ナズーリンにお返しのクッキーを渡すまで 下

先生の通る声が、そのまま僕の耳から明後日の方向へ通り抜ける。
僕はまた小さな事で悔やんでいた。

教科書を一斉に開く音がワンテンポ遅れる。

「…」
横で、誰にもわからないくらい小さく身を乗り出した。
その姿は一瞬だけ視線をやって、僕の表情をうかがっていた。
軽く向こう側に視線を投げると、気配はすぐに正面を向いた。

彼女は予想に違わない表情をしていた。
ごめん、丙。本当に大したことじゃないんだ。
心配してくれているのだろう。
きっと、何かあったのかと思われるくらいには。

今か今かと授業が終わるのを待っていた。
顔を上げると、授業終了まで後ニ分。

…120秒は意識すると途轍もなく長い。
時計を見るたびに、一秒がどんどん遅くなっていく。

やっとの思いで聴けたチャイムの音、肩の力が少しだけ抜けた。
力を入れて立って、惰性のままに腰をおろして。

教科書を片付けながら、両膝を横に向けた。
丙は癖っ毛の、薄桃色の頭を近づけた。
そっと手でパラボラを作る。

何を言うか考えて…硬直した。
ここまでの状況を作っておいてだけど、言えるわけがなかった。

端折った話をするならば、
電車でナズーリンさんに単語帳を見せてくれと頼まれた。
一緒に見る気にどうしてもなれず、渡してしまった。
たった、それだけのことで。
「…どうせ変なことでしょっ」

「んな訳ないだろ、じゃあ言うけど――」
そのままの勢いで、思っていた事を話した。
話しながら、ああ乗せられたなと一人で可笑しくなっていた。

「…ちっさい事だよね」
先手を打たれる前に、そんなセリフを先に置いておく。
ただ笑われたら、いよいよいたたまれなくなる。
…そう思っていたのに。

目の前の幼馴染は口を固く閉じて、似合わぬ思案顔をしていた。
それこそ、僕が声をかけるまで永遠にその場で動かないかのように。
途端に怖くなった。
一緒に笑って、気分を軽くしてくれるかとどこか遠くで思っていた。
身勝手だけど、理不尽な期待を寄せて。

誰かが考える顔なんて、よく見る光景のひとつだ。
でも、そうじゃない。
考える顔を普段見せない人だっている。

「考えすぎちゃ駄目、なんて言わないけどさっ」
そう言って、彼女は小さな体を起こして立ち上がる。

「焦りすぎは、毒だよ」
それだけ言って、幼馴染はびっと細い人差し指を立ててみせた。


時間にしてたった、一時間ほど後のこと。
背後であっという短い、高い声。
ほぼ反射で振り向いていた。

それが、あまり似つかわしくないことも。

笑いをこぼすような余裕なんてなかった。
強張った表情を向けさえしなかった。
ただ唖然としていたのだ。

一言でいえば、予想外のことで。
貸した本が、返ってきた。
たったそれだけのことだったのに
「どうしたの」
とぼけた、心にもないことを尋ねていた。
よけいな手間をかけたな、と。
後ろにそれがあるのであろう隠し気味になっていた、
彼女の華奢な手元をわざと避けていた。

「これ…ありがとう」
声は、はっきりと僕の方を向いていた。
もっとも僕も、みかけは見つめ合ったいるように見えたとして、
何ら不思議はなかっただろう。
けれど、焦点は彼女の後ろ髪に合っていた。
その紅の瞳を見る事は僕には堪えなかった。

そっと差し出した手に触れないように
それを受け取った。

小さな単語帳は、優しく手になじんだ。
「まるで他人行儀じゃないか」
その鋭いはっとして、僕は彼女の前に焦点を合わせた。
かちあった固い視線が、そっと溶け合って、僕の奥に入ってきた。

