東方幻想明日紀 三十九話 狼少年と黒い猫

のうのうと湯に浸かっている気分でもないので、
二人で湯船から上がって、着替えることにした。
男性用の脱衣所に、三人。

「もうすぐ襲ってくるって、いつかはわかるのか」
「うーん、もうすぐかな」
彼女が何者か、本当にわからない。
服装が妙なのはそう驚くべきことではない。

発言や言動が、あたかも僕の知らない事を知っているかのようであること。
特に気味が悪いのは、自分の事は何も明かさない事だ。

「お客さんはさっき、私が掃ったよ」
唐突に、一人呟く少女に訊き返そうとしたその時だった。

背後で何かが壊れるけたたましい音と同時だった。

振り向くと、生温かい夜風を背に、堂々たる様子の狼がいた。
その大きさが尋常ではない。体高が僕の身長の二倍はある。
大きな穴が、崩れた木の骨組みを残して空けられていた。

美しくたなびく黒い毛が、いかにも雄々しさを感じさせられた。
そして、何よりも三つの青白い鬼火を纏っていた。

怖くはなかった。
だが、あまり勝てる見込みもない。

「ねっ、任せて」
少女が僕に小さく目配せをして、小さく腕を振り上げたその瞬間。

長い白い棒が、視界を横切って、そのままその狼に叩きつけられた。
時間差、狼のいた位置に白い棒がえぐりこみ狼は大きくのけぞった。
白い棒の末端を見る。
大根の葉をまとめて握っている鉢巻の似合うおじさんがそこにいた。

色々、言いたい事はある。

横を見ると、少女の血の気が引いた顔。
唇が小さく震えていた。
いよいよ、彼女がわからない。
驚く事ではあるが、そこまで驚く事だろうか。

向き直ると、初老のおじさんは身長以上に跳び上がって
その狼の脳天に文字通りの満月大根斬りをかましていた。

とりあえず、このおやじが人間ではない事がよくわかった。

ズズンと重い音と一緒にその狼は倒れた。
脱衣籠が散らばり、いよいよもって片付けが大変になった。

「よし、ずらかるぞ」
「えっ…」
「いやー掃除を押しつけられたら大変だからな」
おじさんは後始末を放棄して、いそいそと逃げてしまった。

取り残されて呆然としていると、
ふと視界に大きな影が無い事に気付かされた。

狼の死体は…?
「いるね、そこに」

少女が指さした先に、脱衣籠と瓦礫の山。
目を凝らすと力の抜けた小さな人間の手が見えた。

どんな気が働いたのか、不思議なもので、
気がつくとその手に駆け寄って瓦礫を掘り返していた。
「トドメ…刺そう」
「やめろ」
僕が少女を制すと、少女は口を一文字に結んで小さく唸った。
だんだんその全容が見えて、あっと声が出た。

粗末な服をした僕くらいの身長の小柄な黒髪の少年だった。
口からは、赤黒い筋が重力に従って下向きに引かれている。
目を固く閉じてはいるが、腹が小さく上下している。

僕は少年のひざの裏と背中を持って、抱き上げた。
とても、軽かった。
「こんな姿だったんだね」
「うん」
どこへ運ぶかは、もう決まっていた。


「おーっちゃんっ!」
「バカヤロウてめえそいつはさっき俺が」
「…ああ、やっぱりばれたか」
「ったりめーだ。傷口くらいわからあ」
おっちゃんは男の子の前髪を触って、顔をしかめて腰で手を拭いた。
腰の布の色がその場所だけ濃くなる。
男の子を拾ったと言って八百屋に戻ってくるとこれである。

おじさんは素早く腰を上げた。
「…待ってろ。知り合いの腕利きの医者を呼んでくる」
「え、本当?」
「まあ、お前さんがわざわざ拾ってくるくらいだ」
買いかぶられたものだ。
特に意図はない。ただ、放っておけなかっただけだ。

