東方幻想明日紀 十九話 幼き妖幻と水不足

ある日照りが眩しい、冬の終わりの出来事。

「…なに…これ。」

僕と紫詠さんは釣竿と魚籠を手に、その場に立ち尽くしていた。
二人で唖然として、そのはるかに広がる変わり果てた川を見た。
辺りに漂う腐臭から、鼻を守る気にもなれなかった。
どういった訳か川の水が、全て枯れていたのだ。

川底には魚をはじめとする生き物が力尽きていた。
何かもわからない湿った黒い泥が露出して、かなりの異臭を放っていた。

そのあまりにも唐突で非現実的な出来事に、
僕達はしばらくの間目くばせをした。

もしも、川の水が蒸発したのだとしたら大変なことになる。
魚は取れないのももちろん、
この村の生活用水はこの川の水を引いていて、
その水に頼り切りなので何か手を打たねば全員が死ぬ事になる。
溜池は一応あるのだが、それだって限られている。
しかも、村のはずれに位置するため、長い長い水汲みが毎日の日課に追加される。
それが尽きたらやはり危惧する末路になるのは避けられない。

ぴのすけの出会いの場である原点としての川。
僕の思い出の場所。

人為的なものとは考え難いし、今すぐどうにかなるものじゃない。
「一度、戻って村長に報告しましょう。」

僕と紫詠さんの考えが一致した。



「ああ、大丈夫だ。何も心配はいらん。」
「…本当に大丈夫なんですか?川の水が一晩で枯れたんですよ?」
村長さんは疲れ切った表情で、僕たちの言葉を突っぱねた。

「どうせ山姥の仕業だ。俺達村人を困らせようとしてるに違いない。」
「…」
表情に危うく出るところだった。
すでに、村人を困らせる「山姥」なんてものは、もういないのに。

ここの村人はこうして、何かある都度ぴのすけのせいにしているんだろうか。
自然災害や、村人のいざこざさえも。

見えない何かにそれを押し付けることで、安心を得ているのだろうか。
ぴのすけのやってきた事は容認できる事ではないけど、
たとえそれを差し引いても理不尽だし、不愉快だ。

「それより村長、しばらく寝ていないんですか?」
紫詠さんが少し逸れた話を切り出す。

村長は、重たげに眉を動かしただけだった。
なるほど確かに、村長さんの目には深い色の隈が出来ていた。

「…近頃、変な夢ばかり見るのだ。
 昨日は川が枯れる夢、そして村人全員が死ぬ夢を見た。」
重々しい声で、村長さんは語りだす。

冗談ではない惨事である。
彼は気付いているだろうが、川が枯れる夢は正夢になっている。

間違いない、これは…。

「後はわかるな…お前たちはもう帰れ。余計な事はするな。
 あくまでもただの夢だ。まだ溜池がある。雨が降れば川も復活するだろう。」
「ですが…」
「いいから帰れ。後は俺がなんとかする。」

村長さんは不機嫌そうに、僕たちを追い払うように言い放つ。
気圧された僕たちは、逃げるように村長の家を後にする。


「ただ事じゃなさそうですね。」
家に戻る際、紫詠さんが僕にぼそりと呟く。
僕は軽く頷いて、目の前の石を軽く蹴る。
「溜池を見に行きましょう。枯れていない保証はないです」
紫詠さんが呼応して、僕たちの足は村のはずれに向かった。

「ところで紫詠さん、村長さんとはどうやって出会ったんですか?」
何気なく、そんな話を振ってみる。
起こる事態とは裏腹に、こんなに天気のいい昼間。
気分を変えるのもいいかなと思った。

「…今の村長は、僕が来た頃にはもういましたね。数百年も前です。
 昔から見た目が変わっていないので、恐らく人間ではないはずですね。
 まあ、前の村長がぴのすけさんに殺されてから、少しだけ性格が変わりましたが。」

話題を変えるはずが、つきんと胸が痛む。
…まさか、これもぴのすけのせいだと…思ってたね、そういえば。

そう、前の村長さんのひとり娘が、今は亡き沙代ちゃんなのだ。
ぴのすけのした事は、深い爪痕としてこの村には残っている。

「…ぴのすけの被害が出だしてから、どのくらいが経っているんですか?」
かなり前、とは聞いているが具体的にはどのくらいかはまだ僕は尋ねた事がなかった。

「そうですね…二十年ほどでしょうか。」
「二十年間も…」

恐らく、人間である僕に価値観を合わせて「かなり前」と表現したのだろう。
しかし二十年という月日。
何らかの対策がされなかったのが不思議でならない。
それでも彼女がのうのうと生きていられたのは、何のおかげなのだろうか。

ただの偶然?村人の力不足?
彼女の姿さえ、知られていない。
よくよく考えると、出来過ぎている。

どうにも、腑に落ちない点がちらほらある。
「紫詠さん。やっぱり解決しに行きましょう。
 溜め池の様子を見に行ったら川の上流へ、一緒に。」

紫詠さんは苦笑いを浮かべた。
僕の妙な焦りを感じ取ったのだろうか。
紫詠さんは、僕を優しくなだめた。

歩く事どれくらいの時間が経ったのだろうか、
すぐそばに林の入り口が見える場所、そこに溜池はあった。

まだ溜池は、深く澄みきった水をなみなみと湛えていた。
僕と紫詠さんは、顔を見合わせて、強張った肩を下ろした。

…?

