東方幻想明日紀 十二話 断ち溶けた僕の柔らかい雪

洞窟の中は、いつもよりも寒かった。
気分の問題もあるけど、物理的にも。

珍しく朝からぴのすけの姿がなかった。
まだ朝といっても、太陽が昇る前。

こんな時間には寝てるはずなんだけどな…
夜型に近い生活をしているから未だに食料を取りに行っているのかもしれない。

だんだんと、のどの辺りがむず痒くなってくる。
考えても無駄かな。

…どうせ昼には帰ってくるだろう。
そう思考を切り上げて、僕は洞窟の外に足を踏み入れた。

外は薄明るい静かな銀世界と化していた。
…ふと、足下に僕は目を奪われた。

足跡が、点々と村の方に続いている。
その足跡は浅くて、殆ど楕円の形になっていた。
…ぴのすけ、随分前から洞窟にいないんだな。
小さくため息をついてその足跡を消さないように、
僕は一人で新雪を踏みしめた。
足下でするきゅっきゅっという音が、
少しだけ淋しさをまぎらわしてくれた。


「あれ、今日は随分早いんですね?」
「もう日の出はすぎましたよー。」
詩詠さんを訪ねると彼はいつも通り、朝の仕込みをしていた。

「まだ、沙代ちゃんも昨狐も起きてませんよ。」

眼鏡の青年は苦笑した。
すぐに視線を僕から外して、青年はまた仕込みを始めた。
…沙代ちゃんもまだ起きていない時間だったのか。

いつでも僕が来ると、起きててせかせかと働く印象が強かった。

桃色の髪の妖狐の女性はたまに寝ている事があったが、おおむね起きていた。
彼女の名前は「昨狐(さこ)」といい、
ほぼ確実に紫詠さんとお付き合いをされている。

さて、いつ結婚するのやら。
下世話な事を考えたなとは思ったが、考えてみると新鮮だ。
彼はなかなか生真面目なので、自分からそう言った事は言わない。
どうせ、結構いい関係なのだろうし(憶測)。

よし、仕事オンリーな男も息苦しい。
ちょっとからかっちゃる。

「ねえ紫詠さん、最近昨狐さんとはどうなんですか?」
「…えっ、どうとは…。」

紫詠さんは手を止めて僕に再び視線をやる。

「どうじゃないですよ。どこまで進んだのかって話です!」
僕は満面の笑顔で尋ねた。
背丈を考えるととんだマセガキと映る事だろう。

もう手ぐらいは繋いだのだろうか。
少なくとも今は自分をかなりの下衆だと思えるが関係ない。

「最近ですか…毎晩激しく」
「ちょっと待ってください。」
そこまで尋ねた覚えは一切ない。
何だそのさわやかフェイスは。もうちょっと表情崩しなさい。

「?ああ見えて意外と…」
「頼みますので朝っぱらからこんな話深めないでください。」
指を立てて僕に本物の痴話を続けようとする紫詠さんを制止。
もしかしたら彼は疲れているのかもしれない。

「…そういうヒカリくんは、沙代ちゃんとはどうなんですか?」
「はい?」
思わぬ質問に面喰ってしまった。
こんどはこちらの番だとばかり…ではなさそうだ。
目を見るとわかる。純粋な質問であった。

普段を考えてみると、僕と彼女は長い事一緒にいる。
「…秘密、です。」
ただし、どうと言われても、わからない。
考えると頭がショートしそうで。

沙代ちゃんの事は嫌いじゃない、むしろ好きだ。
でも…きっと紫詠さんが昨狐さんに思うようなそれではない。
だから、むやみに答えてもおこがましいだけだ。
「そこを何とかお願いします…」

まさか食い下がってくるとは。
まあ、そこまで言われたのなら仕方ないか…。
「…正直なところ、まだわからないんです。」
何も包み隠さず、そう彼に告げた。
彼の表情が緩んだのがわかる。
「若いですねえ。本当に。
 いや、初心なだけかもしれませんが、いい事だと思いますよ。
 それに、彼女を助けた時に自分の帽子をあげたんですよね?
 初対面の子に、普通あげたりしませんよ。」
腕を組んで、青年は首を上下に軽く振る。
「本当ですか…まあ、彼女がどう思ってるかは知りませんが…。」
「はは、沙代ちゃんは君の事好きだと思いますよ。」
「あはは…はは?えっ。」
ああ、好きってなに、あれか。
普通に、友達としてだよね。当たり前だよね。
「純粋な方がいいと思いますよ、何だって新鮮ですからね。
 妖怪の中には性欲の塊みたいな方がえぐっ」

あ、紫詠さんの眼鏡が吹っ飛んだ。

「朝から何を話しているのかなあー?」
「いえ、なんでもないですよ。ちょっとあなたの武勇伝うっ」
のろけてる…のろけてるよ…

昨狐さんが蜘蛛のように満面の笑みを浮かべながら紫詠さんにヘッドロック
紫詠さんも雲のように満面の笑みで腕をプルプルさせながら無駄な抵抗をしている。
なんてシュールな光景なんだ。
仲睦まじいようで結構結構。

「…何これ、戦場?」
「ううん。戦いというものは力が近いから起こるんだよ。」
目をこすりながら、沙代ちゃんも起きてきた。
考えてみると、そんな時間に僕はここに来ていたのか。
ぴのすけがいないと一人で洞窟でいることすらできないんだな、僕。


お昼頃、いつものようにお給料をもらって、市場に買い物に行く。
「おう、イモ坊や、何袋だい?」
「五袋で。」
悪口みたいで最初は嫌だったけど、今じゃその呼び方は慣れっこ。
なぜかって必ずじゃがいもを買うからだ。
大きくなったらイモ野郎とか呼ばれるんだろうか。
まあ、ぴのすけが好きなんだからしょうがない。
それに今日は長い間獲物を取りに行っている(だろう)から、疲れているはずだ。
沢山買ってきて、いっぱい喜ばせてやるんだ。

