東方幻想明日紀 八話 慣れは身を溶かす微温湯

刺すような日差しが、僕たちを照らす。
冷え切った眼差しは、土まみれの少女だけに注がれていた。
貫くような嫌な気配に、向けられていない僕まで凍りつくようだった。
「獲物…か。弱者ほど手段は選ばないものだが…
さすがに土に生き埋めすることはないと思うぞ。」

九尾の狐の女性は、わざとらしく肩を落とした。
おそらく、挑発だろう。
彼女は怒りに燃えている訳ではなさそうだ。
行いを粛正しようとしている。
戦いをふっかけて、それに勝つことで。

でも、手に持ったぎっしり油揚げの詰まった袋は、
逆効果だと思うんだよね。

…彼女はたぶん、強い。
ぴのすけのことだから、
きっと挑発を真に受けて、殴りかかるんだろうな。

僕ができることは、そうなる前に…
「ぴのすけ、ここは逃げ…」

言い終わる前に、小さな手が僕の手を握った。
「!」
かなりの速さで体が引っ張られて、
驚きつつも、安心した。
ぴのすけは、一心不乱に
女性とは反対方向に逃げていた。
僕の手を、つかんで。




「とりあえず、大丈夫だよね?」
どれくらい走ったのかはわからない。
肩を上下させて途切れ途切れの息で、ぴのすけは言う。
たぶん、大丈夫だとは思う。
距離の問題ではなく、敵意の問題で。

それにしてもぴのすけの事だから、
あの狐の女性を倒しにかかると思っていたのに。
「よく、逃げたね。」
「当たり前だよ…私たち、殺されちゃうもん。」

でも、彼女は危険を犯さなかったというよりは、
底知れぬ危険や恐怖から逃げただけだ。

今まで出会った誰よりも、彼女は危険だ。
お互い、そう思ったのだろう。

…何にせよ、ぴのすけが無事でよかった。
あの場で彼女が殺されてたら、僕も殺されていたかもしれない。

それにしても、先ほどから横にいるぴのすけが動かない。
視点がどこかに固定されているかのように、固まっていた。

「…ぴのすけ?」

少女の視線を辿ると、そこには先ほどの光景が蘇った。

「…あ…」

両手をそれぞれの袖に突っ込んで、さっきのままの姿勢で。
油揚げの袋は、もう見当たらない。

距離なんて、関係無かったんだ。

だが、先ほどのように視線は冷え切ってはいなかった。
…だって、横のぴのすけは半笑いの状態で腰を抜かしているから。

…ぴのすけ、もしかしてヘタレ?

失神寸前のぴのすけとは裏腹に、
目の前の狐の女性は静かに口を開いた。

「お前と対峙した人間は、こんな気分なんだ。
 …だが別に私は人間の肩を持つつもりも無ければ、
 お前に敵対するつもりもない。」

先ほどと違って、優しさが籠る声だった。

「…何を言いに来たんですか。」

もう、彼女に対する恐怖はなかった。
僕はその濃い太陽色の瞳を見つめて、尋ねた。

「人間はお前たちと同じように、怒りもあれば、憎しみもある。
 団結だってする。草花や鳥獣とは違うんだ。
 人間を一人殺すと、十人は、お前を一生恨み続ける。
 …それを忘れてたら、いつか思わぬ深手を負う…と。」

ぴのすけは人形のようにこくこくと頷いていた。
どう見ても、空っぽの表情をしていた。

わかったなと言う代わりに、狐の女性は背を向けた。
ゆっくりと立ち去る背中を僕はただ見つめていた。

さっきの言葉を、反芻しながら。
ぴのすけの存在は、この村において許されざる者となっている事。

そんな事実が、胸に釘のように刺さっていた。

ぴのすけを見ると、
急に耳元で大声を出された犬のような表情をしていた。
僕の白い兎の帽子をかぶって、すっかり縮こまっていた。

小動物みたいだった。

くすっと僕は笑って、彼女の腕を引っ張って起こした。
大丈夫、大丈夫って頭をなでてあげた。

少しだけ彼女は口元を緩めた。

「…これから、どうする?」
僕が尋ねると、彼女は目を細めて首を振った。
何度も、何度も。

「じゃあ先に戻ってて。僕はじゃがいももらってくるから。」

少女は深く頷くと、風切り音と同時に、砂を巻き上げて消えた。
喋る気力はないみたいだ。



ぴのすけがいなくなるのを確認すると、僕は倉庫に向かった。
多分、まだじゃがいもはあるだろう。

もらってくると言うと語弊があるが、要は盗んでくるのだ。
あまり新しくないから、恐らくあのじゃがいもは不要なものだ。

そういうことにしておこう、うん。

何事も慣れというものがあるのだが、善くない慣れだと思う。
繰り返すたびに良心が少しずつ褪せているのがわかる。

ぴのすけの「狩り」も、だんだんと当たり前の事になってきた。
もちろん、僕には出来そうもないけど。


疑念をほとんど抱かずに倉庫の扉を開けた。
軽い手ごたえ、僕は中に入る。

…最近不思議な事に、そながあまり話しかけてきてくれない。
今まではふと気が付くと、僕に語りかけてくれたのに。

それが心残りで、不安だった。

そう、例えばじゃがいもを盗む罪悪感に駆られた時。
彼女はそっと僕の背中を押してくれた。


僕は軽い足取りでじゃがいもの袋を掴み、そのまま抱えた。
そして、そのままの脚で倉庫の戸をくぐる。

袋を置いて戸を閉めた。
再び振り返ると、陽の影が僕の脚にかかっていた。

「…何しているんですか?」


口だけがぱくぱくして、声が出てこない。
違うと弁明したかったのに、乾いた空気が口から漏るばかりで。

青いふさふさの尾耳をつけた目の前の眼鏡の青年に、これは違うと。
でも、僕はその場にへたり込むだけだった。


頭が、真っ白になった。
こんな姿を、よりによって彼に見られるなんて…


つづけ