東方幻想今日紀 最終話 少年が見た最後の景色

誰のために、こんなに喉切らして走っているのか。
喉掻き裂き血を吐くまで、叫び続けたのだろうか。

自分が、自分で抑えきれそうになかった。


ぜんぶぜんぶ、自分が弱いからなんだ。
自分さえ強かったら、こんなことにはならなかったのに。

こんなに、だらしない涙だって、流さずにすんだのに。


それなのに俺は獣になって、信愛する人に刃を向ける。
もう、何が間違っているかもわからなかったけれど・・・


既に意思じゃ、自分の体を止める事ができなかった。


広大な砂地にたたずむ影が、どんどん目の前に迫って。
とうとう頭は冷えなかった。


「・・・!?」

シャクナゲさんよけてっ!」

その人影が振り向く時には、
大上段に構えた刀を、斜め下に振りおろしていたのだから。

全てがスローモーションになっても、彼は俺の言う事を聞かなかった。


手ごたえなんて普段はなかったのに、今日は違った。
深々と、自分が厚みのあるものを切り裂いているような感覚がそこにあった。


突如、自分の腕が、止まった。


「!?」

ふと左腕を見ると、自分より一回り大きい手に掴まれていた。
刀の切っ先の位置は、シャクナゲさんのスーツの中だった。

「・・・どうしましたか?」


シャクナゲさんがいつものように、淡く、柔らかく微笑んだ。
思考が固まって、またほどけた。

「よかった・・・。」

降って湧いた砂漠の水たまりのように、
幸せの感情がふつふつと湧き上がってくる。

・・・どうして、こんなに俺は安堵しているんだろう。


蚊のような力で刀を握った手に、ゆるんだ熱涙が落ちる。

シャクナゲさんまでいなくなったら、俺は・・・」

『何を勘違いしておるんじゃ。』

刀を手放そうとした瞬間に、冷たい声が頭を締め付ける。
その声は、背筋まで凍らした。

『目の前の者は、既に恩人なぞではない。
 お主の大切な者二人を奪っていった、悪夢そのものじゃ。』

「違う・・・違うっ・・・!!」

『その身勝手さが、その中途半端な思い込みが・・・
 お主をここまで追い込んだのがまだわからんのか!?』
 

ピシャリと張った声が、頭の中で落雷する。

震える手が自分ではなく、
誰かに操られているのかと錯覚してしまうほどだった。


『今一度、彼我の顔を思い浮かべるのじゃ。
 あの一途な、花を、目の前の奴は踏みにじったのじゃ。
 執拗に、執拗に、その形が無くなるまで。』

涙が、ひたりと止まった。

『お主助けに来た者は、何のせいで殺された?
 あの白い妹の帽子を、血で固めたのは誰なんじゃ?』


諭すようなその口調が、俺の柄を握る腕を動かした。


『さあ、お主は、何をすべきじゃろうか。
 ・・・もう、わかるであろう。』


その通る声が、頭の中でリフレインした。
反響の都度、冷えていく。


・・・迷わない。

俺はシャクナゲさんの腕をふりほどいて、
その刀をシャクナゲさんの胴から引き抜く。


シャクナゲさんが、不死身でよかった。
そんな事を、心の底から思っていた。

だから、俺は安堵していたんだ。


本当は心の底から、その状況を憎むべきだったのかも知れない。


復讐のために、感情を捨てよう。
目の前の端正な顔立ちの微笑みは、俺がこれから擦り取る。


青い刀が、散りになって、端から消えていく。


頭の後ろが重くなり、一本に編んだ長い髪が現れる。
深海の水のような、深い澄んだ水の色の腕が、右方から伸びていた。



『・・・あと、もう少しじゃな・・・。』

そんな言葉が小さく頭の隅で聞こえたが、どうでもよかった。
あの時蛾の化け物からみんなを守りたかった時のように。

俺は「もうひとつの姿」になった。


今の自分は、もう弱くなんかない。



「リアさっ・・・!?」


右腕が、黒いスーツの胴を貫く。
すぐに引き抜いて、脳天めがけて手刀を振り下ろす。

青年はすぐに身を引いて、かわした。

次の一撃は、腕を斬り飛ばした。


が、一瞬後にはその腕は何事もなかったように、
服ごと元通りになっていた。


「・・・もう、いいでしょう。」
「?」

青年は、素早く眼鏡を外して、どこか遠くへ投げた。
そして、俺の肩を掴んで、その場に押し倒した。


まずい・・・殺される!