救われたような気さえした。

僕もつられて、笑った。
ごめんねはもう言わなかった。
うっかりお礼を言って、また笑った。
後悔は、もう既におおかた消えていた。

そういう間柄じゃ、ないんだよね。
そう自分に言い聞かせて、その度に反芻していた。

噛みしめるように、頭の熱を全身にいきわたらせて。


放課後の教室、誰もいないのを確認して。
僕の例の友人の席に座った。
別にどうということはない、電車を大いに逃していただけだった。
親との不仲もあり、今日は帰る気が起こらなかった。

今朝した小テストの範囲のページを開いた。
ほとんど、その開いた跡は見て取ることはできなかった。
できるだけ跡を付けないように、
ほぼ閉じた状態で読み込んでいたのだろう。

他人行儀はどっちだよ…
もどかしかったけれど、けれど。

もう終わった範囲だけどそのページを隅々まで見渡していた。
ちょっと後ろめたいような手つきで。

吸い込まれるように、僕の席の遠く。
黒板の近くの座席に歩み寄る。
彼女の席に座ろうなんて不埒なまねはできなかった。
ナズーリンさんの席の真隣、僕の友人の席に腰を下ろして。

そして、両膝を横に向けて、背中を落として単語帳を読み耽る。
僕がなぞっているのは、流れるようなアルファベットじゃなくて、
彼女の今朝視線でなぞったであろう跡。

もしも今変態と罵られたら、
この二階から条件反射で飛び降りてしまうかもしれない。

「――なっにしてんの〜」
危なかった。
この朗らかな声に残りの人生をつみ取られるところだった。

僕の動揺っぷりに驚いたのか、
よく知った指先がてんで違う方を向いていた。
「わかりやすすぎ…」
「ご、ごめん」
どうやらからかう気も失せたらしい。
僕が謝るのも変な話かもしれないけれど。
「で、返してもらったんだね」
首が取れそうなくらい強く縦に頷いた。
別にガキ大将からゲームを返してもらった、という話ではない。

「いやー、これナズーリンさんに見られてたらまずかったね」
なぜ知っていたのと訊くのは今更すぎた。
まあ丙だし、ある程度は開き直っていこう。

「…で、何でここに座っているのかな」
三十六計。僕は君子。
この教室から逃げるのが目下の仕事だった。

彼女の下世話なところが嫌いで、好きだった。
恩返しの機会を見つけたら、飛びきりの事をしてあげたいと。
そのくらいは、何度考えたかわからない。
逃げるように学校を後にして、足取り軽く帰路に着いた。

これはデジャヴでも時間逆行でもない。

「君という奴は…」
「本当に面目ないです」
彼女の顔が、明らかに昨日よりも歪んでいる。
あんまり、うれしくない変化だ。
これで二度目。
もちろん三度目をするつもりはない。
「私の机にあったぞ…」
苦笑しながら、どこかぎこちなかった。
…ん?置いてきたのなら友人の机にあったはずだけど…
しばらく考えて、合点がいった。奴だ。

なんだろう、あの手段を選ばなさ。
たいそう楽しんでいるように見える。
下世話というよりは、やたらとお見合いをさせたがる
近所のおばちゃんのような存在に思えてきた。恐ろしい。

今度は、その単語帳をすぐに鞄に突っ込んだ。


…少しだけ、頭に引っかかる事があった。
なぜ彼女は僕にわざわざ単語帳を借りたのだろう。

借りるなら、それこそ僕の友人をあたればいい。
僕と同じ車両に乗っていたし、席は隣だ。

本人に直接訊くのもはばかられたので、その些細な疑問は殺す事にした。



「すげー雪だな」
「そうだね」
ある豪雪の朝、電車が動いているのが不思議だった。
ネックウォーマー、ポケットを両手に、肩をすくめて。
電車に慣れていないのか、揺れが来るたびに足に力が入る様子。
そのくせ、顔は自然体なのが無性に笑える。

