東方幻想明日紀 三十五話 意思を持った古傷

少しだけ気温が落ち着いてきた。
空気の蒸し暑さもなくなってきた。

何よりも、木の種類が少しだけ変わっていた。
地面に落ちる葉も細く尖った物が増えている。

勾配は依然として急だ。
空気は薄かったが、息が切れる様子はない。
気持ちが高ぶりつつあった。

漠然とした心地よい疲労感が、
西に傾いた月明かりを纏って僕を包み込んでいた。
その場に腰をどかっと下ろすと、針葉のえもいわれぬ感触…痛い。
苛立ちを、腰を払う力にあてた。

呆然と空を見上げる。
まだ月は近くにあった。
手を伸ばせば届きそうで、届かなかった。

「あの月には、何が棲んでいるんだろう」

ひとりごちっても、聞いてくれる者はいない。
答えなんてわかっていた。
何もいやしない。

黒を隔てたむこうの世界は、ただ冷たいように思えた。
でも、こうやって垣間見る景色は心を洗い流してくれた。

…僕は、月が好きだ。

夜も好きだ。

僕の何かが癒えていくような気さえした。
うっとりと、時間を忘れるように。

が、その夢はお腹の辺りから鳴る音に終わりを告げた。
そんな面倒をしないと僕は生きていることすら許されないらしい。
理不尽だった。

適当に人間か野生動物を襲って食べようにも、辺りは獲物がいない。
とりあえずこの山を越えた先に人里があるかもしれない。
僕がさっきまでいた場所は、人っこ一人いない。
ただ深い林の中に、点々と野生動物の生息する跡が見えるだけ。

紫詠さんのいる村、この山の向こうじゃないよね…
確証は無かった。

もしかしたら、僕がかつて住んでいた村はこの山の先かもしれない。
僕がどの程度眠っていたのかは分からない。
けど、変わっているのなら様子を見てみたい気持ちにも駈られていた。

一体ここがどこなのか、依然わからずにいた。

…何にせよ、先に進もう。
進めば、きっと何かわかるはずだ。

身体を起こして、柔らかい地面を蹴った。




斜面が下りになってから、しばらくの時間が経過していた。
視界の木の色は深くなり、むっとするような蒸し暑さが戻る。
まだまだ、体力的には辛くは無かった。


急に身体が後ろに引っ張られた。
そして、腰から何かがほどけたような感覚。

不思議に思って立ち止まり、後ろを振り返る。
僕の腰の高さほどの低い木の枝に、布のような物がはためいていた。

木に近寄って、その布のようなものを手に取った。
暗くてよく見えなかったが、裏表で色の明度が逆だった。
明るい色はビロードのような手触りをしていた。
暗い色は、しっとりと固まっていた感触。

匂いを嗅ぐと、つんと鉄の匂いが鼻をついた。
…こんな物を身に着けていた覚えは無かった。

でも、僕の手は吸いつくようにその布にしがみつく。
気がつくと、僕はその仄かに鉄の匂いのする布を抱きしめていた。

強く、強く。
自分でも、何をしているのかわからなかった。
ただ、熱いような血が、つま先から背筋へせり上がってきて。

目を閉じると、涙がこぼれた。
身体がうずいていた。
溢れる涙と一緒に、口の端がだらしなく上がっていた。

僕は、一体どうしてしまったんだろう…

愛着も何もない、こんなただの布に。
こんなにも、心を溶け付かせてすがり寄る。
どうしよう。どうしよう。

ひとしきり、泣いていた。
…気持ちが落ち着くと、そっとその布を元通り腰に巻いた。

涙を袖で拭って、立ち上がった。
強い頭痛と立ちくらみで視界が揺れる。

ふたたび、元の道を進もうとしたその瞬間だった。


何か、動く気配を察知した。
それが何かはわからない。
身体は、勝手に引き寄せられるようだった。

その気配がだんだん近づいてくる。

僕は静かに、息を殺して茂みの中に隠れた。
静かな足音は、だんだん近寄ってくる。

茂みの隙間から見えた影。


月夜に照り映えた美しい銀の髪が、僕の目を釘付けにしていた。
胸が苦しい。息が深く、強く、重く。

耳鳴り。頭痛。
直後、身体からすっと力が抜けていく。

あの日。


あの時の


ああ


何も聞こえない


透明な夢を見ているようだった


ぷつんと、糸が切れていた。

茂みを飛び出して、記憶を頼りにその白い首筋を狙った。
その少女らしき影は、とっさに僕の手を硬いもので弾いた。

爪の先が、白い頬にかすった感触。
木を蹴って、元の茂みに飛び込んだ。体勢を直して再び息を潜める。


次の一撃で、仕留める。

少女は、後ろを向いていた。そこに僕がいると勘違いしていた。
荒い息、少女の肩は上下していた。

少女の脚が、一瞬がくんと落ちた。
僕は再び首筋に指先を向けて、少女に跳びかかった。

後数センチという所で少女は身体を避け、手元の刀に触れさせた。
長い刀は吹き飛んで、木に刺さっていた。
…避けられた。

頭の中は真っ白になっていた。
動機も分からず、何か大きな力に身体が引っ張られていた。

悪魔が、僕に宿っていた。

少女の足は、水を浴びたようにハの字にして小刻みに震えていた。
その引けきった腰から、既に戦意が無くなっていたことが見てとれた。

熱い熱い液が、頭に流れ込んできた。
身体全体をめぐって、視界が赤く染まっていく。

少女が逃げ出したのを見計らって、その先に回り込む。
首の辺りに手を当てると、そのまま身体ごと木に押し付けた。

どくどくと、頭痛のような閃きが頭に上がってくる。
何をしているのかわからなかった。

僕は、その少女を見た事がなかった。
同時に、その少女に何かの感情を抱いていた。
強すぎて、それが何か分からない。

何かが、僕の口を内側からこじ開けた。
「よくも……よくも僕の友達を…」

怖かった。
どす黒い声が、僕の口から、漏れた。
自分が自分でなくなっていた感覚に、畏怖を刻み込まれていた。
心臓が、身体の至るところにあった。

熱い熱い涙が、僕の目を覆っていた。
視界はぼやけていた。
少女の顔も、恐怖で引きつっていた。
少女は上を見上げて自分の記憶を探った。
そして、視線をゆっくり戻した。

「何のこ…」
少女が口を開いた瞬間自分の手が、勝手に少女の首を締め付ける。
やめて…やめて…
むなしく、僕の手はどんどん抵抗を強める。
皮膚の感触が、手を締め付けていく。

その瞬間だった。


目の前に、火花が散った。
その火花がパパパッと広がっていく。

まっくらになって、地面がなくなった。




つづけ