今度はちょっと高めの服屋に出向いて、ぴのすけの服も買いに行く。
「いらっしゃい、イモ坊や。」
僕の呼び名がここまで浸透していらっしゃった…
僕はイモじゃねえ。
そう女性の店主に心の中でつっこみを入れつつ、服を物色する。

どんな服がぴのすけに似合うかな…ではなく、長持ちの方向で。
条件は、下に着るもので濡れても透けないもの。
上着は水を弾くもの。理由はお察しの通り。

正直、条件に合う服を尋ねた時の店主の顔が忘れられない。
顔をまじまじと見られる恥辱に耐えながら、僕は買い物を終えた。

…帰ったら、きっとぴのすけがいる。

それだけが、ただひたすら僕に帰路を急がせていた。
雪が靴に入っては、僕の熱でとろけて僕の足を重くする。

…ひたすら歩を進めると、一つの洞窟へ向かう新しい足跡と合流した。
そこから、もう無我夢中で走り出した。

洞窟に着くと、一人の少女がぶっ倒れていた。
最悪の光景を連想していたが、肩が上下しているから安心した。
もう、長い間会っていなかったみたいに思えて仕方がなかった。

ぴのすけに駆け寄ると、少女は小さく寝息を立てていた。
起こさないように後ろに回って、かかとをさわると、かなり冷たくなっていた。

一体、何がそんなに彼女を駆り立てているんだろうか…

…あまりにも熟睡しているので、手も触ってみた。
やはりひんやりとしていて、寒そうだった。

何とかして温めてあげないと、いくら彼女でも厳しいのではないだろうか。
なめらかな氷のような頬を触ってみても、彼女は起きる気配がない。
ただただ気持ちよさそうに、安眠をむさぼっている。

僕は上の服を脱いで、少女の膝から下に掛けた。
そして彼女の両の手を、両手で軽く握りこんだ。

冷たいのに、なんだか凄く温かかった。
急に疲れの波が押し寄せてきて、目蓋を下げにかかってきた。

…僕も、寝よう。
やっぱり、ここにくると落ち着くんだな。
ぴのすけと、一緒なら。

目蓋を完全に閉じ切った瞬間だった。

「…すぐに、見つけてあげるからね…。」

高い囁くような声が、僕の耳元で響いた。
慌てて目を覚ますと、景色は何も変わっていない。

ただぴのすけが、寝息を立てているだけだった。
なんだ、寝言か…。

安心したのか、落胆したのか、僕は意識が飛んだ。




…遠くで、何かを洗う水音がした。

どれくらい寝ていたのだろう。それすらわからない。
洞窟の外は閉ざされた黒だった。
ふと見回すと、ぴのすけがいない事に気付いた。
暗い出口に向かって歩みを進めると水音は近くなる。

川の方に目をやると、ぼんやりと光る丸い縁があった。
少女が、こちゃこちゃと熱心に何かを洗っている。

脂汗が、滝のように噴き出してきた。
長く、長く寝ていたのだろう。

少女は僕の気配に気が付くと、
何かを洗うのをやめて、軽い足取りでこちらに近づいてきた。

胸元に苔玉を忍ばせているらしく、妖しい光がこちらに近づいてくる。
「ねえ、これなーんだ?」
笑顔で少女は、僕に濡れた、しっとりとした物を渡した。
それに目をやると、思考が止まった。

目の前の物が、何かを把握できなかった。
何かが、理解を拒んでいた。

僕の手のひらには、白い、薄赤い斑点まみれの兎の帽子。
何度見ても、思考がどんなに拒絶しても。

視界は正直で、僕の脳にそれをねじ込んでくる。
違う。

違う。

それが成した意味を拒絶していた。

徐々に自分の息が荒くなってきた。
視線の先が定まらなくなるのを、感じ取っていた。

「…ぴのすけ。」
「な〜に?」

違う。尋ねちゃだめだ。
訊いちゃ、だめ、駄目。

「これ…」

言い切る前に、少女が僕に弾む声と一緒に、さらに近寄る。
「凄く抵抗してたけど、やっぱり人間は弱いよねー。
 人間なんかがヒカリの帽子をかぶるなんて、私が許さないも…」

沸騰して、破裂した。
目の前が真っ赤になった。

「…っ、ぴのすけっ!!」

喉が裂けるような、奇声にも似た声だった。
気が付くと僕は右肩が外れるくらいに、白い頬を平手で振りぬいていた。
手の間隔が、痺れていて無くなりかけていた。

少女の右頬は、既に元の色をしていなかった。
黒い瞳は、闇を迷っていた。

猛烈な吐き気に似た何かが、全身に襲ってきた。

真っ白な頭で、僕は焼かれたように走り出した。
もう、自分が何をしているのかがわからなかった。
ひたすらに雪を削り、蹴飛ばしていた。

言葉にならない思考を、冷たい白にぶちまけながら。




…ふと左足の間隔がなかった。
自分が、座り込んでいた事に気付く。

左足の関節が、あり得ない方向に曲がっていた。
上を見上げると、断崖が僕の頭に続いていた。

小さな崖から、落ちていたらしい。

顔が、頭が、喉が、胸が焼き切れそうだった。
ぼんやりとかすんだ視界が重くのしかかって。

重たい右肩と左足は、今はどうでもよかった。
涎とも涙ともつかない物が、地面の雪に吸い込まれる。

手足を投げだして、僕は嗚咽を上げた。

もう、何が何だかわからなかった。

つづけ