き返さなかった。

そして、僕の目を見てはっきりとこう告げた。

「…いま、沙代ちゃんを捜しに行ってる。」

瞳孔が思わず広がって、口端が引き締まった。
時間を遡っているような、そんな錯覚に襲われた。

そんなはずはない、だって、沙代ちゃんは…
気が付くと僕は、熱い涙を流しながら、首を横にふるふると振っていた。

「ねえ。」

顔をゆっくり上げると、目の前には真剣なつぶらな瞳。

「…沙代ちゃん、知ってるの?」
その問いが、残酷だった。
一気に溢れだす涙と、僕の荒い呼吸が、答えだった。

「…そっか。」

ぼんやりとした視界の中で、昨狐さんが頭を軽く押さえた。
つうと、一筋の雫が白い綺麗な頬を伝うのが見えた。

彼女は、全部を悟ったんだ。

「…八日前の夜、家にこっそり誰かが入ってきてね。
 バタバタという音がしたから、見てみたらもう誰もいなかった。
 忽然と、消えたように、何事もなかったように。」

…でも、それならもうしょうがないんだ。
そんな言葉と一緒に、彼女は潤んだ声で話を締めた。

いたたまれなかった。

こんなに、紫詠さんや昨狐さんを悲しませるなんて。
あんな奴、どうにでもなってしまえばいい。

どうせ、今頃のうのうとほかの村人を襲っているに違いないから。
僕のことなんかけろりと忘れ去って。

そうでないとしたら彼女は単純だから、僕を恨んでいるに違いない。
ずっと一緒にいたのに、あんなに一緒にいようと言ったのに。

きっと、いつか彼女は恨みを買った誰かに殺されるんだろうな。
一人だけで、こんなに、こんなに…つらいのだから。

…今頃、彼女はどうしているんだろうか?
本当に、怒っているのだろうか。
何も疑いもなく、他の人を襲っているのだろうか。

ちょっと考えればわかる。
今までの彼女なら、僕を捜しにきたはずだ。
でも、それをしてこないという事は、答えは一つだった。
捜しに来れないほど、病みこんでいたのだ。

「僕は、馬鹿だな…。」

あんな事を彼女にしたのだ。
平気なわけがない。

動かない花を心のよりどころにしていた、彼女に。
僕は…なんて事を…

「…それにしても、紫詠は遅いね…
 夕方には帰ってくるはずだったんだけどね…」

ふと、昨狐さんの声が少し遠くでする。
昨狐さんは雨戸を覗き込んでいた。

真っ暗な、闇の中。
氷の矢のような雨が、ひたすら無慈悲に地面を打ち付けていた。

身体が先だった。
僕は身体を起こして、動かない左足を引きずって立ち上がる。
昨狐さんの声が聞こえるか聞こえないか、もうわからない。
すでに、激しい雨音にかき消されていた。
明りから背を向けて、ひたすらに走っていた。

ある一つの、最悪の事態を頭に浮かべながら。

白い息が、黒く凍てついた空に上がる。
雨は、この狭い世界を冷やしていた。


間に合ってくれ…頼む…





こんなことになるのなら、
最初から徹底的に人を襲わせないように言えばよかった。
僕にはそれができたはずなのに、それができなかった。
いや、しなかったと言った方が語弊がないだろう。
彼女を中途半端に尊重して。
それが彼女にできる最善の策だと思っていた。
違ったんだ。

彼女が寂しさから、人を襲う事は薄々知っていた。
寂しさを伝えるすべを持っていなくて。
人肌の躍動と、生きている実感を求めるために、人を襲う。
空腹も手伝っての行動だったという事。

わかっていたのに…わかっていたのに…

僕がすべきことは、働く事なんかじゃない。
彼女とずっと一緒にいる事だったはずなのに。
もう二度と寂しくさせない事が、僕のすべき事だったのに。
僕は、彼女の事が内心不気味だった。
どこかで、心を許しきれずにいた。
もう、目の前で誰かが死ぬのを見たくないから。

勝手な感情だった。
ずっと彼女と一緒にいて。
ずっと彼女と一緒に魚やら木の実やら採って。

そうしていれば、こんなことにはならなかったのに…

僕がしきりに急いでいたのは、降りしきる雨が冷たいからじゃない。
今日彼女を失った僕を、明日の僕は許さない。
生きている間、ずっと。

彼女を傷つけた僕は、許せないほど腹立たしいけれど、
そのまま見殺しにすれば、僕は自分自身を殺さなければ気が済まないかもしれない。

それだけじゃない。

さっきから、嫌な予感がしてたまらないのだ。
ぴのすけの事だ、雨で身体を冷やしたところで死ぬはずがない。

僕が危惧していたのは…


どれだけ足を虐め抜いたらこんな事になるのだろうか。
もう僕は考えて動いていない。

川の音、ひたすら上流に向かって身体を這いまわして。
濡れた重い身体は、既に動かなくなってきている。
それでも走り続けた。

やっと、辿り着いた。

洞窟のすぐそばの、林道だった。

向かい合う大小二つの影の間に、反射で身体ごと飛び込んだ。
間に合った…!!

肩の辺りに鋭い違和感。
鈍くて、重くて。
痛い。熱い。

…嬉しい。

…ぴのすけを、今度は守れた。
「……ヒカリ?」

地面には光る苔がばらばらに散っていた。
その苔にぼんやりと照らされた、綺麗な白い両の膝。

見上げると、すっかりやつれた可愛らしい顔が目の前にあった。
よかった。
まだ、彼女は傷つけられていなかった。
その案じた綺麗な目は、僕だけに注がれていた。
胸の奥から湧き上がる高揚した気分。

僕はゆらりと立ち上がった。

どくんどくんと、肩の辺りが脈を打つように、熱い。

「…ヒカリ君…ですか?」
よく知る動転した声に、僕はゆっくりと頷いてみせた。

僕を斬った主、恩人に向き直って、小さく息を吸って。

「今すぐ、ここから出て行ってください。」

自分じゃない誰かが口を引き裂いて喋っているようだった。
掠れた稟とした声は、雨の中に響いた。


つづけ