東方幻想明日紀 四十八話 狛犬とトラウマスイッチ

昇格試験という名目で僕はマントを奪われた。
早くこの狛犬を倒して、僕の分身にも似たマントを取り返す。
昇格の事も頭の中に無いではないが、鳴りをひそめていた。

目標まで数メートル、息が荒くなるのを感じた。
暗闇のなかで、巨大な狛犬のしなやかで頑強な背中が浮かび上がる。
その屈強な肩の周りに、鬼火が二つ。
本当に、僕よりも二つも格下なのだろうか。

今は僕が小さくなっているから、その存在感は尚更大きい。
元の姿の膝の高さほどの青い綿毛に覆われた小獣になっている。
ソナレノの力なのか、それとも僕本来の力なのか。

そして、何よりも気持ちの悪い事に、毛深い手を擦り合わせると、
水飴のような深い青色の透明な粘る液がでてくる。

空気に触れると固まって、力を抜くと簡単に手から外れる。
ソナレノはこれでどうにしろと言ったが、正気を疑う。

それにしても、無策で飛びだしてきてしまった。


僕の体は、狛犬よりもはるかに小さい。
このままだと、撹乱以外の何もできそうにない。

大きな背中を見ていると、ふと気付いた事があった。
こいつ、狛犬の癖に随分と尾が長い。まるで獅子のようだ。

…と、すると。

幸い知性の方にはほとんど影響はなかったようだ。
周囲を見回すと、背の高いアカマツを見つけた。

そっと、気付かれないようにマツの根元に回り込む。
あ、小さいけどマツタケ発見。後で持ち帰ろう。

袖を引かれる思いを感じながらも、赤みがかかった樹皮を垂直にするする登る。
こんなにも身軽だと、この身体を好きになってしまいそうで困る。

枝先まで行くと、真下に鬼のような形相をした狛犬を見出す。
そう、狙うはあの長い尻尾である。

狙いを付けて、ゆっくりと前足を擦り合わせる。
すると、青い玉がゆっくりと大きくなり、ゆっくりと垂直に降りる。
擦る手を速くすると、そのガラスのような紐は太くなる。

紐の先が、長い優麗な尾に降り立った。
それはまるで、人類の輝かしい第一歩。
知らない者はいないあの計画。
…を彷彿とはさせないが、狛犬が動かない事にまずは安堵する。

だんだんと、狛犬の尾が深い空のような液体で覆われる。
それはゆっくりと大きくなる。ガラス細工のように。
やがて尻尾の先に大きなビー玉をくくりつけたような様子になった。