ただ、少し冷静になると、僕と彼を比べてしまう自分がいて。
頭を振るようにして、その邪念を振りはらう。
「随分疲れた表情してんぞ」
無理して僕は笑った。
友人という事を差し引いても、彼は男らしくて。
僕がもし女だとしたらと考えると、委縮する。

どうして、こんな事を考えてしまうんだろう。
友人として、彼を尊敬している。もっと仲良くしたい。
どこかで、それを阻む壁があって。

彼にも同様に、嫉妬はあるのだろうか。
あるとしたら、きっと僕ではないんだろうな。
無根拠、無意識にそんな事が頭を支配して。
「へーき、へーき」
力なく、うすら笑いを浮かべてみせた。
彼を正視できなかった。
「まあお前がそんななら、俺にだって考えがある」
息が、僕の口から小さく漏れたのがわかった。
心の中を見透かされたような気がして、途端に怖くなっていた。

その日の授業はずっと気が気ではなかった。
今朝一体何を画策したのか。
彼は良心が空回りするタイプなだけに、余計に。


恐る恐る蓋を開けてみると、拍子抜けだった。
雪も収まってきた頃、放課後一緒に帰ろうと言いだした。
授業が短縮なので、まだ昼過ぎ、さほど陽は傾いていなかった。
僕の家の近くの空き地に連れて行かれ、
「よし、今から雪合戦デスマッチを始めるぞ。
 手頃な雪玉が10個体に当たったら負けだ」
そして、これである。

体を動かせば少しは気も晴れる、というつもりなのか。
「…やってやろうじゃん。で、負けた方は?」
彼は条件を付けるのは好きな性格じゃないとは思う。
けど、僕はそっちの方が俄然燃える。やるならとことんがいい。

「ここで、でかい雪だるまを作る」
「なるほど」
やっぱり、慣れていないようで、彼らしいなと思った。

…ただ、問題は勝ち目があまりない事だ。

お互いに少し離れた所に立って、少しの間をおいて。
僕が地面をさっと掬い取る。
冷たさが、手の中に染みわたっていくのがわかる。
そっと手の中を固めて、相手の様子をうかがう。

もう一個作って素早く牽制して。
次のを腰を落として鋭くサイドスローで投げた。
すぐに回り込まれて避けられた。
身体を起こそうとした瞬間、脇腹に軽い衝撃が。

「…やるじゃん」
鋭く見据えると僕は腰をかがめて、再び雪を固めた。


結論から言うと十当てられる間に、
たった一つしか当てることしかできなかった。
確かに体は温まったし、邪念も振りはらう事が出来た。

ただ少し虚しかった。
純粋に、彼に勝ちたかった。

力でも成績でもいい。
今回の雪合戦でもいい。

けれど何一つ、僕は彼に勝てやしなかった。
おまけに人間性でも、ニ歩三歩、五十歩ほど遅れを取っている。

彼は別に作らなくていいと言ったが、条件を提示させたのは僕だ。
僕は負けたんだ。彼に負けたんだ。
別れた後、手の感覚はほとんどなくなっていた。
手遅れだと思いつつも近くだし手袋を家に取りに行こうと、
そう思い重い腰を上げたその時だった。

遠くの小さな二つの影。
距離のせいで、余計に小さく見えた。
偶然ってあるんだな…
何だか、笑えてきてしまった。
みじめな気持ちにはならなかった。

マフラーをしっかり巻いた厚着の鼠耳の少女と、
寒さという言葉が辞書に入っていなそうな癖っ毛と。

「そうだ!折角こんなに積もってるんだから雪合戦しようよ!」
近づきざまに、二人組のアホの方がこんな事を持ちかけてきた。
聞くと、二人で丙の家でこれから勉強会をするつもりだったらしい。

