東方幻想明日紀 三十八話 僕とおじさんと保護者

人間が苦手だ。
別に信念をもって嫌っている訳じゃない。
むしろ好きか嫌いかで言えば好きだ。

「おっちゃん、これでいいよね」
「おう、あとそこの大根もな」
こうやって、人の下で働くことに喜びを覚える体である。
人間が嫌いなはずがなかった。

価値観だって、そう違うものじゃない。
人間にごく近いと思う。
違うとしたら寿命のただ一点である。
人間かどうか確かめるのは、
この一点に集中すれば見分けをつけるのは難しいことではない。

厭世感といったものはない。
死にたいと思うことだってない。
死のうと思えば、きっとあっさり死ねる。

運がいいからだと根拠なしに確信していた。
けど、死ねないわけでもないのに人間が疎ましかった。
だから、無感覚に人間と一線を引いて、一緒につきあっていこう。
そう決意したのはつい最近のことであった。

雨の中、八百屋さんを見つけた。
門戸をしきりに叩いて。
僕が妖怪です短期で雇ってくださいと
おじさんに頼み込んだ。
俺が死ぬまで働いてくれと逆に頼まれた。
考えられる意図はいくつかあるけれど、
僕の性根ではあまりいい風に受け取ることができなかった。

新生活と言うにはあまりにも泥臭いけれど、それでよかった。
後ろめたいことなく、日々の食事と雨露が防げるだけで。
それをしないとどうにかなるという訳ではないが、
そんな欲求が僕にはあった。

ここはどこで、あれからどれほどの時間が経過しているのか、
僕には皆目見当がつかなかった。
…ソナなんとかは知っているだろうけど会う機会がないし、
そもそも呼び出すこともできない。
あれは夢なんじゃないかとさえ思えてくるくらいに、
僕の中でおぼろげな存在になりつつあった。

そんな、泊まり込み働きで日も経たぬ時期だった。

「銭湯にいかないか」
ある晩、こんな事をおじさんは持ちかけた。
「違う違う、最近疲れているだろう」
身を固くすると、おじさんは無精ひげをさすって豪快に笑った。
補食ならまだしも、戦闘は好きではない。

ただ、僕の杞憂だったみたいで。
それにしてもこのおやじ、人間なのだろうか。
そんな事はもちろん尋ねたりしない。
が、風格といい態度といい如何にも人間味を感じないのだ。
出会った最初から、僕を子供として扱わなかった。


僕は頷いて、普段使う手ぬぐいを引っ張りだしに走った。


吸い込まれそうな夜道を歩いて数分、
たどり着くと清潔な印象を受けた。
ただ、それ以上に閑散としていた。
脱衣場のかごは全て空だった。
「おじさん、この時間はやってるのか」
湯船に浸かりながらこんな事を言うのはいかがなものなのか。
「ああ。今日はずいぶんと人がいねえな…」
おじさんはぞんざいに頭を掻く。
確かに、浴場も手入れされていて、
ちゃんと人が使っているように思える。
まあ、湯温も丁度いいし、
今日は貸し切りのつもりで疲れを取ろう。

ひとつ大きく伸びをすると、
途端に眠気が襲ってきた。
「随分働かせちまったか?」
明るい語勢で、隙を突くように尋ねる。
「そんなことない」
そのままの姿勢で、それを受け流す。
「まあ、それは冗談としてもだ、
 何か気に病んでるな?」
傍目からはそう見えるのかもしれない。
考えてみると、思い当たる節はいくつもある。
「昔あった村を探してるんだ」
「ほう、どれくらい昔なんだ」

「それがわからないんだ。名前も覚えていない」
言ってみれば、探すも何もない。
今のその村と僕の記憶の村を結びつけるものは何もないんだから。

「すると、お前さんは長々と眠ってたんだな」
「よくある話だけどね」
「いや、そんな頻度であっちゃたまらんだろ」
冷静な突っ込みが返ってくる。

お互いに小さく笑うと、いよいよもって浴場は静まり返った。
肩までつかると、しんと熱が体に下から染みわたる。

「ところで、ここらで変な妖怪が湧くとの不穏な噂を聞くんだ」
同じように笑い飛ばそうとしたが、頭にふと引っかかる事があってやめた。
どこかで、誰かが似た事を言っていたような…

遠くに目をやろうとすると、大きな影が目の前を覆った。
面喰って近くに焦点を合わせると、二度目。

サファイアのような青い瞳が、僕の視線にかちあった。
もう少し引くと、見覚えのある顔立ち。

「何してんの…ソナチネトロニカ」
「…ソナレノチュナト!だから覚えなくてもいいってば。
 『そな』って呼んでくれれば、それで」
少女は怒ったようなそぶりを見せた。
見ると普通にあの時の服を着て、普通に湯船につかっていた。

「おいねーちゃん、ヒカリの知り合いか?」
「ヒカリの保護者だよ」
そう言って、僕の方を一瞬だけ見た。
睨みつけると少女は小さな肩をすくめた。

何が保護者だ。今まで放ったらかしにしておいて…
それに、彼女に色々教えてもらわなければいけない事がある。

ただ、異様な空間ではある。
誰もこの状況に疑問を感じずに、平常運行。

「そうだ、いい事教えたげる」
僕とおじさんの尖った視線が、サファイアに集まる。

「――もうすぐ獣妖怪が襲ってくるから、守ってあげる」

湯の注がれる音だけが、後味悪く絶え間なく。
後には、不気味な静けさが残るばかりだった。

「信頼していいのか」
おじさんのほとんど空っぽの低い声。
「もちろん」
少女は愉快犯のように腕を組んで、鼻を鳴らした。



つづけ