対称的な、君と

重たい灰一色の空模様の下。
草の香りが混ざる木の戸の前で、何度も知り合いの名を呼んだ。
「いないのか…?」
「そのようですね、見てきましょうか隊長」
尻尾にぶら下げている籠から、高い声。私の相棒の小鼠だ。
「いや、いい」
粗末な戸に手をかけると、何の抵抗もなく乾いた音と一緒に開いた。
そして外見に違わぬ様子で、多少の広さを持った部屋に
大きさも雑多な道具ともがらくたともつかぬ品が散在している。

小さな透き通る黒い勾玉を手にとって、朧な灯りに透かす。
こんなものを、そこいらで拾ってきた物と一緒にするのか。
私ならば、もう少し手を施すだろう。

やはり、そういったよく言えば奔放な部分は相変わらずであった。

もらってしまおうか、と邪が一瞬頭を過ぎったが、やめておく。
それ以上の物を、すぐに私は見つけてしまえるからだ。
少なくとも、蟻と蟋蟀の違いもわからぬような奴よりは。

傲慢に浸っていると、かねてからの本題に頭をどつかれる。
そう、彼に依頼された探し物が見つかったのだ。
それを届けに来たはずだったが、御覧の通り外出中である。

頼まれた物は薄い黒い、親指の爪を大きくしたような小さな板。
片面には金色のさらに小さな正方形が敷き詰められ、
もう片面には見た事のない文字と思しき記号が白く書かれている。
乙…?その次は弓型の…いや、やはり読めない。

いかにも外の物、という感じのする代物である。
こんなものを欲しがるのだから、よくわからない。

それなりの大きさがあるのならば適当な場所に置けばいい。
だけど、それはできない。
手渡ししたいのだから、来てもらえばいいだろう。
その場で待とうにも、
どこまで遠くに出掛けているか分かったものではない。

そのためには、何か担保を取っておいた方が良いだろう。
無くなったら困りそうなもの…そこに、私の印を残せばいい。
そうすれば、嫌でもこちらを尋ねてくるだろう。

周囲を物色すると、すぐにそれは見つかった。

私ほどの背丈、大きな丸くて薄い物体に布がかかっていた。
それが何かはわからないが、無くなったら間違いなく気付く。
傍に寄って見ると、「非売品」と強い筆圧で書かれていた。

さて、私とわかる証拠だが、これがなかなか難しい。
鼠の噛み跡を至る所に?それだと関係に大いに亀裂が入る。
その前に報復をかけられる可能性もある。

しばらく考えてみたが、あまりいい手段が思いつかない。
非常に不本意だが…書き置きをすることを決めた。

私の字は薄くて、丸い。弱々しくて好きになれないのだ。
できるだけ強く濃く書こうとすると、字が震えて不格好になる。

とりあえず彼の机であろう場所から鉛筆を持ってきた。
先ほどの場所に戻り、非売品の紙を裏返す。
気持ちを落ちつけて、ゆっくりと筆を走らせる。

「拝啓」と書きだしたあたりで、思わず耳に手をやった。
何をしているんだ私は…書き置きであって、手紙を書く訳じゃない。
四重線、五重線をその拝啓の上に隙間なく敷き詰めて、深呼吸。

荷物を預かった、取りに来い。
紙の上に、淡白にそれだけ書いた。
高鳴る胸を押さえて、また一息をついた。
さてと、今度はこの大きな薄い物を運ばなくては…

私ほどの背丈の布のかかった物を、下から持ち上げる。
何やら、固い台座のような感触が手になじんだ。
「大丈夫ですか、増援を呼んできましょうか?」
「私の腕力をなめるなよ」
重さはこの際どうでもいい。
大きすぎて、玄関戸を抜けるのがぎりぎりだった。

「ところで、軽い外出だったらまずいですねえ…」
相棒に言われて、気付いた。
今ここで彼が戻ってきたら…私はどう見られるだろうか。
言うまでもない、空き巣だ。

「帰ってこないといいな、永遠に」
私が冗談めかすと、前をチョロチョロと回る相棒は足を止めて笑った。

幸いにも、私の普段住む掘っ立て小屋まで
誰にも見つかる事なく辿りつく事が出来た。

あまり強く置くと床が抜けてしまうので、それをゆっくり下ろす。
見た目や重さに合う音がして少々の不安を覚えた。
それにしても、これは何なのだろう。
ぼんやりと布に覆われたそれを見つめていると、
相棒がその上に忙しなくよじ登るのが見えた。

