東方幻想明日紀 三十三話 とある初夏、夜の林にて

草を踏み分ける静かな足取りが、湿気の多い夜の林に降りる。
一人の少女が迷いなく歩を踏みしめる度に、
緑のスカートの裾が小さく揺れた。

白い靴下の下方の靴は、小石を蹴り上げる。
背負った二本の大小の刀は月明かりに黒く映えていた。

気温の高い林に似つかわしくない大きな雪のような人魂は、
獣の子のように少女の後を付いていく。

少女はふと何かを感じたように立ち止ると一瞬、呼吸を止めた。
「何か、いるようね」
少女は腰を落として、両の刀の鍔に細い親指を添えた。
木々は、静かだった。

刹那の間を置かずに、少女の背後の草叢がはじけた。

少女は寸での所でその正体不明の殺気を短刀で弾く。
少女の反対側の草叢に、ザンと音がする。

辺りは、また静かな元の林に戻っていった。

少女の左頬には、一筋の赤い横線が浮かんでいた。
ぷつぷつと浮かぶ冷や汗が、少女の恐怖を如実に物語っていた。

最早、喋る余裕はなかった。
明確な殺意が、確かに自分に向けられている。
少女は血も拭かずに、さらに腰を落として反対側の茂みを睨む。

小さな音と一緒だった。
少女は、反射的に左手の柄を手放した。

直後刀は綺麗な直線を描き、
鈍い音と一緒に少女の後ろの木に深々と刺さった。
少女の白い膝は、小刻みに震えて内側に曲がりこんでいた。

敵らしき気配は前方から来ていた。
見えていた訳ではなく、刀が後ろに飛んでいた事から察した。
前から音が聞こえ、後ろの茂みに入りこむ。
姿は、速すぎてわからない。

ただ、先ほどの襲撃も、前方からだったのだ。

既に彼女の頭には戦うという選択肢が消えつつあった。
反応の上限をはるか超え、反射速度に極めて近い敵の動き。

幸い彼女は反射で動ける幅が常軌を逸して広かったが、
到底戦いに堪えるには及ばないものであった。

静けさを取り戻した木々。
木の幹の中心に突き立った楼観剣。

少女の荒い息だけが、木々に反響していた。
深紺の瞳孔は、縮みきっていた。

戦闘が出来ないとすれば、同時に逃げるのも不可能だった。
だが、考えている時間すら彼女には惜しかった。

最後に音がした茂みの方向に背を向けて、少女は走り出した。



徒労虚しく途轍もない速さで少女の白い首に小さな手が伸びた。
そのまま少女は木の幹に身体を叩きつけられた。

少女は目を見張った。
首に手を伸ばしているのは、自分よりも幼い、
可愛らしい兎の白い帽子を被った暗い色の髪の少年だった。

その表情は暗くてよく見えなかったが、
首に伝わってくる手の震えで鬼気迫っているものと少女は察した。
「よくも……よくも僕の友達を…」

呻くような、わななくような震えた声。
およそ普段聴くこともない、おぞましい声だった。
少女は一瞬上を見上げた。
そしてすぐに視線を少年に戻した。

「何のこっ…あっ…」

少女が喋ろうとすると首にかかった手に、力が入った。
短い低い声が少女の口から出たのも、同時だった。
白い半透明の光が、せわしなく周囲を飛び交っていた。

徐々に強くなる締め付けに、少女の目には諦めの涙が溜まりだした。
突如、少年の手が緩んだ。
糸が切れたように、少年は少女に寄りかかった。

少女が最後の力を振り絞って少年の身体を振り払うと、
重い音と一緒に少年は湿った草の上に沈んだ。

少女は、腕で額をぬぐった。
「…こうなるって…わ、わかってたんですか…」

少女は首を押さえながら木に力なく寄りかかり、
どこか遠くに、すがるように話しかける。

「まあ落ち着くまで座りなさい、妖夢
「は…い…」
おかっぱの少女の背後に、背の高い明るい髪の少女が立っていた。
その柔らかい笑みに、妖夢と呼ばれた少女は安堵の表情を浮かべた。



「…それにしても、随分と熱心だったわね」
「冗談じゃないですよあんなケダモノ…見てくださいよ、これ」

少女がぶるっと身震いをして、自分の首筋を指さした。

「あら、よく喋るのね」
「そうですよ喋りますよ。幽々子様、
 こいつの死体を切り刻んでもいいですか」
「雄弁は銀ね」

少女は不愉快そうに、口をヘの字に結んだ。
遠くを見て深呼吸すると、少女は少し表情を緩めた。
「ところで妖夢
「なんですか」

「また、辻斬りしたの?」
「殺すどころか致命傷にした事なんてほとんどないですよ…多分…」
少女は想いを巡らすと、少しだけ肩を落とした。
「…それはさておき、その妖怪は死んだのですか?」
「あら、私が無慈悲に人を殺す人に見える?」
少女は、無言でおかっぱ頭を下げた。
「鬱だわ、死のうかしら」
「もう死んでるでしょうが…」
おかっぱの少女は腰を上げると、倒れている少年の元へ歩み寄った。
穴を空けるように、兎の帽子を見つめていた。
「…南無」

「死んでないわよ、その子」
少女は血相を変えて後ずさった。
「ははは早く言ってくださいよ!怒りますよ!」
「死体を前に怯える妖夢、か〜わいい」
少女は頭を抱えて、ついでに頭上の黒いリボンを直す。
その表情は疲れ切っていた。
「…殺せなかったって言う方が正しいのよね」
「え?」

「なんでもないわ。白玉楼に帰って白玉善哉でも食べましょ」
背の高い少女は桃色の扇子を広げて、口許を隠した。

「獣妖怪の異常増殖の件についてはお忘れになったのですか」
「戦略的撤退…ってやつかしら」

「はあ」

二人の少女は、夜の林から姿を消した。



後には、涙跡の頬に残る少年が横たわっているばかりだった。

つづけ