東方幻想明日紀 三十二話 ヒカリと出会えてよかった

だんだんと自分の息が荒くなっていく。
比例して、憤りも募ってきた。

ため息をついても、吐息は絶え間がない。
まだ冷え冷えとする湿気を含んだ空気は、不安を余計に駆り立てた。
今日も、見つからなかった。
地面を殴ったら、深くへこんだ。

放っておけるものなら、放っておいた。それができなかった。
ひょっとしたら彼女のためじゃないかもしれない。
恐怖に駆り立てられる自分を抑えるために捜しているのかもしれない。

木が深いところは全部捜した。
彼女の面影は存在しなかった。
一時的な神隠しにでもあっているのか、それすら疑った。

諦めきれないまま、月は沈んでいく。
ふと向こうの村を見るとさっきまで、
ぼうっとした明かりが点々と灯されていたのに、それが消えていた。

空費していた。
時間で倦怠感を買っていた。

…あの思い出の川で顔を洗おう。
もう、それで帰ろう。
水音を頼りに歩みを進めた。

もう真っ暗だったけれど、不思議と灯りがなくても動ける。
真っ暗だけど、道がわかっていた。
水音が近くなっていく。

…その水音は、いつもと違っていた。
音だ。

…ぴのすけだ!

堪りかねて、地面を強く蹴った。
その水場まで直線で走り抜けた。
木の葉っぱも払わずに、根拠のないその音の主に近寄ろうとした。

全部の可能性をかなぐり捨てて、
僕はその音の主をぴのすけだと信じて疑わなかった。
たとえ、逃げられたとしても。


逃げられた。なぜだ…

根拠はないけど確かにあの音はぴのすけだったはずだ…

小さく息を整えて、勘のままに走り出した。
すぐそばに、さっきの気配がする。

真っ暗の中の感覚の世界だった。
僕の知識で知るどの感覚でもない。
強いて言うのなら、第六感だ。
そこは崖らしかった。

「ぴのすけ」

僕が暗闇に言葉を置くと、気配は止まった。

「こないで」

か細くて、湿った声だった。
耳を疑ったが、記憶を疑う事はできない。

「何しているんだ」
彼女の勝手だとはわかっている。
僕が干渉する余地はない。
身勝手な事だった。
ここまで彼女の領域に踏み込んでおいて、尚も。

考えたくもないがこんな僕に嫌気が差したのかもしれない。
僕ならば、嫌だ。
どのくらいの時間、無音無光の世界があっただろうか。
観念して身を引こうとしたときだった。

普段するはずもない匂いが、漂ってきた。
彼女が近寄ってきたらしい。

血のにおいと、いっしょに。

重みと、体温と、匂い。
感情。
全部が、僕に抱きついてきた。

察した。

「私…」
「大丈夫。大丈夫…大丈夫」

全然大丈夫じゃなかった。
でも、彼女を落ち着かせなければならなかった。
洗脳みたいに、大丈夫を連呼した。
丸まった背中を、子供をあやすようにトン、トンと叩いた。

僕自身もパニックになっていた。
不思議と落ち着いていたが、頭の整理がつかない。
尋ねたいことは山ほどあった。

でも彼女に尋ねてもどうにもならない。
彼女自身にもわかるまい。
感情でこんな事をするわけがないのだから。
一世紀も一緒にいたのだ、わからないわけがない。
何がぴのすけをここまで駆り立てたのか。

一つだけ、確認しておきたい事があった。
彼女が落ち着いてきたのを確認して、
高鳴る胸を押さえて息を吸った。

「…ここ最近、そうなんだね」
言葉を選んだ。
口調を選んだ。

相手に疑問形で尋ねるのは、恐怖を与えるって誰かが教えてくれた。

少女は何も言わずに、鉄臭い頭を僕の胸にうずめた。
その頭をゆっくり撫でると、固まったべたべたが引っかかった。


大変な事になったな…


川でしっかりと血を落とした。
彼女の服は不思議と血の染みが残らない服なのは幸いと言うべきか。
服が先か、素性が先か。

宿に戻ると何事もなかったように静かだった。
どうやら呼び出されなかったらしい。
西の空がうっすらと色づき始めていた。

僕たちが人間じゃなくてよかった。
少々眠らなくても、身体にすぐにはこたえない。
程なくして、耳に悪い音が部屋に鳴り響く。
二人で顔を見合わせて、笑った。

僕もそうなのかもしれないが、彼女の顔には疲れが見て取れた。

彼女は布団運びと団体客の世話。
僕は掃除だわーいわーいあの婆…

雑巾両手に腰を落として走り回る必殺掃除人。
この宿はどうやら結構賑わってるようだった。綺麗だし広いし。

洋風の椅子に座って紅茶を飲んでいる少女もとい老婆を見つけた。
優雅に身の丈ほどの長いブロンドの髪をさらりと流していた。
青い瞳は僕の方に向くと、嫌そうにつぶれた。
「うえっ、アンタかい」
「…ええ、僕ですけど」

