東方幻想明日紀 二十二話 解けないふたつの雪の塊

さほど登っていないはずだった。
道は険しくなかったはずだった。

しかし、地面の色は一面に照り返しを強めていた。
川の上流は、神秘的な雪の世界だった。
この小さな山の頂は、こんな様相になっているとはつゆ知らず。

「こんなことになってるんだ…」
ふと、ため息ともつかぬ小さな声が横から漏れる。

「いだっ」
「えっ…?えっ?」

びっくりして振り向こうとしたらムチ打ちになった。痛い。
首を押さえながら、彼女に大丈夫と言って離れさせる。

ぴのすけは不安そうな雰囲気を湛えて、周りを歩き回る。

「ぴのすけも上流には来たことないの?」
「だってどうでもいいもん。人間だっていないし。
 私ほら、人間大好きだから。」

どこの口がそんなことを言うのか。
しれっと言い放つ清々しさ。ある意味好きなのだろうけど。

…いや、本当に仲間として好きなのかもしれないぞ。
口に出すのはやめておく。僕の命のために。

「思ったより、何もないね。」

上流は不思議な神秘さを放っていた。
でも、ただそれだけ。

そこには雪の積もった大きな溝があるだけ。
あとは全部、白銀の世界だ。
木の本数もかなり少なくなって、まばらだった。

しかし、不思議と寒くはない。

日差しを遮るものは決して多くはないのに、陽光を拒んでいた。
秘境、そんな言葉がここにはしっくりとくる。

それでは困る。

川が枯れた原因は一向にわからないのだから。
「ぴのすけ、その溝に溜まった雪を掘りだそう。
 何かわかるかもしれない。」

「わかった!」
ぴのすけは何の疑念も感じずに、
溝の上に走り寄って四つん這いになって犬みたいに地面を掘り始めた。

…なんだろう、この胸のざわめきは。

「はやく!手伝ってよ!」
彼女がせかす声で、はっとなった。
急いで駆け付けると、僕も腰を落としてゆっくり雪を見た。

もしかしたら、この雪のせいで下流に水が行かなくなっている?
つまり、ここの雪は全部元々は下流に流れるはずだった。

そう考えれば誰かがここを凍らせて、下流へ水を流れ込まなくした?

…なるほど。謎は解けた。
僕は掛けていない眼鏡をすっと上げる(ふりをした)。

「!?」
すると、急に足が引っ張られて、視界がぐわんと傾く。
背中から柔らかいものにぼふっと着地して、空が見えた。

「もー、何で手伝わないかなー?」

ぴのすけが僕の足を引っ張ったようだった。
ただ、そんな事は地底人の寝言くらい、
今の僕にはどうでもよかった。

無我夢中で雪を掴んだ。


冷たくない。

握っても、解けない。


…雪じゃない!?


「ぴのすけっ!?」
「うふぁい!?」

見上げた少女の面影は、直立不動で硬直していた。
…あ、大声出しちゃいけなかったよね。

あの時殴ってしまったのが心に残ってしまったのだろうか。
胸を抑えながら、ぴのすけに落ち着いてのジェスチャーを送る。

少女の肩が降りたのを見計らって、僕は息を吸う。
「これ、冷たくないよね?」

問いかけると、ぴのすけは雪を拾い上げた。

そして、少しの間を置いて、身体をビクンと震わせて雪を落とした。
「え?ほんとだ!!」

ぴのすけは神経が死んでるのではないだろうか。
雪を掘っていて冷たいのに気付かないなんて…

でも、夢中なら仕方ないのかもしれない。

「…この雪、持ち帰ろう。」
「全部?」
「ぜったい無理だからね?まあ大体手に握れるくらい?」

たぶん、本気で言っているから恐ろしい。
ぴのすけに目をやると、また雪を犬みたいにざかざかやりだした。
こんな寒いというのに、半ズボンで。腰マントが余計に扇情的で。