地獄の第二ラウンドが幕を開けた。
雪合戦とは、苦行である。

どれほどの時間が経ったのかわからない。
雪に身体をうずめて澄んだ空の星を見つめていた。
疲労を取り越して顔も熱く火照り、体が温かくなっていた。

…馬鹿だ。
あの時、ナズーリンさんがあんな顔で頷かなかったら。
嬉しそうに、首を小さく小さく一傾させなかったら。

体を起こすと、頭が重たくて付いていかなかった。
あんな顔、反則だ…

とぼとぼと家に帰って、その日は着替えて寝る事にした。
冷たく重くなった制服を脱いで、寝間着に着換えて。
ご飯を胃に直接流し込むように食べて。

床につくと逆回しのフィルムのように、数時間前が再生される。
時々手の痒みがそれを妨害したものの、
そうしているうちにいつしか意識が消える。
気がつくと部屋が薄明るくなっていた。

目蓋を閉じて、開いたらすぐというほどに。
不思議と疲労感が癒えていて、鳥の声が聞こえてきて。
数年振りかくらいに、熟睡していたんだ。

目をこすって、食べたばかりのような朝食を食べた。
あまり気乗りはしなかったけど、胃はすんなりと受け入れた。

嘘みたいに体が軽くて。
記憶を辿ると、まだほんのりと温かみが残っている。
昨日のあれは夢じゃなかったんだ。
一緒に、雪合戦したんだ。


「…風邪、ひいちゃったんだって」
学校に着くと昨日の雪合戦はよりリアルで、最も酷な形で。
苦笑をベースに、多少の悔悛の色が見て取れた。
単調でテンプレートな相槌しか打てなかった。
死んだような声になっていたのは、もう察してもらって構わない。
その日は学校にいる価値なんてない。

ナズーリンさんが、熱を出したらしい。
思えば、僕がかかるべきだった。
いや、それ以前にあの時丙の誘いを断っていたのなら…

その日は時間が過ぎるのがやけに遅かった。
空席は遠く遠くだったのに、どうしようもないほど落ち着かない。
丙に笑われたが、正直笑えない。

「大げさだな、明日になれば来るよ」
「そうだけど…」
隣だったこいつに話しかけても、同じような反応だった。
まあ、僕に置き換えてみれば確かに大したことはない。
最初に「あ、いないねそういえば」と言った時は握り拳を固めた。

丙も案外けろりとしたもので…
とんだ一人相撲をとっていたと、頭ではわかりはじめていた。

「明後日さ、二年生の教材の購入があるじゃん」
帰り支度をいそいそと始めた丙にそんな事を持ちかけた。
「心配し過ぎだよっ、なっちゃんは明日知っても平気平気」
そのせわしない手を止めて、呆れたように笑った。
…直後、彼女の表情が豹変した。
「そんなに心配ならさ、一緒に届けに行こう?…ね?」
少し無理して低い声を作っていたのが、余計に僕の声を詰まらせた。

内心、一度行きたい気持ちもあった。
彼女にお見舞いに行く口実が出来たのだ。
ただ、手放しで嬉しさを噛み締めるのは、
熱で苦しむ彼女にあまりにも申し訳なかった。
「そうだ、彼も誘っていいかな?」
「だーめっ。意味…じゃなくて関係ないでしょっ」
逃げようとすると、退路を断たれた。

これは腹をくくるしかなさそうだ。


電車に揺られながら、僕達の降りる駅を過ぎる。
途端に緊張してきた。
「そういえば、行った事あるの?」
なっちゃんちで遊ぼうってなった時に、何回か」
改めて思ったのは随分と仲良くなったんだなということ。
さっきからなっちゃんという単語が、頭から離れなくなっていた。

いつかそうやって呼べたら。
いつものように何気なく出会って、何気なくそう呼んで――

妄想に耽っていたら横の癖毛の奴に凝視されていた。
目が、酷く何かを言いたげに見えた。
「…もうすぐ、着くよ?」
全く心の準備ができてなかった。
急いで立ち上がる準備をして、心の準備も一緒にした。
なぜか横で、くすくすと笑っていた。


