東方幻想明日紀 四十一話 地霊殿の主と

「結構遠いんだね」
二件目の休憩。
今度は屋台ではなく、ちゃんとした呑み屋である。
さすが地下と言ったところか、薄暗く穏やかな陽気だ。

そして何よりも、呑み屋が多い。
物の値段や質が場所によってピンキリ。
若干の違いではあるけれども、それすら新鮮に感じていた。
そして、この少女はよく酒を呑む。ザルである。
酔っている様子もなければ酒の匂いもそんなにしない。

そんな様子を横目で見ながら、ある事を思い出していた。
そう、おじさんにお医者を呼ばせておいて、僕は逃げた。

…単純に、僕は人としてどうなのか。

「今から帰るとしたら、どのくらいかかる」
「自力で?送るつもりはないけど…日付が変わるよ」

頭を抱えた。せめて書き置きくらいしておけばよかった。
いや、あのおじさんの事だから咎めたりはしないだろうが。
「僕が代わりに伝えてこようかー?」

お燐さんと、僕の間。
例の、あいつがいた。

一つ飛ばしに座っていた間に堂々と割り込んで、
青い瞳を細めてにこにこしている。

「…まあ、そういうことなら仕方ないね。諦めて――」
「無視しないでよ!ねえ!!」
なんだこいつは。うるさいやつだ。

「お姉さん、誰?」
待ってましたとばかりに厚みのある胸を叩いて、咳払い。

「僕はこの子、ヒカリの保護者だよ」
「いい加減にしろソナチネトロニカ。そんな放任主義があるか」
「ソナレノ…もういい。何でそんなに頑なにそなと呼ばないの」
「お前は違うからだ」
…本当は違うとも、そうだとも断定できないからだ。
ほら見ろ。お燐さんが困っているじゃないか。
そもそもお前はちょっと前まで「私」と言っていなかったか。

「とりあえず、それ呑んだら行こうか」
「うん…」
何だか、お燐さんに申し訳ない事をした気がする。
恨むなら、こいつを恨んでほしい。

ふと横の少年の方を見た。
もう額の血は止まって安らかな寝息を立てていた。
これならいそぎで治療しなくてはならない、なんて事は無いだろう。

いよいよもって彼女が僕を地下に誘った動機がわからない。
何かあるような気がして、ならないのだ。
「いやー、僕地下は初めてだよ」
能天気に緑の髪を揺らして周囲を見回す姿は、無性に腹が立つ。

「…このまま、なすがままにして。今のところは順調だよ」
そして、そう誰にも聞こえないように耳打ちをしてきた。
あまりにも、足りない。
口出しは必要なし、このままでいるしかないが、どうにも癪である。

「じゃあ行こうか!四人で地霊殿!」
赤毛の少女はこっちに視線を合わせた。
僕にあまり助けを求めないでほしい。何もしてやれそうにない。


あれから止まるまいと、ほとんど意地で歩き通した。
誰も休もうなんて言わなかった。
やがて、立派な門の前に辿りつくと。

「あれ?さっきのお姉さんは?」
「そういう奴なんだ、気にしないで」

いつもいつもいつも気まぐれで現れて、こうして消えるんだ。
実体はあるようだけれど、まるで掴み所がない。
ただ、だんだんと慣れてきたのか、あまり嫌いになれなかった。

その瞬間だった。
首を横に傾けると、さっきまで頭があった場所に小さな握り拳。
飛びのいて振り返ると、目を血走らせるさっきの狼少年がいた。

「随分と元気になったね」
少年は何も言わずに、腰をかがめた。
僕も来る攻撃をいなすべく、息を殺して腕を前に出した。

突然、少年の首が引っ込んだ。
何かに怯えるように、僕の後ろに焦点を合わせて。
油断させる作戦なのかもしれないが、彼が賢しいように見えない。
恐る恐る振り向くと、物憂げな雰囲気を全体で醸し出す小さな姿。

門の奥に見える少女の面影のそれは、徐々に近寄ってくる。
よく見ると、導線のようなものが彼女の周りを数周している。
視線を戻すと、狼少年はお燐さんの後ろに隠れた。

少女は僕の前で立ち止まって、視線を下ろして目を合わせた。
強い深紅の光の宿った半眼を正視するのはなかなかに厳しい物がある。

「…何の目的もなくここに来たのね」
いきなり、落ち着いた声が僕を背中まで通すかのように刺した。
ぐうの音も出なかった。反論する余地が何もないのだ。
心が読める…か。なるほど、面白い。
その瞬間少しだけ少女の表情がほぐれた。やはり読めているらしい。
「『心が読める、面白い』ねえ…筒抜けですよ?」
筒抜けだろうが、それについては構わない。