固まれ…!
そう心に念じると、手から滴り落ちる流動は動きを止めた。

その瞬間だった。
狛犬が、首を真後ろに回転させた。
そして尻尾の先を凝視する。

だんだんその視線は上へと上がっていく。
…目が、あった。獰猛な漆黒がこちらをしんと刺す。

大丈夫、重さできっと動けないはず。

そう思った矢先。
めきっという身の毛のよだつ音。
大きく枝が揺れたかと思うと、おもむろに全てが横に落ちていく。

地面に叩きつけられると、帽子が顔に覆いかぶさって真っ暗になった。
まずい。

帽子を取ろうと暗闇に手をかけた瞬間だった。
体に打撃を受けると深い真っ暗に一瞬放り出され、また視界が明るくなる。

どうやら近くの石塀に叩きつけられていたようだった。
巨大な影のはるか向こうに、根元から倒れた松の木が見えた。
くそっ、僕のマツタケが…

こいつ、まさか肥大化した尻尾を逆手にとって…

もう策はなかった。
それ以前に、体が動かない。
こんな攻撃一回で……

心臓の鼓動が一瞬だけ跳ねあがる。
次に瞬きをするとすぐそばに、色白の震える五本の指

僕の手だった。
どうやら、人間の姿に戻ったようだ。

目の前の狛犬は、ゆっくりと歩き始める。
その場で、回り始めた。
まるでハンマー投げのように、尻尾を回転運動で振り回し始める。

この知性のかけらもないような獣に、全て上をいかれてしまった。

万事休すか。

呆然と、回転速度を上げた巨大な車輪を見つめていた。
その竜巻は回転しながらだんだんと近寄ってくる。

地鳴りのような音がしたかと思うと、石の四角い塊が空を飛んだ。
当たったすべてをすり潰し吹き飛ばしていく。石塀でも例外ではない。

その瞬間だった。
耳を貼り裂くような風の音と一緒に、身体ごと吹き飛ばされた。
横に転がると、小さく乾いた咳が出た。

生き……てる。

重たい体を起こすと、まだ夢を見ていたようだった。
砂煙の中、目の前に巨大な地面をえぐった轍が出来上がっていた。

轍の先を見ると、はるか向こうに壊れた民家が見える。
その手前に、巨大なガラス玉。

不意に、視界の端っこに半透明の白い尾が横切っていった。

「……やっと、姿を現したか獣妖怪め」

砂の靄に悠々たる様子で屹立する白い髪の少女の姿。
片手に長い刀、もう片手に脇差。それは、記憶に新しい姿だった。

忘れもしない。以前僕が絞め殺そうとした少女だった。
彼女が回転する狛犬の尾を斬ったのだ。

少女は僕に一瞥をくれると、怪訝そうな顔をした。
彼女の目をまっすぐ見る事が出来なかった。
「話をするのは後にしたほうがよさそうね。腰が折れているし」

背筋の冷えるようなセリフを僕にねじ込んで、
少女は倒れて痙攣している狛犬に向かった。

少女は離れた場所から消えて、狛犬を通り抜けて現れた。
狛犬は四肢を大地に投げ出して、そのままぴくりとも動かない。

一瞬の出来事だった。

少女は小さく刀身を振って血を払い、鞘に納める。

振り返り、またこちらに歩きだす。
傍に来ると、へたり込む僕に、冷たく見下ろす眼光で突く。
黒いリボンが、穏やかな風に揺れていた。

「あまり、お前を生かしておきたくはない」
静かで、強い言葉。僕は嗚咽すら発する事ができなかった。

「私に何の恨みがあって私を執拗に殺そうとしたんだ。
 答えたくないのなら、それはそれで――」

彼女の落ち着いた声が、だんだんと遠くに聞こえていった。
涙の筋が、とめどなく僕の頬を伝っていた。

女の子が地面に沈んだ。
真夜中の田圃道だった。
月にたなびく銀色の短い毛束。
月が、綺麗だった。
本当に、綺麗だった。

「お前が…僕のだいすきなひとを殺したんだ」
立ち上がると、腰の方に違和感を覚えた。

少女は数歩、後ずさる。
顔は威嚇の表情をしていたが、瞳は怯えきっていた。


あの時袴を穿いていた身の丈ほどの長い刀を携えた姿。
そう。

「――すまぬ 親族の仇だ…と」
「何の事だ!よ、寄るな…斬るぞ」

少女が刀を持つ腕を上げた。
一気に詰め寄ろうと足を踏み込む、その瞬間だった。

腰のあたりで何かに力を全部抜かれたかのように、崩れ落ちた。
ひゅっと視線が落ちて、硬い地面にへたりこんだ。

さっきまでは湧いていた奇妙な力が無くなった。
ひたすらに、恐怖の水が僕の喉に流し込まれて、身動きが取れない。

「急に人が変わったように…
 そんな目をする人なんて斬るに斬れないでしょう…」

少女はひどく疲れた顔で嘆息すると、振り上げた刀を重そうに下ろした。

「私が何をしたのか教えてほしい。謝るべきなら、謝るから」
しゃがみこんで僕に視線を合わせて。
怯える子をあやすかのような声を震わせながら少女は問うた。

「どのくらい、前かはわからない。
 ……親族の仇と言って、お前は僕の…大好きなひとを…」

自分が正気なら、笑ってしまいそうなくらいか弱い声だった。
まだ、獣の時のギューギューした鳴き声の方がましだ。

少女は思案顔で口を閉ざした。
いくら思いを巡らしても、彼女の中では何もなかったようだった。
「お願いだ、思い出してよ……僕がお前を殺せないじゃないか…」
犬の子が母犬にすがるような、情けない声だった。