彼女の家の手入れされた玄関先は粛然としていた。
駐車場らしきスペースには綺麗に空いている。

丙に目配せをして、ドアベルを押してもらった。
彼女の小さな体躯の後ろに隠れるようにして。
長い電子音が、遠く、かすかに聞こえてきた。

…そして、また物音一つしない静けさが戻った。

「寝てるのかな」
誰にともなしに丙が言った言葉。
小さく首を横に傾けて、それに答えた。

「ちょっと裏口のポストに突っ込んでくるねっ」
そう言うが否や、丙は裏に回り込んでいった。
あれ、裏口にポスト…?

それって、こっちが裏口なんじゃ…
そう思い立ったのはガチャリという控えめな音とほぼ同時だった。
視線をすぐに玄関先に戻すと、わずかに空いたドアの隙間。
その中に、眼が吸い込まれていった。

思わず玄関前に駆け寄る。
そこには鼠のマークが入った寝間着姿の華奢な女の子の姿。
玄関戸に手をかけると言うより、寄りかかっている感じで。
重力が二倍になっているかのような危ない足取り。
尻尾はだらんと元気なくさがっていて、耳も気持ち垂れて。
顔は熱に当てられて、ほんのり赤みがさしていた。
額に貼ってある白い長方形のシートが、胸を刺す。
「君は…」
その赤い瞳は、顔を向けると焦点を取り戻した。
「お見舞いにきたよ」
言った瞬間、口を抑えたい衝動に駆られた。
言う言葉を、間違えた。

ただ僕は連絡プリントを渡しにきただけなのに。
少なくとも、建前はそうであった。
それとは裏腹に彼女の顔はくしゃっと見た事のない形を作った。
「嬉しい…」
聞こえるかぎりぎりの声で弱々しくそんなことを言った。

その時彼女の体が、ゆっくりと角度が付いていく。
ぼんやりとしている暇なんてなかった。
体が、勝手に彼女の体を支えにいって飛び出す。
腕いっぱいに、重さと温かみと。
彼女の匂いが。
「…大丈夫か」
これ以上の言葉が出てこなかった。
言いたい事は、山ほどあって、でも何一つ出てこなかった。
彼女のひざの裏を腕で抱えてそっと玄関の中に入った。
頭の中はとうに色に濁って、不透明そのものだった。

どういう考えでその行動に至ったのかはわからない。
少なくとも、外は寒かった。
顔が近くにあって、意識しだすと、もうどうしようもなかった。

熱が籠った彼女の体は、いかにも弱々しかった。
小動物のそれを、より強く思わせた。
薄手の物を着ていたから、なおさら。
不思議なくらい、僕は冷静でいられた。
精一杯の冷静だった。
小さく腕の中で口を開く気配が伝わってきた。

「すき…」
たとえ空耳だとしても、耐えられなかった。
何かの間違いでも、僕の動きと頭を止めるのに十分すぎた。
顔が、もうこれ以上ないくらいに熱くなって。
彼女の布団に、そっと運んで。下ろした。
その間、自分の息がずっと止まっていた。
その分せわしなく体中が脈打っていた。

彼女を布団の上に下ろして。
その手の指の隙間に、すっと彼女の指が入り込んで。
かなりの熱だった。
ただ、僕も十分に熱っぽかった。

彼女の顔を見ると、まったりとした恍惚の表情を浮かべていた。
息が荒くて、赤みを帯びた顔で。
そして、今度は。
僕の名前を、呂律の回らない口調で。

もう、耐えられなかった。
衝動が、彼女を僕に抱き寄せさせた。
汗ばんだような湿った感触と、柔らかい熱気が体にまとわりついて。
小さな体躯が、よりはっきりとはっきりと。
心臓の波打つ音が、どちらのものかはっきりしなかった。

