東方幻想今日紀 百六十五話 記憶から、実体へ

ナズーリンさんが寝てから一時間ほどが経過した。

電気を消さずに寝てしまうなんて、よほど疲れたのだろうか。


「ん・・・」


・・・彼女の伸びに少し驚いたが、まだ寝ている事を確認した。


というか、当たり前か。
あんな事があって、疲れないはずがない。

傷ついたのだろう。辛かったんだろう。
・・・俺の不注意のせいで。




一体、彼女はどんな気分で俺を見ているんだろう?


自分は覚えているのに、相手は覚えてないなんて。
友達が突然自分を忘れちゃうなんて。


俺は彼女の名前をまだ一度も呼んでいない。


ナズーリン」と呼んだとしたら、彼女は喜ぶだろうか?

そんな事はない。気を使っているのかとでも尋ねられたら、
それこそ最悪の空気になりかねない。
そもそも、彼女にとっては
自分に対する記憶などない俺は、俺として見てくれるのか?

ナズーリンさん」と呼んでも、彼女は友達にさん付けで呼ばれる事になるのだ。
俺にとってはごく自然なのだが、彼女にとっては事態を痛感させる呼び方。

それだけは、避けておきたい。

彼女にとって俺は俺なのだが、俺にとっては彼女は知らない女の子。

気なんか許していないし、一緒の部屋で寝るのなんてもっての外だ。
彼女と一緒にいると、別の嫌な緊張がある。


・・・でも。彼女の行動でひとつわかった事がある。


彼女は、俺の記憶が失っても、俺を俺として認めてくれたんだ。
現実を逃避することなく。しっかりと現実を受け止めて、俺を受け入れてくれた。

もう一度、俺に向き合おうとしてくれた。
避けることなく、俺とやりなおそうとしてくれたんだ。


もしも、俺に片思いの人がいたとして。
その人が、俺の記憶を失っても、そんな行動を取れる人がいたとしたら。


・・・俺、大切な人のこと、忘れちゃったんだね。


どうしよう・・・きっと、俺、彼女の事を凄く好きだったんだろうな。
そんな彼女は俺の事を、少なくとも嫌っていなくて。

むしろ、親しくしてくれていて。




血の混ざったようなため息が、口からもれる。



ねえ、これ夢なんだろ?



だったら、記憶を失ったってことも悪い夢で。



ある時突然目が覚めて、
彼女の事を思い出した上で、彼女と一緒にいられるんだろ?
一緒に、笑いあって、一緒にご飯を食べてさ。



そして、命蓮寺で生活して、寺子屋で働いて。
そんな日常がつつがなく送れるようになるんだろ?


もう幻想郷に帰りたいんだ。



こんな想いまでして。
何がリハビリだよ。



ねえ・・・



彼我さん、出てきて。

答えて。


「こんなの、あんまりだろ・・・。」




・・・。




どうして、こんな時はあなたは出てこないんだろう。
普段、不必要な時も、呼んだ時も、どんな時でも。

勝手に意識に入りこんでは、かき乱してくれちゃって。

ねえ・・・ここ、あなたの世界じゃなかったの?


いつでもどこでも、その気になれば、駆けつけられるんでしょう?


ねえってば・・・



力なく笑おうと、口元が緩んだその時、肩に温かい感触があった。

「お主は男のくせに、泣き虫じゃな。」


振り向くと、そこには紺色のショートヘアの幼い女の子。


「深水・・・。」


さっきまで誰もいなかったのに、急に背後を取られた。
一瞬で、涙が引いて嫌な予感が背中を突き刺した。

まさかこいつは・・・


「大丈夫じゃそう警戒するでない。おこなの?」
「お前今日一日中テレビ見てただろ・・・激おこだよ。」

よかった。深水だった。
要らん事を覚えてこいつは・・・。

ちなみに「おこ」というのは最近はやりの言葉で、
怒っているということ。激おこはその上位。


でもまあ、これで本物という事がわかった。
わかったというよりは、安心したと言う方が正しいが。

「う、激おこなのか?」
「嘘だよ・・・何で本気にするんだよ。ごめんな。」

この姿で涙ぐむなんて卑怯だと思う。
というか、何でこいつはこんなにかわいくなってるんだよ。

彼我さんめ、もうちょっとましな姿にできなかったのか。
仕草も相当人間味がでてきているし。

いや、言葉をそのまま文字どおりに取るから
幼児みたいな姿でいいのかもしれない。

まあ、そんなことはいいんだ。


「どうやって入ってきたんだ?」
「うむ。それを説明しようと思ってのう。」

俺が尋ねると、深水は待ってましたとばかりに目を輝かせた。

「居間とお主の部屋の間に距離があるじゃろ?」
「うん、まあ。」

なんだか初歩的な問いかけだな。
まあ、いいか。なんだって最初はそうだ。


「そこで、距離をなかった事にしてしまえばそこにいけるじゃろ?」
「ああー、確かに・・・そこに行けて便利だね!」

「じゃろ!便利じゃろう!?お主もやってみい!」

俺と深水は顔を見合わせて笑顔になった。



「・・・って、できるかボケえ!」

ありったけのツッコミを深水に浴びせた。


「何でじゃ!やってみもしないで出来るかなんてわからんじゃろうが!」


お前それボルトが「なんで100mを10秒切れないの?」って言ってるのと同じだからな?
もっと言うと、
ガンジーが「どうして殴られたら殴り返すの?」と言うのと同じだから。
・・・その時だった。