やましい事は考えないし、彼女に敵意もない。
もっと気持ちの悪い事をしている奴が知り合いにいる。
目的も何者かも伝えずに、僕にしつこく付き纏う奴が。

「もう、動揺しないのね」
もちろんだ。もっと不思議な奴を、何度も目にしている。
喋るのも面倒だ、思うだけで意思疎通ができるのなら手っ取り早い。
――目的があるとしたら、僕と砂銀とやらの怪我を治してほしい。
「なるほど、そういうことね。ついてきなさい」

話が早くて助かる。



「ほえー、さとり様とすぐ打ち解けたねえ」
赤毛の少女は感嘆の声を漏らした。
まあ、彼女と僕はどこかしら似てるところがあるのだろう。
そうじゃなきゃ…
「『どこか私と似ている』ですか?
 悪いけどそう思えないわね。私はそんなに能天気じゃありません」
振り向かずに放った厳しいお言葉が刺さる。

「お前、きっと後悔するぞ」
「どういうことかな」
砂銀が額を押さえながら震えたような声で言う。
恐らく、怪我が疼いてきたのだろう。

それにしても、なんて眼をしているんだ。
僕、そんなに彼を怒らせただろうか。

いや、よく見ると憎悪というより精一杯の威嚇だな。
犬みたいなものだ。何も気にする事じゃない。

前から、紫髪の少女、僕、赤毛の少女の傍に狼少年。

赤と黒のチェック床を踏みしめると、硬質な音がした。
上を見ると、綺麗な硝子質の彫刻や模様の窓。
おまけに、廊下は厚いのではなく温かい。

何よりも、目に付くのは雑多な動物だった。
猿や犬や鳥や、挙句の果てには小さな龍のような生き物。
それらがぎゃあぎゃあごった返して、そばを通り抜けたりしている。

「そうね、とりあえず砂銀を治療してあげて」
紫の髪の少女は、赤毛の少女に向き直った。
「あーい!」
威勢のいい返事をして、お燐さんは背負い投げをする勢いで
狼少年を肩に担いでそのまま運び去った。

一瞬の静寂、次に廊下を覆ったのは鳥獣の鳴き声。
だけど、もうあまり気になる事は無かった。

それよりも気がかりなのは、おじさんのことである。
医者を呼ばせておいて、こっちにのこのこやってきてしまった。
心配するような人ではないはずだが、一言詫びを入れたい。

ソナレノだかが、あのやり取りで伝えに行っているとは到底思えない。
どうにかして、地上に戻れる方法を…
「すぐ行かなければまずいかしら?」
いや、そんな事はない。
ただ一言詫びを入れて、元気だということを伝えられればそれで。

「それなら、砂銀を案内に付けるわ。あなたの事慕ってますし」
結構である。

なるほど、あんな慕い方があるとは新鮮な話だ。
道中難儀する未来が見えて仕方がない。

それにしても、このさとりとかいう奴、
思考の先回りじゃなくて察する方向に力を使いだしたな。
案外、優しい気質なのかもしれない。
「まあ、馬鹿か賢人のどちらかの貴方を敵に回したくはないわね。
 それよりも喋ってくれないかしら。私の力を利用しないで」

僕がその馬鹿じゃない事を祈ろう。

「とりあえず、僕はこれで帰ろうかと思う」
「そうね、まあ何かあったら遊びに来るくらいは構わないわ」

あまり懇ろな人柄に思えない彼女に、そう言われるとは…
あっやめよう、物凄く機嫌の悪そうな顔になったぞ。

逃げるようにして、足音を響かせて廊下を駆け抜けた。


想像以上に同じ景色の続く廊下は長かった。
やっとの思いで出口を遠くに見出すと、
僕じゃない足音がずれて後ろから聞こえてきた。

その足音はだんだん近くなり、僕の前に躍り出た。

「待て!お前だけじゃ不安だ、俺についてこい!」
少年が大股で足を広げ、僕めがけて突き出すように指さしていた。

無言で間をすり抜けようとすると、横歩きで回り込んでくる。

「何で無視するんだよ!お前一人で帰れるのか!?」
思わず、大きなため息が出てしまった。

変なのに懐かれてしまったみたいだ…


つづけ