「僕も好きだ…ナズーリンさんが、大好きだ」

大きな丸い耳元で、はっきりと何度も繰り返していた。
もう僕の意思じゃどうにもできなかった。
片方の手を手探りで探して、きゅっと握って。

「――やっと、言ってくれたんだな…」
そう言って彼女は、悪戯っぽく大きな紅の目を細めた。
同時に、握った右手の力がそっと抜けていた。
彼女に再び視線を戻す頃には、小さな穏やかな寝息が聞こえてきた。

自分の今までしたことが、波がすっと引いていくように理解した。
熱いのがまた頭に集まって、煩わしくもあった。
勢いで、こんな事をしてしまった。
幸せそうな寝顔は、迷いや自己嫌悪を全部吹き飛ばしていった。

結局、熟睡した彼女を布団に戻して、
家から出るまで速い呼吸が戻る事は無かった。
何度も思い出しては、あの消え入るような声を、何度も。

電車に揺られながらも、ずっと夢を見ているような気分だった。
幾度も幾度も、夢じゃないと自分に確認しながら。
でも、これを夢じゃないとするなら、証拠が足りない。

あ…丙を忘れていた。

今頃、彼女はどうしているんだろうか。
もしかしてあのまま僕を待っていたりは…しないよな。
黙って帰ってきた事を、後で謝らなきゃな…

帰ってくると、まだ胸が強く締め付けを繰り返していた。
明日から、ナズーリンさんにどう接すればいいんだろう。
今まで通り自然に、自然に振る舞えばいいのかな。

器用だから、僕さえしっかりしていれば何とかなりそうだけど。
ああ、どうしよう。どうしよう…

思えば幸せな悩みかもしれないけど、凄く気がかりだった。

家に着いてからも、それは何も変わらなかった。
足の小指を、何度もどこかしらの角にぶつけた。
完全に浮足立っていたらしい。

珍しい長風呂でのぼせて、もっさりと着替えて、よし寝ようとした時。
着信音が、いつもよりも遅く聞こえて。
手が素早く動かなかった。

やっとの思いで手にした画面には、無機質な番号が。
血の気がすっと引いた。
「ごめんっ!勝手に帰ってきちゃった!」
取りざまに、叫んでいた。
面喰ったような雰囲気が、電話越しに伝わってくるのがわかる。
「…熱、あるの?」
間をおいて、きょとんとしたような声で、そんな言葉を。
その返答が、会話の体をなしている事に気づくのには時間がかかった。

ひとつは、声の調子で具合が悪いのを見抜いていたこと。
もうひとつは…

「見てたんだな…」

「んんー?」
「もういい」
そんなやり取りをして、僕からすぐに電話を切った。

本格的に熱が出てきたのかもしれない。
もう落ち着きのなさが最高潮に達していた。

体は睡眠を求めているのに、
顔では相も変わらず忙しい事になっていた。
本当なら、お礼を言うべきだったのだろう。

少し後悔している。
全部、もしくは一部彼女のお膳立てだったのだろう。

ありがとう…


届かない謝礼を呟いて、死んだように冷たい布団の上に体を投げた。


翌朝、お母さんが眉間にしわを寄せて首をかしげていた光景。
「今日は休んだ方が良いわね…」
嫌だ、行くとも言えなかった。
行きたい気持ちは十二分にあったのに、体が言う事を聞かない。

体温計をもう一度見ると、38℃を超えていた。
今日は彼女は登校しているんだろうか。
それだけが気がかりだった。

誰かに確認するのも凄く申し訳ないし、
悶々としたまま今日は大人しくする事にした。

その今日は、明日も今日だった。
一向に熱が下がらない。

どうやらこういう状況は人を感傷的にさせるらしい。
あの場で、あんな事を言ってよかったのだろうか。
そう考えると、自分が途轍もなく卑劣な事をしたと思えてきた。

あまりにも遅かった。
同じ状況で、彼女以外にあんな事をされたら。
悪い癖なのか、自分を責めることしかできなかった。
だけど、今は自分を責めなければいけない気がしてならない。

