東方幻想明日紀 三十四話 同じ場所で時を経て

眼下の世界と言えば大げさだろう。
だが、視界の大部分は薄い緑だった。

腿から下が重い。

目を覚まして身体を起こした。
膝の上に薄緑の髪の少女がピンクの袖を流して上品に寝ていた。

たったそれだけの話だ。

桃色のワンピースではあるのだが、
脇腹から脇のやや下辺りまで、楕円状に布がなかった。
その穴からは綺麗な白っぽい肌がのぞいていた。
シンプルだけど見たこともない服だった。黒いタイツを穿いていた。

さらりとした中くらいの長さの薄緑ボブの少女は、
身じろぎせず口許一つ乱さずに、静かに静かに寝ている。

ふと少女の頭の後ろ側を見ると、
呼吸に合わせて上下している特別長い二本の赤い髪の毛束があった。

このまま悟られずに逃げるにはどうすればいいだろう。

少し考えても、答えは出てこなかった。
この少女が起きるのは時間の問題だ。
場合によってはこのまま殺されてしまうかもしれない。
だとしたら。

いっそ、首を締めたらひと思いに逝ってくれるだろうか…

一切合財の迷いなく少女の首に手を伸ばそうとしたその時だった。
膝の上で、かすかに何かが震えた。

急に顔を上げた少女と、目があった。
サファイアのような蒼い瞳に、僕の顔の真中が映っていた。
反射的に手を引っ込めた。

「よかった〜!僕より先に起きてたのは意外だけど」
屈託のない笑みで、少女は口を開いた。

「…あの、膝の上からどいてくれない?」
少女は軽快に笑うと、僕の膝から降りた。
すっと下半身から熱が引いて行った。

「…お前は誰だ」
僕が尋ねると、彼女は一瞬だけきょとんとした顔をした。
が、すぐに表情を取り繕った。
「僕はそなだよ?」

蒼い瞳に映った誰かの顔が、苛立ちに歪んでいた。
「とっつきやすいように君のお母さんに口調を似せてたんだ。
 大丈夫、僕は君の味方だから。今までどおり、僕をそなと呼んで」

腑に落ちなかった。
いきなり現れておいて、友達のそなを勝手に名乗って。
こんなにも傍若無人な振る舞いをされて。
気持ちが悪かった。

ただ、ひとつ頭に引っかかる事があった。
僕にお母さんがいると匂わせる断片的な言葉。
きっと、深追いしたところで吐かないだろう。
はったりの可能性だってある。

あまり考えたくないが、もしも彼女がそなだとしたら…
僕はずっと、今までありもしない虚像に、
心の拠り所を見出していたのだろうか。

胸の奥を貫くような風が吹き抜けた気がした。

「…ねえ、ヒカリ?」
「僕に構うな」

「そな」なんて、いなかったのだろうか。
僕の中にいた彼女は、もう僕の中にはいないのだろうか。
だとしたら、僕は…

深呼吸をして、目の前の少女を見つめる。
見れば見るほど、わからなかった。
後頭部から伸びている、揺れる長い赤い二本の毛束。
僕よりもふたまわり大きい背。
見覚えも何もなかった。