そして、小さな相棒は布を掴んで一気に飛び降りた。
…が、布が重すぎたのか、持っていて体勢が崩れたのか。
力の抜けるような音と一緒に、小さな灰色の体は床に叩きつけられた。
「大丈夫か!?」
「はい、なんとか…」
足を細かくひくつかせているあたり、大分強く打ったと見える。
全く、仕方のない奴だ…

顔を上げると、向こう側にさっきまでいなかった少女がいた。
青みがかかった灰色の癖のある髪。
血色の悪い、白みが強い顔。
そして、彩度の低い暗藍色の耳、尻尾。

一瞬誰かと思ったが、他でもない、私だ。
その証拠に、私が背にしている入り口と、
もう元気に私の横を通り抜けている相棒が見える。
「鏡か…」
本で読んだ知識と、部屋の青い大きな薄い板を照らし合わせる。
相棒は、ぺたぺたと目の前の小鼠を触って、ぎょっとする。
ぺちぺちと尻尾を叩き合わせる。
「隊長がいますよ!ねえ!」
なるほど、鏡を知らないのか。無邪気なものだ。

かくいう私も川面に映る自分を何度か見ているが、鏡は初めてだ。
揺れる水面には、こんなにはっきりとは映らない。

小さく手をぱっと広げる。
全くの時間差なく、同時にその少女も手を広げる。
ぐっと握っても、指を二本突き出しても。
延々と、あいこが続くのだ。
頭ではわかっていたが、なかなかに新鮮だった。

やがて相棒はその少女に覆いかぶさるようにして面を叩き始めた。
少々本気で向こうに行こうとしているのがわかった。
昂ぶった気持ちを落ちつけて、一旦相棒を鏡から引き離した。

ずっと勿体ぶっているのも意地悪なので、説明だけはしておこう。

「じゃあ、どうやって向こうにいくんですか!」
「向こうにはいけないよ、あそこに映るのは作られた幻なんだから」
子供を諭しているようで、少しだけ気持ちが温かくなった。

顔を上げて、その鏡にもう一瞥をくれてやる。
縁が綺麗な金色の装飾、天辺には禍々しい何かの獣の頭骨。
そして、傷一つない青い鏡面。

非売品なのも頷ける。
こんなものが無くなったら、血相を変えてすっ飛んでくるだろう。
既に目的を忘れかけていたが、
生活の邪魔になるので鏡は背面にして端に寄せた。

その日はそれを取りに来る気配は無かった。
かなり遅くまで待っていて、謝辞の言葉も考えたのに。

翌日も、それは変わらない。
幸い雨が降っていたからよかったものの、
鏡のせいで迂闊に外に出られないから退屈である。
「どこまで出かけているんでしょうかね…」
「知った事か。ただ…何だか、鏡に拘束されている気分だ」

このまま明日も明後日も取りに来なかったら、どうしよう。
私は本当の意味で汚い盗人になってしまう。
私だって、毘沙門天の弟子だ。最低限の道徳くらいある。
何よりも、このまま盗人として私の名前が吹聴されたら…
そう思うと堪らなくなった。毘沙門天様の名に傷がついてしまう。