それだけの事を、僕はしたのだろう。
天井の木目を数えながら、何度も暗い時間を送った。
大半は、恥じらいや幸せではなく、悔悛や後悔だった。

その翌日は、熱が引いた。
でも、猛烈に体がだるかった。頭が痛いような気がした。
少なくとも、行く気がまるでしなかった。
しまいには、これが報いの一つなのだろうとまで。
神頼みもしない性分だけど、今だけはそう思った。

お腹が空かなくなった。
部屋の電気を付けたのはどのくらい前だったろうか。
時計も、お父さんに頼んで取り外してもらった。

後々思うに、体は治っていたけれど、精神を病んでいたのだろう。

それでも時間がわからないなんて事は無かった。
西から深い深い陽が差してきたな、と思い立った。

ほぼ同時に、玄関のベルが長々と鳴り響いた。
出る人がいなかったので、居留守を決め込んだ。

玄関にいる者はベルを意味がわからないほど連打し始めた。
誰がいるのか、もうわかったぞ。

単調な感情が、怒りと驚きと喜びが混ざった感情に変わった。
重い体を無理やり引きずるようにして、玄関を開けた。

新鮮な空気と一緒に、ひとつの影が視界に飛び込んできた。
ここで初めて、自分の身だしなみを気にした。
そして、途端に鳴りを潜めた恥じらいが一斉に息を吹き返した。

想像していた姿は、そこには無かった。
その代わり、柔らかい頬笑みがそこにあった。
「ほら、見舞いに来たぞ」
ナズーリンさんの匂いがそっと近寄ってきて。

口が一つなのは不便な事だ。
でもそれ以前に、口が機能しなかった。

紙袋を持つ細い指は落ち着きなく遊んでいた。
彼女に会ったからなのか、体がやけに軽くなっていたのがわかる。

玄関の高くなった所に二人で人ニ人分の距離で腰かけて、
一言二言を交わして、ようやくまともに喋れるようになった。

「もう具合はいいのかい」
「そうだね」

「…よかった」
「ありがとうね」

当たり障りのない会話すら、お互いの声が震えていた。
彼女の合わせようとしていた視線を、ひたすら避けた。

痺れを切らしたのだろうか。
そっと、彼女が腰を浮かせて僕の傍に座りなおした。
もう逃げられなかった。
覚悟を決め固唾を呑んで、顎を上げた。

彼女を正視したのは初めてかもしれない。
自分の鼻の先を見つめるような違和感は、すぐにとれた。
以前と違って、彼女は随分と血色のいい顔をしていた。
風邪をひいていた時はもちろん、今まで見たどの表情よりも。

見ると灰色の細い尻尾が、落ち着きなく左右に不規則に振れていた。

「…これ、食べてくれないか」
消え入りそうな声と一緒に、
僕の胸に押しつけるように、手元の紙袋を差し出した。

それを受けとり、何の疑いもなくそれを開いた。
取り出すとピンク色のタッパーの中に、黒いカップケーキ。
その上に可愛らしいプラスチックのカラフルな楊枝が挿してあった。

チョコケーキ…?
栄養のありそうな、物…ということなのか。
きっと気遣ってくれたのだろう。

楊枝を取って、さっと回してから口に放った。
彼女の方を見ると、痛切な表情をしていた。
「…おいしい!」

「本当…?」
花が咲いたように笑った。紅の瞳が震えていた。
ナズーリンさんって、こんなに表情豊かだったっけ…?
この一週間くらいで、たくさんの彼女の新しい顔を見ていた。

幸せだった。
緊張よりも、ただ怖いほど幸せだった。

「その、お返しは…しなくて大丈夫だからな?」
もじもじしながら、ナズーリンさんはそんな事を言う。

お返し…?

