東方幻想明日紀 二十六話 正義の山姥と水精

深闇の中で、ひとり。
同行者の一瞬の死に動揺している暇なんて無かった。

ゆっくりと、その刀を持った長身の女の影は近寄ってくる。

模様はおろか、視界を確保するための節穴一つ空いていない
異様な白無地の仮面に、底知れぬ不気味さも感じていた。

僕の足は、もう自らの意志では梃子でも動かない。
まるで違う生き物のように縮みあがって震えているのだ。

瞬きすらできずに、その揺れる黒い結った長い髪を見つめていた。
上下に、毛並みのいい馬の尾にもよく似たその黒髪。

その姿が、どこかで…



小さく終わりを予感した。


…不思議だ。

いくらか安心している自分が、僕の中に確かに存在するのだ。
こんなのあり得ないはずなのに。


やがて、女は僕の目の前に来た。
冷や汗はすっかり引いていた。

そこに転がっている男のように、僕の心持ちは静かだった。

そして、無機質な白一色の仮面がとうとう目の前に。

手元に松明なんてもう存在していない。
光源は、目の前の女なのだから。

静かな林には、長い長い沈黙が溶け込んでいた。

不意に、女は自分の仮面にゆっくりと手をかける。


息をのんだ瞬間、重い打撃音と一緒に目の前がふっと暗くなる。
一瞬何が起きたのか、まるでわからなかった。


「…大丈夫だよ。」

聞き覚えのある声が、暗闇の中でした。
間違えるはずがなかった。

たとえ、全てを忘れたとしても、
この声だけは判別できる自信があった。


「ぴの…すけ?」

真っ暗やみの中、少女の穏やかな声。
横に目をやると少し遠くにさっきの女が光を発しながら倒れていた。

その女はゆっくりと起き上がる。


まるで浮き進むかのようにこちらに距離を詰めると、
いつのまにか抜いた刀を、大きく振りかぶっていた。


「あぶないっ!!」

僕ではなく、ぴのすけに。



彼女の小さな背中めがけて、僕は飛んだ。
肩を掴んで、冷たくない残雪の上にねじ倒す。

ゆっくりと傾く、可愛らしい驚きの表情の顔。
僕はそっと、届かない笑顔を送った。

ドシャッという音。

目をギュッと瞑った。
きたる一瞬に力みながら。願いながら。



…しかし、いつまでたっても僕の身体の下には、
ぴのすけの身体が重なっているばかりだった。

何も感じなくない。

世界は、まだ動いていた。

ぴのすけが、上に覆いかぶさる僕をごろんと横に押しやる。

逆さ向きになった視界に、一人の少女が、
烈火のごとく立ち向かっていく。

仮面の女は、片手でそれを弾く。
目まぐるしく展開していく視界。

僕は思考を放棄していた。

反対になった世界が、戦う二人を映していく。
目まぐるしく、変わっていく。

はっとして、僕は手を付いて起き上がった。
その背の高い女性は、殺気立っていた。

黙して何も語らなかった。
ぴのすけにかわされる刀の動きが急所、細い首筋の一点のみを狙っている。
必死だった。
刀の動きに一切合財、余裕と迷いはなかった。

不意にぴのすけが白仮面の女の頭を掴んだ。
後ろに引き倒して、馬乗りになる。
素早く仮面の真中に、その拳が数往復する。
ゴキンと重い音が響いた。

戦力の差は圧倒的だった。
死に物狂いで差し出した切っ先をぴのすけは当たり前のように白刃取りをする。
薄く切った絹豆腐を箸で持つかのように、彼女は刃先を折り捨てる。

何ともなしに、吸いつかれるように、あの仮面の女を見た。

顎先に、光る雫が付いていた。

ぴのすけが、指先をそろえて肘を上げた。


何かが、僕の中で爆ぜ飛んだ。



少女の尖らせた点のような指の先が目の前に見える。
驚いたような無傷の色白の顔には、僕の影がかかっていた。

あと一瞬、その何十分の一。

彼女が手を止めるのが遅れていたら、白い手首は僕の後頭部に入っていただろう。

「ぴのすけ、離れて」
淡々と言い放つと、少女は口を一文字に結ぶ。

ぴのすけは、女性の身体からゆっくりと降りた。
僕も肩を浮かせて向き直ると、どこかで嗅いだような匂いがした。

視界のほとんどが、白い仮面だった。

そして、女性の色白の大きな手が、仮面にかけられた。
その手は、ゆっくりと引いた。

そこに現れた光景に息を呑んだ。

すっとした鼻筋。高い位置の目。
きりっとした細い瞳の奥に、幼くて純粋な光が点っていた。
細い上がり気味の目じりに、含み切れていない大粒の涙。
その大きな背丈は、まるで問題ではなかった。

理屈じゃない、はっきりとわかる。

「女性のかたち」の少女は、思い切り僕を抱き寄せた。
ふつふつと、思いがあふれた。


「…沙代ちゃん。」

心が口から漏れだすかのように、僕は言葉を紡いだ。
少女は、背骨が折れそうなくらいに拘束を強めた。

どうして、喋れなかったのだろうか。

どうして、彼女がここにいるのか。
あの日の出来事は、無かったのだろうか。

そんなわけがない。

彼女が、喋れないからだ。


彼女が、成長しているからだ。


死にながらにして、身体だけ成長しているからだ。


でも、そんなことどうでもいいんだ。

僕も小さな身体を強く彼女に押し付けた。
「ごめんね」


蚊の鳴くような声で必死で絞り出した。

大きな綺麗な手は、僕の帽子の耳をそっと引っ張った。




どのくらいの時間が経ったのだろうか。
お互いの涙が引いてきた。
絡めていた腕もほどいて、少し離れた位置に座りなおしていた。

ちょこんと、白髪の少女が傍に座った。
ゆっくりと、小さな口が開く。

「もしかして…」
それ以上は言わせまいと、僕は首を縦に振った。

彼女を責めるつもりなんてなかった。
でも、現実とは向き合ってほしかった。

僕たちは、けじめをつける幸運を得た。
察したぴのすけは、彼女の片手を両手で握った。

沙代ちゃんの顔から、すっと血の気が引いた。
ぎゅっと目を強く閉じて自分と闘っていた。自分の記憶と。

彼女は目をそっと開けた。 

そして、ぱくぱくと口を動かした。
唇から読んだ言葉。「ヒカリをまもってあげてね」

…え?

少女はふっと涙交じりに笑うと、透明になった。
ばしゃっという水音と一緒に、辺りは真っ暗になった。



あっという間だった。


「!?」
ふと、懐がじわっと冷たくなった。

懐を探ると、溶けない雪が無かった。
かわりに、しっとりと服が濡れていた。



「…そうだったのか」



僕は、闇に小さく呟いた。


つづけ