東方幻想明日紀 二十四話 本当の敵

「…おはよう、起きて。」

眠たい目を擦ると、ぼんやり見えていた黒い点々。
小さくため息をついて、身体を起こす。

彼女の手に握られている大きな二つの桶。
それをひとつ取って、ぴのすけの背後に遠い視線をやる。


「申し訳ありませんね…」
「いんです。居候ですから」

用意された朝ごはんを急いで食べ終える。桶をふたたび取る。
素っ気なく言い放ち、僕はぴのすけの白い手を引いて玄関を出る。

あの日から僕の紫詠さんを見る目が変わった。
彼が全部知っているような気がしてならないのだ。
そうして恩人を疑う自分自身も、吐き気がするほど嫌だ。

ここに僕の居場所はないかもしれない。


隠者のように深々と笠を被るぴのすけ。
少し強めに、僕はその顎の麻紐を縛る。
軽いはずの桶が重かった。

そんな、川が枯れてから五日目の事だった。

今日はいつも以上に人だかりが濃かった。
見ると子連れが多かった。
家族総動員で水を溜めにかかっているのだろう。

そっと最後尾に着く。
長い長い薄浅い色の人の列を見ると憂鬱になった。

「ねえねえ、暇つぶしをしようよ!」
「うん、喋るときは少しくらい笠を上げたら?」
呆れ笑いを浮かべて彼女の笠を持つとぎょっとした。

…少女の目には隈が出来ていた。
「ぴのすけ、その隈どうしたの?」
「あ、うん…変な夢ばかり最近見てね」
「どんな?」
「大した夢じゃないの…その、血を吐いて倒れる夢をね…」

彼女の表情は疲れ切っていた。
…だがその夢は一度だけ、僕も見た事がある。
宴会の席で独りぼっちになって、血を吐いて倒れる夢を見た。

「気にする事ないから。大丈夫…」
隈を浮かべた笑顔は痛々しく目に映った。
胸に何かが閊えるような嫌な感覚。

「おらたち全員…死んじまうのかね?」
「それはわからない。だが、今のままでは…」

不意に前から、そんな老人と壮年の男の会話が聞こえてくる。
聞き耳を立ててはいけないとわかっていつつも、思わず聞き入ってしまう。

「…孫たちは、今どうしてるかやあ…まさか、山姥に殺さ」
「それ以上は言わないでくれ…。」

壮年の男のたくましい手は、老人のしわだらけの口をふさいだ。

…なるほど。

どいつもこいつも、ぴのすけのせいにするなんて…
彼女はもう、絶対に人は殺さないのに…

「姑息だな…水源を止めれば、山に調査に来たやつを取って食える。
 奴にしては考えたな…誰の入れ知恵だろうな。
 絶対に許さないぞ、あの山姥め、私がこの手で八つ裂きにしてやる」

壮年の男は、ひげを蓄えた顎に震える手を当てて言う。

我慢するのが難しかった。
いますぐその髭面の口を引き千切ってやりたいほどに。

…冷静に考えてみよう。
恐らく水不足を懸念して調査をする隊を結成して若者を送り出したのだろう。
会話の様子から察するに、無理やり。

彼女と村の間には、既に深い深い溝ができていたのだ。

「爺、水汲みが終わったら私も山姥の討伐に出る。」
「お前さんまでいなくなったら、家を襲撃されたらおしまいじゃぞ…?」
老人は震える声で、すがるように口をうごめかす。

「安心してくれ、すぐに片をつければいい。
 奴の恐ろしさは夜間に急襲をする所だ。肉弾戦はさほど強くない。
 奴が昼に行動しないのもそういった理由だ。
 なにせ、相手はただの老婆だ。鍛錬を積んだ私の敵ではない」

