東方幻想明日紀 二十一話 友達という名の枷

浅く斑に積もる雪の上に、二人。
殺気を滾らせる少女と、瞳の光を表情ごと消してたたずむ少女。

事の顛末はすぐに想像できた。
…身体が動かない。
二人の間に、割って入らねばならないのに。
強張ったように動かない。

「どうして、こんなことをしたの」
俯いくまま、肩を震わせるまま。
少女は脱力した声で、ぽつりと話しかける。
「……この花、私にちょうだい。」
「だめっ!!」

ぴのすけが、吠えるように唾液を含んだ声で叫んだ。
緑髪の少女はぴくりと一瞬身体を震わせて、一歩後ずさる。
「……あなたには、こんな花いらない。」
「いるよ…!お前に何がわかるのっ!」

緑髪の少女が一歩下がると、ぴのすけが一歩踏み出す。
少女の顔は無表情に見えたが、額には汗が浮かんでいた。
だが、一向にその手に持つ大輪の花を放す気配はない。
「……必要ないと言っているの。少なくとも、今のあなたには。」
「っ…!」
少女の目に光は宿っていない。
ただ、ひたすらに恐怖に耐えているように見えた。
一方のぴのすけだって、攻撃には移っていない。
ひたすらに、その衝動を理性で抑えつけていた。

もう僕の割って入る隙間なんてどこにもなかった。
網目のように死線が張られた一触即発としか形容できない状況が、そこにある。

…不意に少女が、緑色の髪に覆われた頭に、乱暴に手をかけた。

「!?ぴのッ…」
思わず、彼女の視界に回り込む。
気が付くと僕はその白い華奢な手を掴んでいた。

「駄目だ…。」
「放して。」

静かに言い放つ。
二つの目には強い赤い光が点っていた。
異様な雰囲気に気圧されそうになりながらも、その手を強く握る。

「………やめて。」

トーンの低い、掠れたような声が耳をぞわりと撫でる。
声の主は、花を抱え込んでいた。

「………どうせ、この子は私を殺せやしない。」
挑発ともとれる言葉を一緒に残して。
僕の後ろで、奥歯を擦るぎりりという嫌な音。

「どうしてそんな事が…」
「………だって、約束破っちゃうでしょう?」

人を襲ってはいけないという約束。
あの時もう二度と襲うなと、一方的に取り付けたあの約束。

「……何かあると、逐一この花に彼女は報告をした。
 彼女の色々な感情が……この花に蓄積されてる。
 まあ……そのほとんどは……寂しさ。」

少女は、その白い花の匂いをすっと嗅ぐ。
目蓋を下ろして、小さく、落ち着いた様子で。

「…でも、もうこの花は感情を吸い取りきれない。
 ……そのうちあなたに逆流して、大変なことになる……」

少女は重い口をやぼったく動かしてさらに続けた。

「という事は、ぴのすけを助けてくれたの…?」
少女は答えなかった。
こちらに視線をわずかに合わせて、ぴのすけに戻す。

「……あなたの友達は、役目を果たした。
 ……私はこの花がほしい。だから、これを頂戴……」

緑髪の少女の言を受けると、ぴのすけは淡い唇をぎゅうと噛んだ。
何も答えずに俯いて、花を抱え込む少女の胸の辺りを押した。

「…もう、この花はあなたに必要ない。
 心の拠り所が……今のあなたにはある。」

少女は、ふっと微笑む。
口調は流暢ではなかった。
同時に饒舌だった。

…きっと悪い奴じゃない。
直感的に、そんな事を考える。

「どうして、その花が必要なの?」
「………」

少女は怯えたようにちらと視線をやり、すぐに引っ込める。
おいおいなんだ。僕は嫌われてるのか。

「そうだ、名前教えてよ。」
ぴのすけが不意に少女に話しかける。

痺れるような、何かの衝動に襲われた。
ぴのすけが、名前に価値を見出しているなんて。
自分の名前さえ知らなかいほど無頓着だった彼女が、だ。

…やっと、彼女は「人間」になったのだ。
その場で赤子のように抱きしめたい気持ちがあったが、必死で抑えた。

ぴのすけは真剣な面持ちで少女の口が開くのを待つ。

「…ヰ哉 彼我(いがな ひが)。もう気が済んだ……?」
緑髪の少女は、露骨に嫌そうな顔をしてため息交じりに言う。
ぴのすけが頷くと、少女はすっと消えた。

辺りには、寂しい土と雪の小世界が広がっていた。
既に、目的を忘れかけていた。

ヰ哉…彼我か。変わった名前だな。

ふと、横で深く息を吸い込む音。
目をやると、ぴのすけは晴れ晴れとした顔で突っ立っていた。

顔を覗き込むと、いかにも満足げであった。
何かの呪縛から解き放たれたように。

「いこ?」

思い出したように、彼女は僕の袖をつかんだ。
咄嗟に身体を固めた。

訳がわからなかったが、少しだけ時間をおくと理解が追い付く。
僕たちは上流を目指していたんだ。

「ほら、どんどん歩いていこうよ。日が暮れるよ?」
こんな事を言って、勝手に歩きだし始めてしまった。
慌てて追いかけるけど、彼女は足を止めない。

火がついたように元気になった彼女の足取りは、嘘みたいに軽かった。
こんな短時間で何が彼女をここまで変えたのだろう。

作り笑いを浮かべて、僕は足を早める。

ここから先の道は僕の見た事のない場所だった。
どんどん川幅であった溝が狭くなってきている。

斜面も、歩いていて疲労を増幅させる程度にはなってきていた。
地面に占める白の割合も増えていく。

ぴのすけがふと立ち止まった。
「ねえ。」

僕も立ち止まる。
斜面から落ちそうになったのを、足を後ろに踏んで耐える。
どうしたの、と尋ねる代りに首をかしげてみせる。

「…いっぱい、話したい事があるんだけど、いいかな?」

首を縦に振らない選択肢があるわけがない。
彼女の表情が、僕にそうさせないことを拒む。

脅している訳じゃない。
むしろ、綻んでいた。

だからこそだ。

ぴのすけは、表情が柔らかくなっていた。
以前から、彼女には表情ができつつあった。

でも今はより一層、彼女は笑っている。
固まった殺人鬼の半笑いなんかじゃない。

ひとの温もりをもった、心を洗い去るような笑顔だった。
うれしかった。
ただひたすら、うれしかった。

原因は知れなかった。

時間を忘れるかのように、僕は彼女の話を聞きながら歩みを進める。
木々が深くなっているのも、雪が深くなっているのも。

…不穏な空気が漂っているのも、気付かずに。


川のはじまりまで、あとすこし。


つづけ