無駄だとわかっていたが、腕で防御を組んで、目を硬く閉じた。



「・・・?」


しかし微秒経っても半秒経っても、数秒経っても。
想定された攻撃は来なかった。





おそるおそる目を開いた、その時視界に映ったものは。
目の前にはその場に似つかわしくない、あの姿があった。


「えっ・・・?」

頭蓋骨の容器に、甘い水が注がれるように。
その姿が、記憶が、何もかもが。

一緒に見た景色が、電車の窓のように。
途轍もない速さで、頭を駆け巡っていく。


「ナズー・・・リン?」

最初から、最初から。
今に至るまでの全部が、水に墨滴を溶かしこむように。

自分の口から洩れた言葉が、自分を酔わせていた。
目の前の景色が、自分を酔わせていた。


「・・・やっと思い出してくれたんだな。
 ふふっ、まったく君という奴は・・・鈍臭いなあ。」


この柔らかくて幸せを含んだ笑顔に、
持っていた全部の理性がこそぎ取られた。

その顔立ちと、匂いと雰囲気は、ひとかけの疑念すら吹き飛ばした。
息がかかる距離に、目の前に彼女の顔があって。

どうしてあなたが今、ここにいるのか。
そんな出かかっていた疑問も、吹き飛んでいた。

そんなこと、くだらない事なのだから。


「ごめんね、ごめんね・・・。
 これで・・・やっとだね。本当に、やっと・・・。」


どうしよう、嬉しい・・・。

鼠色絵具を、キャンバスに絞りだして、一面に塗って。

頭の中が、色斑のない一色だったから。


『リア、そやつはお主の知るそれではない!
 ・・・おい、聞いておるのか!?リア!?
 目の前の奴は、シャクナゲじゃっ!!』

自分の中のこらえきれない何かが、俺の耳をふさいでいた。
その焦る声を、拒んでいた。

高いところから、落ちる水のように、それは自然に。
温かい布団から、出たくなかった。

どこかで分かっていたのかもしれないけれど、そんな感情は捨てていた。

目の前の、幸せに抗えずにいた。

虚像か現実か、それすらの判断がつかないまま、それを受け入れていた。
楽な方に、幸せな方に、その場限りの気持ちなんかじゃなくて。

言わば幸せの暴力にさらされていた。
それは、頭蓋骨を破壊して、頭をとろとろに溶かす劇薬。

「・・・リア、今さらで申し訳ないんだが、ひとついいかい?」

熱い涙を流しながら、こくこくと頷く。
それだけしかできなかった。

表情は、凝り固まっていた。
彼女の両の手が、俺の二の腕を柔らかく押さえて。
彼女の顔にかかる影が、自分の溢れ込み上がるものを昂ぶらせていた。

『駄目じゃっ・・・駄目じゃ!!早く奴をどけるのじゃ!
 のう!ふざけるのも大概にしないとっ・・・!!』

「・・・その、君と一緒にいると、楽しいんだ。
 これからも、ずっと一緒にいてほしい。・・・あとは、わかるな?」

柔らかく、かみしめるように、
一本ずつ一本ずつ紡ぎ出したその言葉が、もう駄目だった。

駄目だった。
くたくたにほつれた自我が、溶けだしている。

ナズーリンっ・・・俺も、俺も凄く幸せで・・・
 こういうとき、どう言っていいかわからなくて・・・。」

「はは、君は困った奴だなあ・・・。」

常に上頬を通っていた。耳がくすぐったかった。


ふとナズーリンが、目を閉じた。
静かに、穏やかに。

一瞬止まったかと思った、心臓が急に狂いだした。
刻んでいた時計が破裂して、原型をとどめていなかった。

彼我の距離は、拳二つももない。
限りなく離れていたその距離は、ほんの少し。

頭が真っ白になる。
喉が、ぐくっと音をたてた。

・・・よし。


あと、拳一つ分・・・


・・・その時だった。


『っ、この馬鹿者おおっ!!』


頭を突き破るような大声が頭に響いたかと思うと、
全身の力が一気に抜けるような感覚に襲われた。

視界が、ぱっと明るくなって、青い空が見えた。


「・・・!?」

脱力した身体を起こすと、もう目の前に彼女の姿はなかった。
淡い夢のように、それは消えてしまった。

もう眼鏡をかけていない黒いスーツのシャクナゲさんと。
一人の少女の後ろ姿。

身体に直接張ったような、真っ黒に近いスーツ。
両の腕は、深海のような色を放つ透明な青藍。

右手には薄く、赤い光球があった。

跳ねた深い青の短めの髪。
似ていないはずなのに、鏡を見ているような錯覚に陥った。

真昼間に見る夢のように、その光景は異様なものだった。
記憶が鮮明なのに、揺らぐように曖昧でいて。

彼女の姿は、自分の一部でありながら、俺の知る何かではなかった。

ぼんやりした頭が、時々視界を霞ませていた。

「どうして、ここまでまどろっこしい事をしたんですか?
 結局、僕に勝てるはずがないじゃないですか。」

腕を組んだシャクナゲさんが、初めてうすら笑いを浮かべた。

