東方幻想今日紀 百七十話 感情の咆哮音痴

上がる息がどんどん激しくなっていって、頭もぐらぐらしてくる。
痺れたように感覚を失くした左腕は、刀の柄を手放した。

大好きで、大切な人を殺害したけだものを、殺せなかった罪悪感。
昔からずっと憧れていた恩人に斬りかかった罪悪感。

目の前にいるのは一人なのに、まるで二つの影があるように見えた。
板挟みの締め付けるような圧力に、もう耐えられなかった。


シャクナゲさん・・・ごめんなさい。」

とっさに、心にもない事が口から出てくる。
でも、それは同時に本心でもあった。


腕が震えて、仕方がない。
唇まで震えて、何もかもが狂いだしてきた。

「何がですか?」

涼しい顔で言う彼は、俺とは対照的だった。
真夏の炎天下でもないのに、顔は汗まみれだった。


「あなたは、何も悪くないんです!何も悪くないんです!!
 悪いのは俺なんです、あなた以外なんですっ・・・!!
 これは夢なんですよ・・・夢なんですよ。夢だッ!!」

こんな悪夢、早く覚めてしまえ。
もういいだろ・・・こんなのもうたくさんなんだよ。

こんなの、こんなのあり得ないだろ・・・
あり得ない、あり得ない。あり得ない・・・

「錯乱してますね・・・かわいそうに。
 ほら、もう大丈夫ですよ。」

「っ!?」

シャクナゲさんが、ぎゅっと俺を抱きしめた。

抵抗なんて、するはずがなかった。
懐かしくって・・・温かくて。


シャクナゲさんが、優しく、俺の背中をトン、トンと叩く。
そのたびに、渦巻いていた、どす黒い感情が消えていくのがわかった。

目の前にいる、けだものが姿を消したのだ。


「落ち着きましたか?」

「・・・うん。」

どうしよう・・・今度は涙が止まらない。
もう、どうしていいかわかんないや・・・。


シャクナゲさん・・・
 俺、もうどうしていいかわかんないです・・・」

「そうですね・・・僕を殺せばいいんじゃないですか?」

シャクナゲさんの胸に、俺の涙声が響く。


「そんな事できません。シャクナゲさんまでいなくなったら、
 俺は完全に壊れてしまいます・・・」

シャクナゲさんから、俺は重い頭を離した。


情緒、まだあったんだ。
もう誰も失いたくない。

感情が吸い取られているだなんて、嘘だったんだ。
きっと、ダメな自分を認められなかっただけなんだ。

もしかしたら機械的で打算的な奴に、憧れていただけかもしれない。

本当は、何もかも中途半端に終わっちゃうんだ。
俺が動いたところで、何も、何も変わらないんだ。

力が、足りないんだ。

もっと、もっと俺に力があれば、皆を助けられたのにね・・・
誰も、死なせる事なんてなかったのに。

何も失う事がなかったのにね。


彼我さん・・・彼我さん・・・


質問をぶつけられない、気の使う会話。
もう、あのもどかしい会話はできないんだね。

彼我さん、本当は、生きているんでしょ?

明日になったら、また突然出てきて将棋の対局でも申し込むんでしょう?
命蓮寺の、広間で、皆が生活している中で。

それで俺に負けて、つまらなそうな顔をして。
また、次があるって。
そんな事を言ったら、かわいい笑顔で笑ってくれるんでしょう?

だってさ、こんなの、夢でしょ?

夢なんだから、死んでるわけないじゃん。

夢なんだから。
夢なんだから。

夢・・・なん、だか・・・ら・・・。


ねえ、お願い・・・

早く、覚めてよ・・・
こんなに長い夢、現実とごっちゃになっちゃうじゃん・・・

「ねえ、いつものいたずらなんでしょ・・・
 本当は、シャクナゲさん、あなたが彼我さんなんでしょ・・・ねえ。」


青年は腕を組んで、小さく嘆息した。

「・・・大切な人の死がそんなに怖いんですか?
 あなたにとって、恋人でもない、家族でもない人を失っただけで、
 そんなに取り乱してしまうなんて・・・怖いんでしょう?」

「ちがう・・・シャクナゲさんは、誰も殺してません。
 彼我さんはどこか遠くで、こ、この様子を見て、笑ってますよ。
 も、もしもっ、自分が死んだら、俺はどんな反応をするか見たいんですよ。
 本当に、っ、彼我さんは・・・あっ、悪質ないたずらをします・・・ね・・・。」