それだけは、避けなければならない。

「明日、返しにいこう」
相棒は小さく頷いてそれに答えた。

深夜、雷鳴で目を覚ました。

かねてから、雷鳴はあまり好きではない。
それが深夜ならなおさらである。
ゆっくりと体を起こすと、なるほど相棒も同じか。

「…どうした、不安かい?」
「隊長こそ」
「ちょっと気晴らしでもしようじゃないか」

そうだ、もう一度あの鏡を見よう。
これで朝になったら返しに行くのだから、見納めだ。
そう思って、鏡を半回転させた。

青い青い、硝子質の滑らかな面。
とても、綺麗だった。
手をくっつけると、ひんやりと冷たい。
少しだけ、気持ちを落ち着ける事が出来た。

こうして誰かと手を合わせているのは言いようのない安堵を覚える。
この雷雨さえ忘れてしまうかのように。
誰かが傍にいる、そう暗示するだけで心地よかった。

すっと息を抜いて手を離そうとした瞬間だった。
急に、冷たいものが私の指の隙間に割り込んできた。
見ると、差し出した私の手が、向こうの私の手に握りこまれて。

そして、その手は私の手を強く引っ張った。
声が出ないまま、その手の力のなすがまま。

金色の枠の中に入りこんだ瞬間に意識が混濁して、飛んだ。



薄目を開けると、入り込んでくる光に思わず手でひさしを作った。
まだ意識がしらじらとした。

視界にふっと影がかかり、ようやくはっきり目を開ける事ができた。
そして、また時間が固定されたような感覚に陥った。

「…俺?」
私が目の前で喋っていたが、私の声より一回り低い声。
丸みを帯びた影を残した少年の顔立ち。
まだ、私は夢の中で鏡を見ていたようだった。

私も動かなくて、目の前の私も動かない。
何ら不思議はなかったが、頭はてこでも動かない。

紅の瞳。灰色の耳。癖のかかった髪。
私のそれよりも、幾分か短かった。
襟のある薄い、白い清潔感のある長袖の服。
そして濃紺色の、硬い素材の二つに分かれた小物入れのある細い袴。

目の前の私のような少年は不思議な恰好をしていた。
「君は…?」
やっとの思いでひねりだした言葉は、えらく素っ頓狂な響きだった。
「俺はナズーリンだ」
私もナズーリンだ、なんて言えたらどれほどよかっただろう。
あ、あ、と声にならないような声だけが口から逃げていく。
「お前は?」
ナズーリン…」
目の前の少年は小さな声を上げたきり、絶句してしまった。
私だって、そうだ。

お互いをまじまじと、つま先からつむじまで視線を交わし合わせる。
状況は、鏡を見ている時と何ら変わりは無いはずなのに。
たとえようの無いもどかしさが、しきりに背中を撫でるのだ。

目の前の少年は私とは違って、目を輝かせていた。
パラレルワールドだよ」
「ぱられる…?」
聞き覚えのない言葉だった。
だけど、少年の口ぶりを鑑みるに
今起こっているこの現象を説明できる言葉であるらしい。

尚も困惑する私に、少年は私の手を握った。
吸いつくように、気持ち悪いほどその手は私に馴染んだ。
自分の左手は、空を触っているのに。

周りを見回すと、驚きの連続だった。
壁が白く塗られている。床は、光沢のある木でできていた。
見たことのない物が、戸棚に整然と並んでいる。
そのすべてに、清潔感があった。

途中に、いくつもの気になる扉もあった。
もちろん、その好奇心は今は必要のないものだった。
何よりも、白昼の外かと思うほどに明るい。
「俺の部屋にいこう」
そのまま手を引かれ、階段を一段一段を踏む。
軋まない。小気味いい音がする。

階段を上りきり、少年は戸に手をかけた。
一緒に中に入ると、部屋は暗かった。

「ちょっと待ってて」
そう言うや否や、少年は小さな四角い箱を取り出して上に向けた。
「んっ…」
聴いた事のない高い音と一緒に、強い光が私を襲った。
「ごめんな、今少し暗くするから」
低い声と一緒に、同じ高い音が何度も繰り返される。
それに呼応するように、部屋は少しずつ暗くなった。
「うん、大丈夫」
私の声に少年は安心したのか、
目の前の膝ほどの高さのある木の枠に囲まれた布団を指さした。
戸惑っていると、座ってとの事だった。

「…君は、魔法使いなのかい」
「ま、魔法使いって、あの魔法使い?」
座ってからの最初の会話。
お互いの常識が違う事を、改めて感じた。
「灯りに手を触れずに点けたじゃないか」
「ああ、それは電気の力だよ」
「でんき…?」
どこかで河童が、そんな事を言っていたような気がしなくもない。
だが、こんな調子である。
お互いに有している知識が違っていて、話にならない。

「ではこうしよう、お前はどこから来たんだ?」
丁度しようと思っていた提案だった。流石私である。
幻想郷という場所から来た事。
生活水準。普段住んでいる場所。寺に時々顔を出す事。
等々、訊かれるであろうことは、あらかた答えた。
どうやらこの世界にも真言宗はあるらしい。

こちらの話をすると、少年は奇異と羨望の眼差しを向けた。
訊くに、私たち妖怪や魔法使いという種族は彼の知識と
形はほとんど変わっていないのだけれども、寓話の存在である事。
恐らく、何らかの形で滅んでしまったのだろうか…