「なるほど・・・まあ、『使命』だけは無事に果たせそうじゃ。
 お主に、最大限の礼を言おう。そして・・・リア。」

少女は、こちらに向き直った。


「深水・・・なの?」

少女は、澄んだ刀と同じ色の瞳をしていた。
小さくうなずくと、そのまま視線を落としていた。


「・・・お主との約束、果たせなかった・・・。」


彼女が言っている言葉の真意が、つかめなかった。

少女はうつむいたまま、右手を高々に挙げる。

赤い光の糸が途轍もない速さで少女を含めた、広い範囲を覆っていく。
糸が一瞬で巻き取られ、光の赤い大きなドームが目の前に出来た。

そして・・・一瞬でそれは消えた。


ただ、頭に焼きついた光景があった。

光の糸がドームを作り終える直前に、
隙間から見える彼女の顎より、一滴の光が離れるのを見た。





「なるほど、無で有の空間を切り取ったんですね・・・
 ですが、それでどうやって僕を殺すつもりなんですか?」

青年の表情からは、余裕の色は消えていた。
青年は既に悟っていて、返答などいらなかったのだから。

「・・・お主が不死身であろうとなかろうと、関係のない事じゃ。
 この空間ごと、なかった事にすればよいのじゃから。
 どうじゃ?お主が求めた力が、お主を滅ぼすという気分は。」

少女は複雑な、人間らしい表情をしていた。
でも、彼女は不完全だった。



「やれやれ・・・全部、餌だったんですね。」

青年は、深々と嘆息する。
手を肩の辺りまで上げて、深い息と一緒に下ろしてみせた。


「儂から、ひとつお主に、簡単な頼みがあるのじゃ。」
「・・・いいですよ。」

少女の胸の中には、頑なな願いがあった。

少年が妖怪化していたのは、深水光が肉体を得るためだった。
人間としての少年、妖怪としての少女。

それは、死に触れることで加速する。
即ち有が無に変わる事で、無に返す力がついていく。

死地に飛び込むことで、それはさらに加速していく。


二人の目的は、少年を妖怪化させることで一致していたのだ。

だが、危険もはらんでいた。


「・・・皆のリアに関する記憶を、全て消してくれぬだろうか。」

万に一つが起こった時のために、考えていた心痛の願いであった。
妖怪化が不完全なまま、分離せざるを得ない状況。


それは、お互いの存在そのものが不安定になるという事を示していた。


青年は、ふっと笑った。


「そう言うと思って、もう既に消し終わっています。
 あなた方に詫びの言葉はありません。
 ですが、貴重な皮肉を見させていただきました。感謝します。」

「・・・そうか。やはりお主は外道じゃな。」


青年が目を閉じると、少女は大きく右手を挙げた。









あれからどれほどの時間が経ったのだろうか。

身体の機能全てを失ったように、だるい。
この広いグラウンドでただ一人、力なく座り込んでいた。

吹く風も、もうほとんど感じなかった。
時々、視界がぼんやりとして、また戻る。

あの時深水が、俺の身体から出てからの出来事だった。
何も感情が起こらないのだ。


薄れゆく意識の中でぼんやりと、考えた事があった。

深水とした約束のことだった。



なんだったんだろう・・・わかんないや。

だんだん空と地面の区別がつかない時間が長くなってきた。
感覚的にわかる事はひとつだけだった。


いままでと、違っている。


小さくため息をつこうと上がった肩に、かすかな感触があった。

「・・・こんなところにいたのか。」
低い、呆れたようなその声。

なんだか、懐かしい気持ちになってしまった。
さっき会ったばかりなのに。

俺は、力なく笑った。自分を責めることも嘲ることもできなかった。

ナズーリン。」

俺がそれだけ呟くと、彼女は目を丸くして俺の両肩を押さえた。
「リアっ、今・・・私の名前を・・・」



感謝の言葉は、もう言い表せなかった。

というより、言葉を発することができ












「目が覚めましたか、ナズーリン。」
「・・・ご主人。」

晴れた昼下がりの、命蓮寺の縁側に、二人の少女がいた。
ナズーリンはぼんやりとした目を擦って、起き上がる。


「ずっと、あなたは寝ていたんですよ?」

寅丸星は、案じた様子でナズーリンに問いかける。


「・・・そうか。すまなかったな。
 ところで、リアはまだ寝ているのかい?」


少女が首をかしげると、頭の赤い花飾りが揺れた。


「・・・リアって、誰ですか?」


ナズーリンの表情が、固まった。

少女の目は、至って真剣だった。
時が経つにつれ、空気が焦燥していくのが明らかになる。



ナズーリンは、聞き返す事が出来なかった。



数刻後、命蓮寺を飛び出した一つの影があった。



存在しない人を、捜しに。










東方幻想今日紀 終