脚を組んで頬杖をつきながら紅茶を飲むのは様になっていた。
ぴのすけに勝るとも劣らない綺麗な白い腿は、
タイトな黒い細いガーターベルトで強調されていた。
ぴのすけにこの恰好、似合うかも…

「何じろじろ見てんのよ。解雇するわよ」
「何にも見てませんからおねがいやめて」
恐ろしい婆様だ。
魔法使いは怖い種族だと思った。

「…まあいいよ。
 アンタさー、少し遠くの…ちょうど前いたとこか。
 そこで人が突然攫われる事案が起こっているのね。
 どうせアンタ攫ってもいい事ないけど一応色々気をつけといて。
 低賃金の働き手がいないとウチも大変だから」
耳が痛かった。
間違いは無かった。
…とりあえず、軽く濁しておこう。
「心配してくれてるんですか?」
そう言うと、少女は懐から何かの紙を取り出した。
さらさらとペンをその紙に走らせる。

そして、その紙をピッとこちらに弾いて寄こした。
「ウッ」
目に鋭い痛みが走る。どうやら目を狙ったらしい。
涙目でそれを取り、ショボショボした右目をこすった。

ぼんやりとした中に、流れるような読みにくい四文字。
解雇通知の四文字。読みにくい。

「またまたー」
僕と少女は、顔を見合わせて笑った。



深夜、晩飯を食べ終えて個室で荷物をまとめていると、
腕まくりをしたぴのすけが戻ってきた。
「ただいま〜あれ、何してるの」
「うん、解雇された」
「あ〜…え?」
ぴのすけの目が点になった。

「えっ…」
「うん。クビ」
僕もびっくりした、まさか本当に解雇されるなんて…
冗談かと思って笑ったんだけど大声で出てけと怒鳴られた。
何だあいつ、情緒不安定か。
今まで見た中で一番ひどいノリ突っ込みだった。
「何したのお前…」

ここでセクハラですとでも言おうものなら、
僕はこの宿どころかこの世から出ていく事になるだろう。
あの婆…じゃなくて少女は不快に感じたんだろう。
僕も不愉快極まりないが。
というか直前に安い働き手がどうのと言っていただろ…
何、ヒステリー?

…ただ、この上なくいい機会だった。

「ぴのすけ、大事な話をするよ」
「解雇は大事じゃないの…?」
「ああ、至極どうでもいい」

冗談みたいだが、僕は真剣だ。
ぴのすけもそれを察して、静かになった。

本題を切り出す前に、ぴのすけに確認を取る。
「…この村に、未練はある?」
ぴのすけは静かに首を横に振った。
予想通りではあった。
僕は無いと言えば嘘になる。
だけど、彼女をこの村に居座らせるなんて無理だ。

「…僕と一緒に、できるだけ遠くの村に逃げよう」

彼女が殺人鬼として知れ回るのももう時間の問題だった。
間に合ってよかった。

あと一週間、発見が遅れていたら…
想像もしたくない、最悪の事態になっていただろう。

結局、僕に人との付き合い方を考える時間は与えられなかった。
もしかしたら、僕は人なんかと関わらずに、
ぴのすけとずっと共にいる方がいいのかもしれない。
僕にとっても、ぴのすけにとっても。

僕の中で、結論が出かかっていた。





夜露に足元の草が濡れていた。
薄い薄い朔夜の翌日の月明かりは、村から離れるたびに濃くなる。
僕にとって、満月と大差なかった。
新月とそれ以外では違っていた。

手を繋いでぴのすけと逃避行。
いや、夜逃げだろう。

…出来るだけ遠く、遠くに。
僕たちを誰も知らない新天地。
紫詠さんのいる村は知っているが行くのは駄目だ。
彼らを無意識のうちにぴのすけが襲ってしまうかもしれない。