「今度は、君の話を聞かせてくれないか?」
「百聞は一見にしかず、ちょっと一緒に買い物に行こう」
高布団から立ち上がって、少年は戸棚を開けて上着を取りだした。
「ほら、外は寒いよ」
言い終える前に、温かそうな上着を渡してくれた。
首の辺りに動物の毛のようなものがあって、それを触った。

「それはファーって言うんだよ」
ふぁーっていう上着なのか…なるほど柔らかくて気持ちいい。
少年は嬉しそうに、細い眉を上げた。
「これ、どうやって着るんだい?」
硬い凹凸が、何やら服の端に付いている。
少年は寄ってくると、私の羽織った上着の端の凹凸を中心に寄せた。
そして、私の腰のあたりにすっと手を伸ばした。
体が反射で動いたが、私自身だから大丈夫と自分に言い聞かせた。
少しこそばゆかった。

小さな金属音、ジッという音と一緒に少年は手を上げた。
するとどうだろう。服が真ん中で留まって離れない。
「どうやってやったんだい…?」
「さあ、一緒に行こう」

呼びとめようとしたが、その気は失せた。
小さく嘆息して、私は彼に着いて行った。

「大丈夫?階段降りれる?」
「あまり馬鹿にしないでもらえるかなあ」
さっき手を繋いだのは、そういうことだったらしい。
まあ、それはそうだろう。
むやみやたらに手は繋ぐようなものではない。

外は彼が言った通り、寒さが身に染みて強く堪えた。
ただ、それ以上に見慣れないものが多すぎた。

まず道が硬くて、どこも一様の色をしているのに驚いた。
緑、黄色、赤と目が痛くなるような高い位置の置物。
空に架かった細い糸。
至る所にそびえたつ背丈の何倍もの柱。

指をさして、尋ねるたびに彼は丁寧に教えてくれた。
あまりはしゃぐのは得意ではないが、私だから安心である。
童心に返ったつもりで、彼になぜ、なにをぶつけた。
私の顔をした少年は、むしろ微笑んでいた。

やがて大きな通りに出た。
何か、大きな塊が向こうから音を立てて近づき、通り過ぎる。
それも、一つや二つではない。
通り過ぎるどれもが尋常な速さではない。
「気を付けて、巻き込まれたら死ぬから」
言われなくても、なんとなくわかる。

一体、あの大きな物は何なのだろうか。
生き物かどうかも疑わしい。
あんなものが忙しなく往復するような場所を横断するらしい。

空高くにある信号機とやらの色が、青になったら渡れるとのこと。
なかなか青にならないと思っていると、緑の時に彼が渡りだした。
この世界では、緑の事を青と呼ぶらしい。
またこれも、文化の違いなのだろう。

彼は、いつもこんな景色を目の当たりにしているのだろうか。
「夕飯の材料を買うんだ」
どこに行くのか尋ねたら、少年は振り向いてそんな事を言った。
「市場みたいなものだろうか」
「そうだね。スーパーって言うんだ」
「いい響きだな」
私がそう言うと少年は再びほぐれた顔を作った。

スーパーとやらに辿りつくと、人の多さに辟易した。
彼と似たような服の人、人、人。
これでも小さい場所というのだから、驚いた。

緑色の籠に、欲しい物を入れて後で代金を精算するらしい。
そこは、幻想郷とほとんど変わらないものだった。
見知ったような野菜を、籠に放り込んでいく。
周りを見ると、手押し車の上に籠を乗せている者もいた。
よく考えたものだと感心した。

一通り買い物を終え、家に辿りついた。
取り立てて何もしていないはずだが、酷く疲労感を覚えた。

だがこのまま何もしないのは気が引けるので、何かしたかった。
「料理は私が作ってもいいだろうか」
「じゃあ、一緒にやろう?」
反論しようと思ったが、よくよく考えるとそれが一番だった。
何しろ機材の使い方もよくわからないのである。
貢献できる最良の方法は一緒に手伝うことだ。

意見が一致したところで、早速取りかかることにした。
「そういえば、君はここに一人で住んでいるのかい」
「ううん。親が旅行に行っているだけ」

私のようで、彼は私じゃない。
喩えるならば何に近いだろうか…
「うっ」
そんな事を考えながら野菜を切っていると、指に熱いものが走った。
その指を持ち上げて、少年は自分の小さな口にそれを持って行った。