ひたすら千切れるくらいに、首を横に振り続けた。
もう、首の感覚はない。

ひたすら、ひたすら横にぶんぶん振っていた。

頭の中のものぜんぶ、遠心力で吹き飛ばすかのように。

でも、涙しか飛ばなかった。

悪質ないたずらばっかりして、彼我さん、馬鹿だなあ。

そうだよ・・彼我さんは、そういう人だ。
いつも他人を顧みないんだよ・・・。

だって、こんなの、おかしいもの。
俺の最愛の恩人が、彼我さんを殺すはずがないもん・・・

シャクナゲさんが、再び俺の身体を抱き寄せた。
今度は、もっとあたたかくて、救われるような、心地よさがあった。


「そうやって逃げたいほど、我を失うくらいに人の死は悲しいですよね。
 僕は、そういう物を、この世から消し去りたいんですよ。・・・ね?」

「・・・?」

顔を上げると、青年の顔からは表情が消えていた。
目が、笑っていなかった。口許が、笑っていなかった。

すべてが、笑っていなかった。

「この世界から生の苦しみと、死の恐怖を失くしたかったのです、僕は。
 長く生きるという事は、沢山大切な人との別れを経験する事なのですよ。
 形あるものは、いずれ消えてなくなります。自分が長く生きるなら、尚更です。
 大切な人は、砂でできた人形のように、あっという間に波で崩れてしまうのです。」

シャクナゲさんの声は、柔らかく、どこか物寂しげだった。


・・・やっと、わかった。

シャクナゲさんは、今まで沢山の死を見送ってきたんだね。
目の前で、大切な人が、死んじゃったんだね。

彼の理想郷。それは、穢れのない世界だったんだ。
死への恐怖と悲しみ。生きる事の苦しみ。
この世界は、そんな物で満ち溢れているから。

変わって、無くなる。それをこの世界から取り除きたかったんだね。

生きているものは、皆死んでいく不条理。
力が強いだけじゃ、理不尽には勝てないんだ。

訪れる「いつかの時」からは誰も、逃れられないんだ。

シャクナゲさん・・・俺は、どうすればいいですか?
 あなたの、力になりたいんです・・・。」

全身麻痺した脳では、それしか考えられなかった。
でも、痺れが解けたその時、俺は正気に戻るのだろう。

シャクナゲさんの手が、俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「もうすぐ、時が満ちます。そのためにはあなたの力が必要なのです。
 それまで、この世界で過ごしていてほしいのです。
 そのためにこの世界の管理を、彼女と代わったのですよ。
 協力・・・してくれますね?」

「・・・はい!」

満面の笑顔の裏で、悟っていた事があった。

もしも、これが夢じゃなかったらの話。

自分のしていたことが、どれだけ残酷で、最低な事だろうか。
きっと、それに気づいたら、俺は正気ではいられない。

彼我さんが置かれた状況の、理解ができなかった。
受け入れる事が、できなかった。

正気に戻ったら、気が狂ってしまう。
現実を、受け入れられないんだ。頭が壊れてしまいそうで。

きっと時間が経てば、俺は発狂して、自殺するかもしれない。
目の前の人はどうあがいても、殺せない。

何も変わらないけれど、きっと衝動で、自分を殺してしまう。


だから、これが夢であってほしい。
俺が正気に戻るより早く・・・この夢が覚めて・・・


でも、きっと明日には、明日には。
また、平穏な日々が待っているんだろうな。

もう、やめよう。
きっと、きっと・・・どうにかなるんだから。






人通りのない廊下で、深水を右腕にセットイン。
綿をつめて、包帯を巻いて、人の腕らしきそれを作る。

やっぱり、一人だとちょっと難しい。
綿だけで手の形を作らねばならないので、ちょっとした工作になる。

『ひとつ、お願いがあるのじゃ。』
「どうした?」

頭の中で、切迫した声が響く。

『もう、儂を放さないでくれ。常に、儂を身につけていてくれ。
 お主と、意思の疎通が取れなくなるんじゃ。
 そろそろ・・・そろそろなんじゃ。お主の妖怪化が解けるまで・・・。』

妖怪化が・・・解ける?

「深水がいないと、妖怪化は解けないの?」
『そうじゃ。そして、使命を果たした時、同時にお主の妖怪化は解ける。
 安心せい。だから・・・今は耐えぬいてほしいのじゃ。儂からの、お願いじゃ。』

