東方幻想明日紀 三十七話 梅雨時、人里で

意識が混濁していた。
足取りはふらふらとおぼつかなかった。

ぼんやりしている視界に映る景色は、どうやら和室らしかった。
もぞもぞと布団から出て、多少の無理を冒して立ち上がる。
肩を木目のある壁に這わせた。
僕がどのような経緯でここにいるのかはわからない。
ただ、最後の記憶は確か魔法の森で…キノコを…なぜ食べた。

三段論法もどきを述べていないで、
目の前に差し掛かった木の扉について考えよう。

本当に最後の最後、確かブロンドの少女が…。
すると、もしかしたら彼女がここに連れてきてくれたのだろうか。
初めて、幼い見た目でよかったと思っている。
あのまま取り残されていたら、まずかったかもしれない。
あまり自分が死ぬという光景が想像できないけど…

木製の扉に手をかけると、キイと無機質な音。
僕は力を入れていなかった。

「…わ」
あのブロンドの少女と、視線がかちあった。
「おい、休んでろ休んでろ」
少女は僕の後ろ襟を掴もうとした。
それをかわして、壁に寄りかかりながら抵抗を示した。

「…わーったよ。お前はどうしたいんだ?」
大きな魔女帽の少女がやれやれと束ねた金糸のお下げを揺らした。

「お前にお礼を言ってもいい」
「随分と横柄な謝礼だな」
口を軽く引きつらせて、呆れたように笑っていた。
感謝はしている。しているけど…

「その手に持っているものは何だ」
少女の狭い肩には僕の腰に付いていた、
紅白のマントがだらしなく掛かっていた。
「ああ、これをお礼としてもらってもいいな?」
「だめっ!」

腕を下に振りおろして大声で怒鳴りつけると、
少女は腕で覆いを作って、一歩引いていた。

「…大切なものなのか」

囁くような問いに、首が取れるくらい強く縦に振る。
嘆息。
僕の頭に、そっとマントが被せられた。
うっすらとした血のにおいと、懐かしい何とも言えぬ匂い。
それを自分の頭から取ると、僕の口許が勝手に笑っていた。
「ところで、身体は大丈夫なのか」
「まあ、一応」
腰に巻きながら、ぶっきらぼうに答えた。
「ならそこに座ろうぜ。煎茶くらいなら入れてやろう」

重たい足音が、少しだけ遠くに。
長身の表情の薄い銀髪眼鏡の青年の姿が、少女の頭の上に現れた。
「随分と奉仕するね」
低い落ち着いた声に、少女が赤い舌を出した。

そして、青年に促されるまま、
僕と少女、三人で小さめのテーブルを囲んだ。
煎茶が三杯、静かに湯気を上げていた。

既に頭痛は治まって、視界も固まってきた。

「で、どうしてあんな所で倒れてたんだ?」
魔女帽の少女が湯呑を片手に口火を切った。

「そこらにあったキノコを口にしたら、急にお腹が痛くなった。
 たった、それだけの話」
「もしよかったら、特徴を聞かせてくれないかな」

何か思う節があったらしく、青年の肘が乗り出し気味になった。
毒キノコなんて、ここには掃いて捨てるほどありそうなものだから
別に珍しくも何ともないと思うんだけど。
「確か…白い色に、桃色の小さな斑点が広がってた」