…やはりこれだけ長く襲われていても村の誰一人、
ぴのすけの実像が掴めていないのは恐ろしい事だと思った。

きっと、そうやって散っていった戦士が沢山いるはずなのに。
それが知られていないのは、彼らが帰ってこないからだ。
骨すら残らずに、彼女は食べつくしていたからだ。

ただ、「山姥」はもういない。
いるのは「ぴのすけ」という少女だけだ。
そしてこの動乱は、彼女の仕業ではない。

だから、より気味が悪いのだ。


しばらくすると、人の列が短くなってきた。
人の頭の間から溜池を覗き込むと、愕然とした。

…底が、はっきりと見えるのだ。

これでは、あと二日もつか怪しい。
あの時、無口な緑髪の少女が言っていた事は当たっている。

あと二日で、どうやって解決すればいいんだろう…。
もちろん、村の調査団に期待しても無駄だ。
彼らの目的は騒乱の解決なんかじゃない。
「存在しない山姥の討伐」なのだから。

…ん?待てよ。


これは…チャンスかもしれない。


「ぴのすけ」
僕はにっと笑って少女の笠を再び上げた。

「?」
ぴのすけは、不思議そうに僕の顔を覗き込む。




村長のいない、村の大きな家。
その大きな待合室のような場所で、受付が行われていた。
調査隊の人員の簡単な面接とも言えぬ顔合わせのようなものだった。

列の前の男は朝老人と話していたあの壮年の髭の男だった。
その男は前に出る。
「…名は。」
「セザだ」
「よし、次」

重々しい雰囲気の中、僕は前に出た。
険しい顔つきの屈強な赤い頭巾を被った男は、顔をしかめた。

「貴様は妖怪か。」
「…人間です。」
赤頭巾の男は、せせら笑うように息を吐く。

「子供の出る幕ではない。帰って糞でも漏らしてしまえ」
「しかし、戦える大人はもう出尽くしたのではないのですか?」

赤い頭巾の男の言葉にかぶせるように僕は噛みつく。
男は、すぐに険しい表情に戻る。

もう僕は、あの頃の臆病な僕ではない。
ぴのすけと一緒に過ごした三年は、僕に強さを与えた。

「…名は。」
「ヒカリ。」

眉根を寄せたまま、赤頭巾の男は似合わぬ繊細な文字で僕の名を木の板に記した。
思わず、頬がふっと緩んだ。
やがて書き終えると、赤頭巾は木の板を机に叩きつけた。

「いいか野郎共これは一大事だ。憎き山姥を殺せ。
 全ての災厄の根源は奴にある。髪の毛一本残すな。」

彼女がこの村で暮らすのは無理があるような気がしてきたぞ。

…いや、ここで怯んでどうする。

彼女のためにも、早いところ解決してあげないと…。
もっとも、僕たちを含む村人全員が死にかねない状態なんだけれど。

「…明日では遅い。今日中に山姥を殺すのだ。
 では、全員俺についてこい!」

屈強なあかずきんさんはそれだけ吠えると一人でドアを蹴破った。
何してんだこの人…。お前の家じゃないだろう。

男たちは一瞬顔を見合わせ、あっけにとられた顔でそのあかずきんさんを追った。

静寂の訪れた寒い風が吹き込む部屋に、ふと気配を感じた。
「…お前、溜池にいたな。」

まだ残っていたのか、不意にあのセザという壮年の男が話しかけてきた。
子供がここに来るなとでも言いたいのだろうか。

「…お前に一つ、折り入って頼みがある。」
「!?」

予想外の言葉に当惑した。
「…村長を殺せ。
 恐らく別働隊で行動しているはずだ。山姥と一緒にな。」

そして、次の言葉は理解の範疇を超えた。
何を言っているんだ…。
村長とぴのすけが一緒に行動する訳が…

!!

…ここで、ひとつ別の見解に辿りついた。
雷に打たれたような衝撃が、自分を包んでいた。



もし「山姥」が、「ぴのすけ」ではないとしたら…



つづけ