あくまでも、自分の血を吸っているだけだ。
何度もそう言い聞かせたが、ダメだった。

彼は優しかった。自分とはとても思えなくて。
どうして、こんなによくしてくれるんだろう。
彼がこちらに来たら、私は同等の事が出来るのだろうか。

…わからない。
わからないけど、ただ今は嬉しくも恥ずかしくもあった。

「ちょっと待ってて」
私の指から口を離して、電気を止めて少年は台所から走り出した。
その指を見ると透明に、じわっと赤が混ざりだしていた。

同じ事、していいんだろうか。
今、血を吸ったのは私だ。
吸ったのはあくまでも私なのだ。

考え出すと指が震えてきた。
こんなの、自然にやればいい。
胸が高鳴るのは、意味がわからない。きっと具合が悪いんだ。

意を決して、大分赤みが増した指を持ち上げた瞬間だった。
「はいよ、そこに座って」
椅子をわざわざ引っ張ってきてくれた。
白い硬い容器から、さらさらの水が出てきて、染みた。
その上から褐色の薄くて小さい布を当てがって、巻いてくれた。
糊でも塗ってあるのかぴったりと指に張り付いて、取れない。
「あ…ありがとう」
お礼を言うと、少年は一瞬だけ驚いたようにこっちを見た。
そして、また視線を元に戻した。
「何にせよ、後は俺がやるから見てて」
情けなくて、何も言えずに首を縦に振った。
少年は切った野菜や肉を金属の鍋に放り込んで、よく煮立たせた。
野菜煮込みでも作っているのだろうかと思っていたら、
茶色い板をひっ欠いて、その断片を鍋に放り込んだ。
菜箸でゆっくりとかきまぜると、焦げ茶色になった。
思わず顔に力が入る。
「これを…食べるのかい」
「ああ、そっかカレーは初めてか」
それだけ呟いて、彼は電気を弱くした。

しばらく混ぜ続けた後、彼は電気を止めた。
これが魔法である。しかも、修業を積まなくても誰でも使える。
何て便利なんだろうか…

出来上がった茶色い物を大皿に移して、その上にご飯を盛った。
二人で背丈の高い机を囲んで、向かい合うようにして座って。
銀色のれんげを手に、私は石像のように固まっていた。

「食べていいよ?」
「あ、うん…」
私が曖昧な返事をすると少年はしばらく考え込んで、小さく頷いた。
頭に疑問符を浮かべていると、少年は茶色い物をれんげですくって、
身を乗り出してこちらに差し出してきた。

ここまでしてくれているんだ。食べなければだめだ。
息を止めて、そのれんげの先をぱくっと咥えた。
そして、一気に呑みこんだ。
口にとどまる残り香が、口に馴染んで溶けた。
案外、おいしいかもしれない…

今度は、自分のれんげでそれをすくって口に持っていく。
もう抵抗感はなかった。
「おいしい…」
「でしょ、でしょ」

私はどうやらお腹がすいていたらしい。
彼よりも早く、なりふり構わずそれを平らげてしまった。
「よかった、気に入ってもらえて」
少し恥ずかしかったけれど、その微笑みはすべて解決してくれた。

夕食後、しばらくしての事だった。
「お風呂沸いたよ、入る?」
嬉しい提案だった、が。
「いや、一番風呂は悪くて入れないよ」
「お前なあ、自分に気を使うなよ」
「でも、君の家だろう?」

向こうも観念したのか、小さくため息をついた。
「じゃあ、一緒に入ろうよ。そんなに狭くないし」
返ってきた答えは予想のはるか上だった。
いくら自分だとはいえ、それは…
考えるのも、難しくなってしまった。
いくらなんでも、時期が早すぎるというか…

いや、何を考えているんだ、時期も何もあるか!