喉の固唾を通す音を聞かれまいと、僕は少し離れた。


僕は駄目な奴だ…。



「ところで、これからどうするの?」
「溜池に行って水汲み。」

帰り道、休耕している水田の道を二人で歩く。
もう川からは離れた。やはり変わらぬ様相だった。

日はほとんど傾き、西から淡い橙が射しこむ。

容器はとりあえず近場でついでとして買ってこよう。
確か紫詠さんの家には一つしかなかったはずだ。

ついでに、笠も。

「すっごく似合うよ。」
「ほんとう!?」

ぴのすけのはちきれんばかりの笑顔が、胸を刺した。
かわいい、嘘なんかじゃない。

本当は、彼女の顔を隠したかった。
人がいっぱいいる場所で、
彼女と出かけるのは途方もない不安があった。

正しいのか、間違っているのか、わからない。
彼女の気持ちを守るため、彼女の身を守るため。

…こうするしかない。

唇をぎゅっとかみながら、彼女の笠の紐をきゅっと結ぶ。


「うわっ…」

案の定小さな村のはずれの溜池にはかなりの人が集まっていた。
数えるのは億劫になる。三、四十人ほどだろうか。

そして遠目に見てもわかる事だが、水位が目減りしている。

列の最後尾に二人で並ぶ。
気配を察した前の人が、咄嗟に振り向いた。

「あら、イモ坊やじゃないの。ぴのちゃんも。」
…そこには朗らかな表情を浮かべたおばさんの顔。
手には、でかい木桶を二つ持っていた。

「こんにちは。それ、持ち帰るんですか…」
間違いなく肩を壊しそうなものだが。

「大丈夫よ。日頃から旦那を殴って鍛えてるから。」
これは清々しい恐妻。彼女も妖怪なのではないだろうか。
虫も殺さぬような顔をして。ああこわい。

もう誰も信用しちゃいけないような気がした。

「ところで、ぴのちゃんとはどう?」
「まあ、普通ですよ。」

耳打ちに対して、さらりと流した。
おばさんは目尻を落として、残念がるふりをした。

すかさず、おばさんはぴのすけの傍に瞬歩で耳打ち。
止めようとしたが、時すでに遅し。

ぴのすけは被った笠の鍔をぐっと下に押し下げて顔を隠した。
何やら、中でぶつぶつ言っていた。

おばさんが離れても、ぴのすけは笠を下ろしたままだった。
「…何吹きこんだんですか。」

「おっほほほ、えふ、うえっ。…なんでもないですよ。」
むせてる。慣れない笑い方をしたせいだ、絶対。

大きくため息をついて前を見ると、そろそろ自分の番だった。
ぴのすけは、相変わらず笠で顔を隠していた。

「…もう、そろそろさ。」
彼女のつばを持ち上げると、
彼女は慌てて手を添えようとしたがもう間に合わない。

…ぴのすけの黒いつぶらな瞳には大粒の涙が浮かんでいた。
身体が凍りつく。声をかけようとさえ思い立つ事が出来なかった。

彼女が泣いたのを今まで僕は見た事があるだろうか。
一度だけ、たった一度だけ。

僕と彼女が、和解したときだけ。
理不尽に嫌われたと思ったら、仲直りできた、たったその一度。


何を吹きこんだんだよ一体…
周りを見回すと、既におばさんはいなくなっていた。

「…大丈夫?」
「うん…」

疑問を抱きながら、彼女の目元をぬぐう。
彼女は少しだけ、笑った。


目は、笑っていなかった。



水を急いで汲んで、溜池を後にする。
歩くごとにどんどん水の桶が重くなってきているような気がした。

…不意に、思い立った。
虫の知らせに近い、本能的なそれだった。

懐の内袋に手を入れる。
何も入っていなかった。

解けない雪を入れていた場所に。
濡れた痕跡すらなかった。

「…ぴのすけ、雪は?」
「えっ…」

ぴのすけも懐をもぞもぞする。
少しすると、驚嘆の表情を浮かべた。

二人で、首をかしげる
怖くもあった。
理由は、もう僕の理解の範疇を超えているような気さえする。

「とりあえず、紫詠さんに今日の事を話そう。」
ぴのすけは首をそっと下におろした。


既に辺りは足元を奪うような夜に煙っていた。



つづけ