それを言うと、眼鏡の青年は腕を組んで明らかに深慮の構えを取る。
その姿は、いかにもであった。
そしておもむろに立ち上がり、席を外した。

「あちっ」
少女が恨めしげに湯呑みを睨んでいる様子を、横目で流した。
足音がだんだん遠くなり、無言の空間が訪れようとしていた。

「なあ、お前は妖怪なのか?」
魔女帽の少女は沈黙が嫌いらしい。
好奇心の籠った少女そのものの目は、僕に自白を強要させた。
「そうだよ」
適当にそんな事を言っておく。
正直のところ、僕自身わかっていない。
ただ、人間の目には妖怪に映る。人間ではなさそうだからである。
「ほー」
満足したのか、少女は椅子に深く座りなおし、
白湯気に向かってふうふうと息をかけはじめた。
そうこうしているうちに、また足音が近づいてきた。
今度は、少し弾んで。
小さな瓶を三つ小脇に抱えた銀髪の青年が姿を現した。
「この中にあるかい」
コトリと三つの瓶を目の前に並べた。
僕は黙って、真中の瓶を指さした。
その中に入っていた、白いふわふわしたピンクの斑点のキノコ。
見まごう事なんてない。
確かに、これだ。
「…それはないと思ってたんだけどなあ」
青年が頭を掻いた。
「どういう事?」
「このキノコはかなり珍しいものだけど、問題はそこじゃない。
 これには、毒が入っていないんだ。癌を抑制する効果がある」
僕は癌かよ。
じゃあ、見間違いか何かなのかな。
でも確かにこれ以外にありえないような…
「ああ、癌というのは…」
「癌は知ってる」
青年の話を遮る。
人差し指を立てたそれは、一種の長話の予兆に思えたからだ。
湯呑を取って、熱い茶を一気に喉に流し込む。
音がするくらい強めにテーブルに空の湯呑を置いた。
「世話になった、僕はそろそろ立ち去ろうと思う」
椅子から降りても、テーブルの上の青年の顔は高いままだった。

「よかったら道案内くらいはするぜ」
玄関まで出向いた足が、はたと止まった。
振り向いて、ななめ上を見上げた。

眩しいような白い歯が見えた。


空気が、重たくて、まとわりつくような森。
不自然に木漏れ日が交差して、平衡感覚を奪うようだった。

「ところで、お前はこれからどこにいくつもりなんだ?」
鬱蒼とした森を先導する箒を持った少女が、振り返る。
こうして見ると、より魔女を彷彿とさせた。
「行くあてなんてないよ」
少女の眉が、一瞬だけ強張ったのを見た。
「…そうか、悪い事を訊いたな」
「違うよそうじゃない。目的がないだけなんだ」
これから何をしたいのか、どういう生き方をするのか。
何一つ、わかったもんじゃない。
僕自身が何者であるかすらわからないのに。
「目的がない?」
「そうだよ。何をすればいいのかがわからないんだ。
 逆に問うけど、お前は何か、生きていく目的はあるか」
無味乾燥な問いを投げると、
少女は虚空を見上げて、腕を組んでしまった。
少しすると、何かを思い出したように僕の方に向き直った。
「私だって、人生の目的なんて大層なものはないぜ。
 だが、漠然とした目標くらいは持っている。
 肩を並べたい友人がいるんだ。天才肌の、な」

胸の前に拳を突き出して、はきはきと喋る彼女の表情は活きていた。
本当は、僕もこうであるべきなのかもしれない。
毛ほども悲しい事とは思わない。
だけど、そう思えるのが少しだけ寂しくもあった。

「それはともかくとして、どうやって生きていくんだ?
 何も考えずにぶらつくと飢死か妖怪に食われるかになるぞ」

確かに考えてみればそうだ。
どういう生き方をするかではなく、どうやって生きていくか。
課題はそっちにあった。
「…人里の場所、わかる?」
少し前から僕がかつていた村の様子が気になっていた。
この近くにある人里が、そこであるかもしれない。
「おー、任せとけ」

もう一度、少女は歯を見せた。
悠々と踏みだした歩幅が大きかった。
二倍の速度で足を踏み出して、急いで付いていく。

魔法の森を抜けると、淡白な挨拶を投げて少女は箒に跨り、
そのまま遠くへ飛び去っていった。

魔法の森での木漏れ日が嘘のように、空は曇っていた。

ここは、僕のかつていた村なのだろうか。
見る限りでは、トーンを落とした木の粗末な家が遠くに見える。
向こうには、高い山。
その手前に、人を拒む森。
見覚えのあるような風景は、どこにも残っていない。

生温かい湿った空気が、雨と一緒に僕に染みついてくる。
頭の帽子が、湿気を含んで重たかった。

垂れ下った耳を持つと、じっとりと水を含んでいる。
ため息まで、湿っていた。
今は、梅雨の時期だった。

幾度となく梅雨は経験してきたが、
こんなにも雨を重く感じたのは初めてだった。
とぼとぼと、蛙の喚く畦道を進む。

人里といっても、展望なんてあるわけがない。
人間を襲うときっと面倒くさい。
物を盗んでも簡単ではないだろう。
だから、働くしかない。

…気がかりな事もあった。
人間に懐かれたら、僕も冷たくあしらう訳にはいかない。
情が出来たら、きっとその死を黙認できないだろう。

そういった意味で、人間が怖かった。


少しずつ大きくなる人里に、もどかしさを感じた。
雨は、徐々に威を強めていた。


つづけ