ふと溜池の反対側に目をやると、一人の少女が水面を覗き込んでいる様子。
ここからだと良く見えないが、少女は長い深緑色の髪を湛えていた。
表情も見えない。だが、そのぼんやりとたたずむ様子は、憂いを湛えていた。

「あんな子、いましたっけ…」
紫詠さんが、誰にともなしにぽつりと言った。

「もしかして紫詠さんも知らないんですか?」
「ええ、あんな女の子は一度も…どこから来たんでしょうか?」
ふざける余裕など二人にはなかった。
ただ、漠然とした疑問が水面にゆらりと映る幼き影に溶け込んでいった。

僕たちは溜池の反対側へ回り込む事にした。


…彼我の距離、数メートル。
少女は紫がかった黒の着物を着ていた。
その頭には、雲形の板を二つ、ずらして重ねたような形の白い髪飾り。

ひたすら、身じろぎひとつせず無心に水面を覗き込む少女は、
恐怖に似た感情を僕たちに植え付けた。

僕は少女に見入り、少女は水面を見入る。
ただの好奇心に近い恐怖のようなそれは僕を突き動かした。

「…ねえ、どうしたの?」
早歩きで近寄って、僕は彼女の後ろ姿にこんな問いを投げた。

迷子?だなんて下らない質問はしない。
この時点で、普通の子供ではないと思ったからだ。

少女はゆっくりと首をこちらに向けた。
深い深い、光のない焦点を失った両の紫水晶の珠が僕の後ろの景色全体を映した。

思わず後ずさってしまう所だった。
こんなに淀んだ瞳を、生まれて初めて目の当たりにした。
少女は、小さなぷくりとした唇をぱくぱくと動かす。

しかし、音らしきものは何も聞こえてこない。
もしかして、動揺してるのではないだろうか。

しばらくの間、沈黙が辺り一帯を包み込む。

「………誰?」
濁ったままの瞳で、少女は沈黙を破った。

「僕はヒカリ。君がここで何をしているのか気になったから声をかけた。」
少しだけ話の糸口が見出せたので、内心ほっとした。

「………別に。」
刺々しくて重々しい声で、少女は僕の後続の言葉を断った。
あまり話したそうな雰囲気ではなさげだ。

「ところで、君の名前は?」
「………。」
少女は口をへの字に固くつぐんで、また遠い目をする。

「………私の前から消えて。」
駄目だ、まるで話になっていない。

「すみません、僕の友達が迷惑をかけて。すぐに帰りますので。」
紫詠さんが、突然割って入ったかと思うと、僕の袖を強めに引く。

「………あなたは?」
「ああ、僕は狐理精 紫詠って言います。」

少女の瞳に、仄明るい光が点る。
「………あなたが。」
「はい。」

「………そっか、ふうん。」
「知っているんですね。」
省略されきった、記号のやりとりのような不慣れな会話。
僕は戸惑いを覚えつつも、その様子を見守っていた。
というよりこの女の子、素直に怖い。

紫詠さんに、改めて尊敬の念を覚えた。
長年生きていると、こういった人とのやり取りもできるようになるのだろう。

「…水はあとどのくらい持ちそうですか?」
「………。」

紫詠さんは、少しの間考え込む。
「川の水が枯れました。」
「………せいぜい、後七日。」

そんなやり取りを終えると、少女は不意にたんと飛び上がり、
一瞬で僕の目の前から景色に溶け込むようにして、消えた。

辺りには、静かな水面が映っていた。

「さ、行きましょうか。」

口が阿の字に固まっていた。
まるで、何年もの前からの知り合いかのように、あの子と話していた。
知り合いだったのか。尋ねても無駄である。

紫詠さんは僕が思っているより、ずっと器が大きいんだ。
そう思わざるを得なかった。

「…どこに行くんですか?」
やっとのことで出た言葉は、そんな頓狂なものだった。

紫詠さんは、くしゃっと表情を崩した。

「ぴのすけさんを呼んで、その後川の上流に向かって三人で出発しましょう。」
人差し指をぴんと立てて、さっきよりも自信に満ちた顔で。

「お店は昨狐さん一人でいいんですか?」
「あ、じゃあぴのすけさんとヒカリくんの二人でお願いします。」

…おいおい、そこを忘れちゃ駄目だろう。
というか、戦力が激減したんだが。
不安しか残らない構成である。

ボンクラと戦闘狂で一体何ができるっていうんだ…。
まあ、色々な事は紫詠さんの家で考えればいい。
人数は多ければいいというものでもないし…

それにしても、さっきの少女は一体誰なんだろうか…。
紫詠さんも知らない、挙動からして妖怪かどうかも怪しい。

紫詠さん宅への移動中、僕はずっと腕を組んでいた。


つづけ