「…すまない、やっぱり先に入ってくれないか」
「わかった、それじゃあ早めに上がるね」
手を振り返して彼の姿が見えなくなると、どっと疲れが出た。

冷静に考えると、とんだ一人相撲だ。
ただ、こうして今静かに思う。

どの行動を顧みても、彼は私である。
それについては、何も疑いはない。
私は、日頃自己嫌悪するきらいがある。
だけど、今こうして自分に異性としての魅力を感じている。

私も、案外捨てた物ではないのだろうか…
もっとも、男性として素敵な者、女性として素敵な者はいるだろう。
私が前者なだけなのかもしれない。
うぬぼれかもしれない。
でも、それでもいい。
自分を卑下しすぎて、自分が汚く燻っている方が駄目な奴だ。
私は今まで、そんな奴だった。

いいところ、あるじゃないか自分…

「お風呂上がったよ」
その一言で、我に返れた。
小さくお礼を言って、湯を借りることにした。

湯船の中は確かに狭くはなかった。
が、二人で入るともういっぱいである。危なかった…

彼が入ったお風呂…か。
いかんいかん、まただ。
首を強く振ると、元の冷静な私に戻る事ができた。

きっと、彼も私のように、自分が嫌いなのだろうか。
それとも、そんな自分と向き合ってうまくやっているのだろうか。
考えても、それだけはわからない。

…私の相棒は今、どうしているだろうか。
こっちには来ていないから、恐らく向こうで独りぼっちだろう。
そう思うと、もういても立ってもいられなかった。

急に熱が冷めたように我に返った。
どうやって、帰ろうか…

もしかしたら、ここでずっと厄介になるのだろうか。
帰る術を見つけられないのなら、必然的にそうなる。
彼はきっと私を無碍にはしないだろう。
私だって、彼がそういう状況になったらそうする。

でも、そうしたら相棒に会えない。
ご主人様にも会えない。
寺の皆にも、もう会えなくなってしまうのだ。

さっきから、青い吐息ばかりだ。

帰る手段があるとしたら、逆をする事だろうか。
あの鏡がある場所…

恐らく洗面所だ。
私が出てきたのは、そこなのだから。

急いで風呂から上がって、体を拭いて温かい服に袖を通す。
隣の部屋の洗面所に、大きな鏡が…あった。

鏡に触れると、冷たい感触が返ってくる。
目の前には、さっきも見たような少女が不安げに顔を曇らせていた。
その鏡を叩いてみても、べたべたと音がするだけだった。

やがて目の前の少女の丸い瞳には、涙が滲み始めていた。
ああ、このまま私は…

首を下に傾けた瞬間だった。

何かが割れるようなけたたましい音。
同時に体が浮き上がるような錯覚を覚えた。

錯覚じゃない。掴まっているのに、前にのめっている。
強い強い風が私を洗面台から引き剥がそうとしていた。

人さし指、小指、薬指。
中指が外れた瞬間に、体が浮き上がって中に吸い込まれて。
ブツンと視界が途切れた。



――雨の音。

遠くで低く轟く雷鳴。
部屋は薄暗くて、汚れた染みだらけの木目が遠くに見える。

そして。
「隊長…隊長…!!」
「頬を擦りつけるな、髭が痛い」
ゴワゴワした相棒の毛の感触が、そこにあった。

「ああ、戻ってこれたのか」
穏やかで、どこか冷えたような声が頭上でする。
見ると、私が探していた依頼主がそこにいた。

「あの鏡は、これから処分する方法を考えるところだったんだ」
「いわくつきの鏡か」
「そんな所だね。一か八か壊したら戻ってこれたようでよかった」
「ご苦労な事だな」
吐き捨てるように言ったが、語勢までは誤魔化せなかった。
胸が熱くて、油断をすると溢れてきそうだった。

「まあいいや。それで、僕に頼んでおいた品を寄こしてくれ」
「ああ、勿論だ」

胸をまさぐって、腰をまさぐって。
立ちあがって、相棒の尻尾を掴んで懐にすぽんと入れて。
「もう一度捜してくる」
手のひらを額に当てて、小さく頷いた。
そして背を向けて、立てかけたロッドを引きぬくようにして。


降りしきる雨の中、私は上がる息を抑えて濡れた草を蹴っていた。
「随分と、嬉しそうですね?隊長」
胸の中でもぞもぞ動いて、気持ちが悪かった。

「ああ、私は嫌いじゃないからな」

言葉足らずだとは思った。
けれど、相棒は何も言わなかった。

大した奴だ。
この雨の中、私の中で寝息を立てるなんて。

こっちの身にもなってくれよ…
あの少年のような頬笑みを浮かべて、足を回し続ける。



…掲げたダウジングロッドは、いつまで経っても反応を示さなかった。




おわり