やり場のない煮え切った感情がすっかり行き場を失っていた。
少女は困ったような顔をして僕から目をそらした。

「幾度も刀を汚したけれど、仇討ちをしたことはないわ」

少女はまっすぐに、こちらを見据えた。
その目に嘘はないなんて、誰にでもわかりそうだった。

もう拒むだけの力を僕は持っていなかった。

「もしかして、お師匠さま?…いや、まさか」
少女は小さく念を断ち切るように首を振ると、もう一度僕を見た。

「もしも、本当にお前じゃないとしたら…」

少女は一瞬だけ身体を震わせ、刀の鞘に手のひらを当てた。
「僕は、お前にどうやって償えばいい…?」

少女の動きが、止まった。
怯えた剣士の目ではなく、憐憫に満ち満ちた少女の目をしていた。

静かに思えば、僕は誰かに喋らされていた。
殺された「大好きなひと」の名前も知らない。
顔も知らない。

何も知らない。

それなのに、強い力が僕を復讐へと引きずり込むんだ。

ぼうぜんとした。
それは、少女も同じだった。

お互いに、やるせなかった。


「――魂魄 妖夢。お前の名前は?」
「……ヒカリ」

良い名前ね、そう言った彼女の口角は上がっていた。

「私とお前は、たった今、出会った。いいな?」
それだけ告げて、屈託ない笑顔を浮かべた。


僕たちは白紙に戻ったんだ。



妖夢さんがいなくなってから、倒れた木に向かった。
小さなマツタケは、無事だった。

拾い上げると、そっと帽子の中に隠した。
おじさんの大好物なんだ。マツタケは。

どうして、涙が止まらないんだろう。
どうしてこんなにも満たされないんだろう。

僕にぽっかりと空いた風穴は、全く塞がらなかった。


「おっつかれさまで〜す」

蝿の少年が、急に視界に割り込む。
巻いたマントのロールを、指で回しながら。

「…返せよ」
少年はにっと笑って、マントを僕の首に巻いた。
少年の手が離れると、それをほどいて、腰に巻き直す。

目標は達成したけれど僕の力じゃない。
きっと、昇格はないだろう。

「目標を間違えた上に、雑魚にやられてるじゃないです〜?」
髪の先を触られた。手を払いたかった。

…その前に、あの狛犬は裏切った同朋じゃなかったらしい。
恐ろしい話だ…

「やっぱり君に四つ鬼火は荷が重かったね〜。
 今日から、三つ鬼火で生きてもらうよ」

少年は僕の額に手を当てて、何かをつかみ取る動作をした。

でも、マントが戻った今、どうでもよかった。
腰のあたりを触ると、冷えた柔らかい手触りが僕を癒した

堪らず、マントを外して、鼻に当てて大きく息を吸い込む。
最初につんと血のようなにおいが鼻を突くと、懐かしい匂い。

何の匂いかは何も分からない。
気持ちは落ち着いて、何かが僕の中で満たされていく。

泣いていた。
辛い気持ちは何もなかった。
条件反射で、涙が出るみたいなのだ。


「…見てましたが、己の力量も考えずに突っ込むと痛い目見ますよ。
 そういう時は、信頼のおける部下を使うんですよ。
 強いだけが上官じゃあないんです。次は上がってきなさいね?」

半分は、ぐずぐずの頭でも理解できた。

「まーいいです。自己紹介がまだでしたね。
 私はあなたの直属の上司になります、五つ鬼火のぺディアス。
 あ、名乗らなくていいですよ。全部知ってますから」

その後、彼と数言交わしたが、何も覚えていない。


後日、砂銀に会いに行ったら大爆笑されたので思い切り殴ってやった。


つづけ