そのしっとりとした声は、頭の隅々に染み込むようだった。

いつから、深水はこんなに感情豊かな声が出せるようになったんだろう。
だんだん、人間らしくなってきている気がする。


耐える・・・その意味は、一体何だろうか。
これから・・・これから、何かがある。

深水が、わかっている、何かが。

拳を握る事が出来なった。
力が、入らなかった。

深水が言っていた事は、気休めなのかもしれない。
でも、少し期待している自分も、遠くではあるけれども、そこにいた。

もうすぐ・・・この悪夢が、終わるんだね・・・。




教室に戻ると、稟が軽い足取りでこちらにやってきた。
不思議と、あんなに長い時間話していたのに、まだ昼休みだった。

「シュウ、先生とどんな話したんだ?」
「・・・。」

稟の声が、聞こえない。
いや、声が聞こえないんじゃない。

頭に、届かないんだ。
頭が、鍵をかけたように、頑なにその言葉を読み取ろうとしない。

「・・・シュウ?」
「次の授業、何だっけ?」

やっと口から出てきた言葉は、それだった。
考えなかった。
考えたくなかったのかもしれない。

考える事ができなかったのかもしれない。

「・・・英語だよ。」
「そっか。サンキュ。」

ごめんな、稟。
その話したら、壊れちゃうんだ。

今だけは、現実に蓋をしてその上に重石を載せて、海に捨てるんだ。
これは夢なんだから。
現実に戻ったら、きっと、笑顔の彼我さんがいるから。


夢の世界は、なんでもありなんだから。


複雑な気持ちで、机から教科書を取り出す。
できるだけ、誰かと、あまり親しくない人と、くだらない話をしながらがいい。


・・・そういえば、ヒカリがいない。

辺りを見回しても、紺色の髪、ウサギの帽子が見当たらない。
嫌な予感がする。

・・・もしかしたら、何かあったんじゃないか。

誰に尋ねても、その答えは得られなかった。
でも、みんなヒカリの事は知っていた。

きっと、学校からいなくなっただけなんだろうな。
その時は、そんな事だけを考えていた。


他の可能性は、いらない。必要ないんだ。




全ての授業が終わると、机の上に椅子を上げる。
前に運ぶ最中、シャクナゲさんが、ふとそんな事を俺に頼んだ。


「あ、ゴミ捨てお願いしていいですか?」
「いいですけど・・・。」

俺は教室のゴミを捨てに行っていた。
青いポリバケツを、集積場の大袋を下に逆さにする。

ここまでは、何もないと思っていた。
特に何とも思わなかった。

落ちるプリントや鼻紙のなかに、ポスンとひとつ、重そうに落ちるものがあった。

『・・・リア、それを拾ってはいかん。』
「え、何で?いいじゃ・・・」

不審に思って、その物体を左手で拾い上げる。

『ばっ・・・』

何だか、べとっとした感触が手に着いた。
引き上げると、目の前に赤茶色い帽子があった。

帽子と、自分の手を交互に見つめると、頭が真っ白になった。

え・・・?

それが何か、わかろうとできなかった。

でも、その帽子には、耳らしきものが付いていた。
コンクリートの白と、対になって、その帽子はよく目に焼きついた。

え・・・?

さっきから、そう、昼休みから。
喉に込み上げていた焼けつくような感情が、もう抑えきれなかった。
目の前がグルグルして、頭が焼け走る。


・・・ヒカリって、ばかだ。
俺を助けるためにこっちに来たんでしょ?
どうして、俺のせいで死んじゃうの?

・・・彼我さんも、ばかだ。
俺を現代に帰すために、こんな仮想現実作ったんでしょ?
現代に希望を持たせるリハビリだったんでしょ?
でもさ、あなたが死んだせいで、この世が嫌になったんだよ。


ふたりともさ、どうしてくれるんだよ・・・・
こんなに、こんなに、こんなに。

うまくいくはずだったものを、うまくいかなくなるなんて。

そんなに俺を傷つけたいの?
そんなに、俺が悲しむところを見たいの?

礼の一つも言わせずに、俺の前からいなくなっちゃうなんて。


ありがとうくらい・・・言わせろよ・・・
俺のいないところで、勝手にいなくなっちゃだめだろ・・・


気が付くと、俺はその場に膝を突いて、訳の分からぬ事を叫んでいた。
我を忘れて、喉が形を保つ限り、叫び続けた。

幾度となく口の間から鮮血が滴った。

途中まで感じていた喉の痛みも、もう麻痺して消えてしまっている。


俺の知っているふたりが、ふたつになっていた。

夢を操る誰かは、夢となって消えて。
時を操る誰かは、時間が止まって。



身体を吹き飛ばす爆発が、急速に俺の血液を沸騰させた。


俺の血は動き続ける。
昨日になんか戻らなくてもいい。

八つじゃ足りない。

この手で、不死身を一千裂きにすれば、それで・・・



口から洩れた鮮血は床を這いまわり、点線を描く。

点の間隔は、徐々に徐々に開いて、一つの目標めがけて繋がっていた。



『・・・校庭に奴はおる。もう、お主を止めても無駄じゃろうな・・・。』



終点は、恩人だった。


つづけ