「ところで、さっきのねーちゃんはどうした?」
「さあ…」
ふと、気が付いたらいなくなっていたのだ。
神出鬼没とは、正に彼女の事だろう。

「まあいい、大人しく待ってろよ」
「うん」

おじさんは引き戸を思い切り閉めた。
あまりにも勢いが強すぎて少しだけ、開いていた。
そっと、その戸を閉めにいくと、後ろで短いうめき声。

引き返すと、その少年は急に起き上がり、僕の横をすり抜けた。
そして湿った真っ暗闇に飛び出して、消えた。

あっという間の出来事で、少しの間動く事が出来なかった。

何かに突き動かされるようにして、僕はその後を追った。
血の匂いで、なんとなく行き先はわかる。

蒸し暑い月明かりの中、どれくらい走っただろうか。
村から遠く遠く外れて、田圃道を抜けて。

とうとう視界にはどこかで見覚えのあるような木々。
どうして僕はここまでしてあの少年を追いかけているのだろうか。
それでも、足はひたすら血のにおいを追いかけていた。

少し開けた、月明かりが射しこむ少し広い木のない場所があった。
そこに、その小さな影はあった。

そして、その影はみるみる大きくなって。
再び、あの凛々しい元の狼の姿になった。

その伸びた鼻筋にかかった影は、悪意と憎悪に満ちていた。

影が動いたな、と思ったのもつかの間。
視界が揺れて、強い衝撃が腹。
時間差で体全体に重くのしかかった。

蒸した夏草の匂い。
茂みの中で、木の幹に叩きつけられていた。

ぐらつく視界の中、またその影が揺らめいてこちらに来た。
今度は、もう助からないだろうなと、他人事のように考えた。

その影は、目の前でぴたりと止まった。
そして音を立てるように縮んで少年の姿になったかと思うと、
おぼつかない足取りで僕の方に辿りついて。
僕の首の横を通して背後の幹にその細い痩せた手を叩きつけた。
「俺をコケにして…許さない」
その声には、怒りが籠っていた。
が、それ以上に弱々しかった。
僕も動くのが難しかったから、固唾を呑んで、息を整えて。
「動くな。大怪我してるんだ」
「うるさい…大人しく殺されてろ…」
虚勢じみた歯ぎしりを聴くたびに、
いったい何がそんなに彼を駆り立てるのか疑問に思った。
「僕を殺して、どうする」
「うるさいって言ってんだろ!」
その言葉を言い終わった瞬間、少年は僕の上に崩れ落ちた。
改めて思う事には、彼は酷い怪我をしていた。

僕は動けない事もないが、彼を無碍にするわけにはいかない。
さて、どうしたものか…
ああ、この臭いは何度嗅いでも苦手なものだ。

あれから数える回数ではあるが、人や獣を狩った。
その都度、人間だった頃を思い出して。

膝の上を見ると、少年の固く閉ざした目蓋。
指先が、僕の服を握って離さなかった。

ふと、甲高い猫の鳴き声が近くでした。

そこに目をやると、さっきとは違う青白い人魂。
そして、黒い毛色の猫の姿がそこにあった。

この少年の仲間であろうことは、疑いようのないものだ。
僕は助かったのではない。

その影をまじまじと見つめていると、徐々に大きくなった。
月明かりと青白い光に浮かび上がる赤毛の少女の姿。
その手には、大きな手押し車。

暗い色のワンピースは、いかにも今の僕に死を連想させた。
赤毛の少女はにまっと笑うと、倒れている少年の腕を持ち上げた。
「なんだか、随分無茶をしちゃったみたいだねえ」
狼だった少年を肩に担ぎながら、ひとり言のように。

「その手押し車には乗せないのか」
「まだ、死んでないからね」
頭に疑問符がよぎった。
すると、その手押し車の用途は…
「ねえ、貴方も一緒にくる?怪我治さなきゃ」
彼女は僕に考えさせる暇を与えなかった。
手をそっと引っ張り上げられ、僕はふらつく足取りで立ち上がった。

彼女は行先を告げぬまま、ずんずんと歩みを始めた。
ひょこひょこと足を引きずりながら、それに着いていく。

好奇心が、僕の中で鳴り響いていた。
なお、おじさんの事は絶賛忘却中であった。


つづけ