あの林まで差し掛かれば、後は通り抜けるだけ。
ぴのすけと一緒なら何も怖くない。

二つの小さな影がリズミカルに跳ねながら、土手の下に伸びていた。
二つの手は、繋がっていた。

「…ヒカリ」
「なに、ぴのすけ」

月明かりの二つの影は、ぴたりと止まった。

「私、これからもずっとヒカリの傍にいていいの」
「何を今さら」
軽く笑ってみせた。
少女の表情は何も変わらなかった。

「私、ヒカリを食べちゃうかもしれない。それが怖い」

彼女のしてきた事は許されない事だった。
改心したところでそれを償った訳じゃない。
たとえ、皆からそれを忘れられても。

「それなら、それでいいよ」
彼女が、もしも僕を食べたとしたら。
今まで大切な人を失ってきた人の気持ちがわかるに違いない。

彼女が、大きく成長できるかもしれない。
皆にあって、彼女にないもの。
そういった感情だった。
そのためだったら、僕は喜んで身体をささげる。

きっと、彼女が僕の言った言葉を理解できるのはずっと先。
いつか僕がぴのすけに食べられた時。

「…行こう、ぴのすけ」

少女は頷くと、引っ張られるように走り出した。
もう少しで、あの林に差し掛かる。
林道の入り口が徐々に大きくなっていく。

林道の奥に、人影が見えたような気がした。
それとほぼ同時だった。
手が後ろに思い切り引っ張られた。
反動で振り向いた。
膝ががくんと曲がって、地べたに正座していたぴのすけがいた。
上体が傾いて、両手も出さずに彼女はその場に倒れ込んだ。

彼女は何かを言おうとしたが、思わず自分の口を塞いだ。
ぴのすけの手からは、明度の低い液が溢れていた。
「ぴのすけ!?」

駆け寄って肩を抱くと、彼女は震えながら目を白黒させていた。
口から泉のようにこんこんと溢れだす液を見ていた。
どうする事も出来なかった。
何が起こっているのかを理解することもままならなかった。
頭のてっぺんから、熱がどんどん抜けていく。

水たまりが、澄み渡った黒の下に広がっていった。
目の前の状況に、ただ狼狽していた。

ぴのすけが喋ろうとすると、口を塞いだ。
…まずい、やっぱり口を塞ぐのは無理だ。

手を離すと、ぴのすけは苦しそうに水咳を切っていた。
幾分か血が収まると、彼女は一切の抵抗をやめた。
力が抜けたのか、ずんと僕の腕にかかる重さが増えた。

ふと影がさっとぴのすけの頭にかかった。
見上げて影の向こうを見る。
そこには低背、袴を着た幼いおかっぱ髪の人影があった。
背負うようにした身の丈ほどの長い刀。

「済まぬ 親族の仇だ」

その言葉と同時に、その人影は消えていた。
美しい薄い月光に照り映えた銀糸の髪は、頭の奥に溶かしこまれた。

「そっか…」
蚊の鳴くような小さい高い声で、我に返った。
下を向くと穏やかな表情の口。
その端からは湧水のように少量の血が漏れていた。
身体の外の傷は一つも見てとれなかった。
内側から斬られたのだと悟った。

口を押さえようとしたら、僕の腕を白い手が弱々しく触れた。
思わず手を引っ込めた。
彼女の口まわりの暗い色が痛々しくて、胸が焼け焦げそうだった。

「みんな、こんな気持ちだったんだ…」

途切れ途切れの吐息と一緒に、声が漏れていた。
「そういう事だったんだね…ヒカリ…」

最後に唇を優しく動かして、もう音は聞こえなかった。
言葉は、感じ取れた。
黒い瞳は、小刻みに揺れていた。
今まで一度も言っていない、言いたい事を言えなかった。
幾度となく思った。十回や百回なんかじゃない。

唇は鉄の味がして、冷たくなりかけていた。
身体を密着させても自分の千切れそうな早い鼓動で、
何も、何も聞こえなかった。

手探りでぼやけた柔らかな白い頬を触ると、濡れていた。

力が抜けたように薄くて重い目蓋が落ちた。
一滴が、手の甲に溶けた。




彼女の乾いた頬を引っ張った。



硬くなった頬は伸びなかった。



いつしか視界が真っ白になって、上がって行った。
力が抜けていく…





焦げ臭い匂いが、鼻をついた。
空が、赤かった。

右も左も上も下もわからず、明るい林道をひたすら駆け抜けていた。
どうしてこうなっているのか皆目見当がつかなかった。
何の思慮もなく後ろを振り返る。

村があった場所は業火に包まれていた。
呆然と立ち尽くした。

何が起こっているのか、理解できなかった。
知っている建物が夜の空を巻き上げられていくのを、
ただただ見つめるばかりだった。


ずるずると大きな力に引っ張られて、僕は川に飛び込んでいた。
大量の水が口の中に流れ込んでくると、思い出した。

僕がここで溺れれば、ぴのすけが「また」救い出してくれる…
あの、白くて、柔らかい手が…

思考が、意識が、途切れ途切れになってきた。
ゆらゆらと揺れる真っ暗な世界に、光が混じってきた。



柔らかくて、優しい手が僕の手に添えられた。



そな…?




そななんだよね。
ありがとう。ありがとう。

やっぱり…君は絶対に僕を見捨てないんだね。

僕は笑顔で、ゆっくりと目を閉じた。


君だけが、僕なんかを…
僕はその手にぜんぶを委ねて、眠る事にした。




そう…まるで、あの時のように









東方幻想明日紀 第一章 終


つづけ