でも、そなの姿を思い出せと言われても僕は黙る事しかできない。

「もう一度尋ねる。お前は誰だ」
少女は、実に意味ありげな口の形を作った。

「私の名前はソナレノチュナト。だから『そな』と名乗ったの。
 ね…ヒカリ。私の事わかるかな」

頭の内側を指で撫でられるような感覚に襲われた。
ぴったりと、重なっていた。
ぼんやりとした姿が彼女と溶けて、一致した。

「本当に、そななのか…?」
「疑り深いなあ。何度も僕がそなだって言ってるじゃん」

目をこすって、もう一度彼女を視界の正面に捉えた。
腑に落ちていない。疑いだってある。
ただ、さっきの声だけは、口調は、紛う事なきそなだった。

少しだけ、様子を見てもいいかもしれない。

「どうして、今まで僕の中にいたんだ」
「今は…知らなくていいよ。時期が来たら教えるから」

少女は足元の小石を拾って、少し遠くのしげみに投げ込んだ。
ぼそっという無機質な音が向こう側にした。

「ところでさ、『ぴのすけ』って名前に聞き覚えはある?」
僕は黙って首を横に振った。
物の名前だろうか、人物の名前だろうか。
彼女も大概だが、変わっている。

「そっか」
済んだ瞳をして、少女は深く息を抜いた。

彼女から目を逸らすと、視界の多くを占める深い緑、緑。
その向こうに、黒くぼんやりとした奥行きのある空間が見えた。

目蓋がこじ開けられる。
身体を起こしたのと、足を踏み出したのはほぼ同時だった。
そこに向かって駆け抜けていた。

黒い空間が大きく、くっきりと見えた。
はたと足を止めた。
その奥行きを持った空間が、洞窟だとわかった。
周りには、蔦や草が繁茂していて。

そして、中は薄明るかった。

足を踏み入れて、岩肌に手を触れた。
毛脚の深い羽根のような、薄く発光する苔が僕を受け入れた。
少しだけせわしなかった気持ちが、急にしぼむ。

湿った空気が、心地のいいものだった。
どこかで嗅いだような懐かしい匂い。

この感覚は、どこから来てるんだろう。
もっと奥に歩を進めて…
足音が天上に吸い込まれて消えていった。
もう、随分古い洞窟なのだろう。

ふと視線を下ろすと、小さな白い板状のものが目に留まった。
拾い上げると、それが何かの薄い骨であることがわかった。

…獣だろうか、それとも人だろうか。
どちらであっても何ら不思議はないが、不思議と心が静まった。

それとは対照的に、頭が熱くなるようだった。
心には何も湧き上がる物は無いのに、
押し出されたように涙が出てきた。

まるで、わけがわからなかった。

「きっと、君は疲れてるんだよ」
ふとした拍子に、僕の横に気配を感じた。
抱きしめられるような、諭されるような表情。

「…そな?」
「この洞窟、危険な匂いがするから早く出よう。気が狂っちゃうよ」

僕が小さくうなずくと、体の重心が傾けられた。
少女の手に引かれるままに、僕はその洞窟から出た。
木漏れ日が反響する、
木のにおいが籠った眩しい世界にまた戻ってきたのだ。

「ここは、どこだろう」

木々の間の空を見上げた。
突き抜けるような綺麗な透明な色が、世界を包んでいる。
頭に浮かんできた景色は、ぼんやりとしていた。

だめだ。
何も思い出せない。


「ヒカリ。この先、時々僕が君の傍に現れて色々な指示をする。
 基本的にそれに従ってもらうね。それまでは、普通に過ごしてて」

横から投げられた突然の提案に、僕は目を白黒させた。
「…なぜ?」
「その時が来たら教えるから。だから今は」
「さっきからその一点張りだ!
 どうして名前以外の何もかも僕に教えないんだ…」

とても、他人とは思えない。
そなと言われても、身体で分かってても頭が追い付かない。
混乱していた。

「心配しなくていいよ。きっと、その機会はすぐ来るから。
 しばらくの間は、好きなように生きてて大丈夫だよ」

どこか、遠くに行ってしまったように感じていた。
こんなにも、近くにいるのに。

「…もういい」





深い木々を抜けた先に、小高い丘があった。
そこに着くころには、すっかり日が暮れて紺色が被っていた。

「好きなように生きていく…か」

考えれば考えるほど、わからなかった。
僕はどうすればいい。
これから、何をして生きていけばいい。

…あの少女は、僕の傍に現れては指示をすると言っていた。
正直、あまり乗り気ではない。

彼女がそなであったとしても、一方的に命令される筋合いなんてない。
青い疲れた吐息が、済んだ黒に吸い込まれた。

下の世界は、見る限り全て木だった。
ここには、人が済んでいないらしい。
遠く、遠くの山にぼんやりとした灯りが見えた。

そこに行けば、きっと誰かがいる。
僕は腰を上げて地面を蹴って、丘を飛び降りた。


つづけ