思いを巡らせて、彼女の言っている事を汲もうとした。

そう。
――今日は、バレンタインデーだった。


何を話したかはもう忘れてしまった。
何を思ったかももう忘れてしまった。
ただ、幸せな夢を見ていたような気がした。

ピンク色のタッパーを机に置いて、にやついているだけ。
傍目から見れば気色悪い事この上無かったのだが、
不思議と時間を忘れてしまっていた。

丁寧な形の整ったケーキは六個入っていた。
そのうちひとつを食べた。
僕はあと、どのくらいの期間でこれを食べればいいんだろう。

算数の体を成したような難問に、正面から当たっていた。
とりあえず、ひと月ごとに一個ずつか。
それとも残りはずっと冷蔵庫にしまっておこうか。
少なくともここで一気に食べる気はしない。

…それより、ずっと眺めていたかった。
ああ、時間が止まったらいいのに。

ため息が何度も何度も出て、今までの何よりも迷っていた。



「だって、お返ししなくていいって…」
「お返しするに決まってるでしょ…おバカ?極上おバカさん?」
受話器の向こうから聞こえてくる口汚い高い声。
何もそんな言い方しなくてもいいだろうに…

「だって、僕料理できないし…」
「じゃあ、私が教えるからさ〜」

そこまで話したところで、来客の電子音。
「ごめん、人来たからまた後でかけ直す」
「あいあいさーっ!」

電話を切って、急いで階段を駆け降りる。
玄関戸をそっと開け放した。

そこには色々詰まったボウル片手に仁王立ちしてる女の子の姿。
「やっ」
軽快に、もう片方の手を上げて、にぱっと笑った。
言いたい事は山ほどあるが、とりあえず笑顔で通す事にした。

春休みの始め、今日は家に誰もいなかった。
「あれ、何もなし?私さっきまで話してたよね?」
不安そうな声で危うく笑いだしそうになってしまった。
きっと、話している間に出来るだけ静かに準備したのだろう。

確かに、やけに移動しながら話しているなあとは思ったけど。
この丙とかいうやつ、案外料理がうまい。
味覚が大分奇特なのに、人間というものは不思議だと思う。

紆余曲折あったけれど、
陽が暮れるくらいまでには形になるものができた。

「やっとできたね!」
第何号だろうか。彼女によると及第点らしいが。
「…いつも思うんだけどさ、何でそんなに協力しようとするの?」
ずっと気になっていた事を持ちかけた。
「さあ?」

そのままの調子で、はぐらかされてしまった。
きっと言うつもりはないんだろう。
というよりそのつもりがあれば、自分からわざわざ言いにくる。

「…ありがとうね」
「どういたしましてっ」
彼女がいなかったら、
今頃ナズーリンさんとほとんど話してすらいなかっただろう。

微笑み交わして、淡白に終わりにした。
お互いの意図がもうわかっていたからだ。

ただ、本当に喜んでくれるだろうか。
気持ち悪がったりしないよな…
丙はあえて不安をぬぐうような事をしなかった。

彼女を見送った後、もう心に不安はなかった。
思えば、これまで長かったような、短かったような。

全部は、どうやってこれを渡そうかに注がれていた。
丁寧に丁寧に包んだこの小さなクッキーの袋を手に。


メールの着信音。
ふとスマホを取って、素早く本文を打って三回確認して。

送信。




肌寒い空気は、まだ冬を思わせていた。

近くの公園のベンチに、時計台を気にしている少女。
薄青いマフラーを時々手で直して。
予定の時間より早めに来て正解だと思った。

手元の袋を握る手が強張ってきた。
何度も、自分に言い聞かせた。

ふと、遠くの視線が合った。
距離はあったけれど、ふわっと崩れた笑顔はぼやけなかった。
お互いに、せっかちな顔をしていたと思う。


地面を蹴った。
袋の地面に落ちる音。


それが、また笑いの種になった。
そうとは知らずに、ベンチに近寄って、頬笑みかわした。


…今日も、ナズーリンはかわいかった。





おわり