「ぷっ・・・くく、あははっ・・・。」


愉快そうな低めの笑い声が背後の声に、俺たちはぎょっとした。

「「・・・え?」」

振り返ると、身体を起こしたネズミの少女が楽しげに口に手を押さえていた。

やばい・・・起こしちゃった。
冷静に考えてみれば深夜に大声でツッコミを入れたら起きるに決まっ

「秋兄どうしたのっ?」

ほら来た心配してドアを開け放した妹が。
しかも髪の毛がぼっさぼさである。ごめんな、心配掛けたね。

「・・・ううん。大丈夫。心配してくれてありがとうね。」

慌てて小春に駆け寄って、彼女の頭を優しく撫でた。
彼女は心配そうな目で、こちらを見上げた。

「こんな遅くまで起きてたら身体が夜に蝕まれちゃうよ?」


一瞬現代小春から幻想郷小春の片鱗が見えた気がする。

その優しさと兄ちゃん思いなところは似てないけど。
まあ、気のせいだろう。


小春は、ゆっくりと扉を閉めると、階段を静かに下りて行った。




しばらくしてから思うと、本当に申し訳なかったな・・・
明日、というかもう深夜だから今日修学旅行と言っていたのに。


あと四時間後にはもう起きて元気に出かけているんだろうな・・・


「まったく、君はいい妹を持ったな。」

ナズーリンさんが一息ついた俺に話しかけた。
そういえば彼女も俺のせいで起きちゃったんだったてへ。


どれだけ俺は大声でツッコミをしたんだよ。


「・・・ありがと。妹もそうだけど、起こしてごめん。」
「いや、いいんだ。楽しそうで何よりだからな。」

彼女は一点の曇りもない表情でそんな事を言った。


胸がきつく締まるのを感じた。
きっと、いつもと変わらない俺の様子を見て、安心したのだろうか。

・・・彼女の様子を見る限り、辛くなった反動で笑っているわけでもない。

きっと、俺の記憶が戻るって信じているんだろうな。
あなたにとっては、友達なんでしょう?


俺が彼女の事を覚えていたら、感動で泣いていたかもしれない。

・・・いや、もう既に。


「どうしたんだい・・・?」
「んん、目にゴミがね。」

彼女が心配そうに尋ねるのを、俺は嘘をついた。



・・・彼女の事を覚えている俺は、今の俺じゃないよ。
もし、俺が今彼女の事を好きになったとしたら、彼女はどう思うだろうか。

いや・・・仮定で話すのはもうよそう。


絶対に、この気持ちを悟られないようにしなくちゃ。
俺の彼女に対する記憶が戻った時に、彼女を悲しませないように。


なんで・・・同じ人を二度好きにならなくちゃいけないんだろうね・・・。



こんなに虚しい片思いもなかなか無いだろう。

記憶が戻るまで、絶対に伝えてはいけないし、悟られてもいけない。
でも記憶が戻るなんて保障はどこにもない。

いつ戻るかもわからない。それまでずっと隠し通すのだ。

いや、でもいいのか。
以前の俺が彼女を好きでも、向こうはきっと、俺なんかにはどうとも思っていない。
少なくとも恋愛感情など持たれるはずがない。

今の俺が彼女を好きになって、その気持ちを悟られたとして。

だからなんだよ。
彼女にとっては、同じ人に二回好きになってもらえた、たったそれだけだ。
・・・いや、俺に好かれる事に価値は無いと思うから何も思わないだろうな。

むしろ、俺に好かれる事を、
内心気持ち悪いと思っている可能性も大いにあり得る・・・


第一、俺の彼女に関する記憶のみ、いわば「仮の記憶」。
もっとも、思い出す事が無かったら「本当の記憶」になるのだが。


やっぱり、隠し通しておこう。
彼女にこれ以上気持ち悪いと思われたくない。


・・・だから、今はちょっと距離を置こう。

出来るだけ意味のわからない事を言おう。
引かれない程度に。


「なんかさ・・・」

「ん?」


俺がうつむいたまま、言葉を切り出す。
彼女は小さく反応する。


「ふふふ、ふふ・・・ふふふふふ。とうふ。」



「・・・・・・ん?」


顔を上げて彼女を見ると、彼女の顔が木綿豆腐みたいに固まってた。
いかん。これは確実に引いている。


「いや、『ふ』が十個で・・・その、いや・・・なんでもないです。」

「あ、ああ・・・。」



彼女は目の前で起こった事を理解できていないようだった。


すでに手遅れでした。誰かにがりもってこいよ。
今ここで窒息死してやろうか。



「「・・・。」」

しばしの沈黙が、拷問のように続いた。
やばい。こんなに沈黙が重く感じるとは。


・・・あれ、そういえば深水がやたらと静かだな。
この空気に耐えかねて死んだか。


頭を掻いて振り向こうとしたら、腕が上がらなかった。


「・・・?」


いや、上がる腕が無かったと言った方が良いだろうか。

長袖の上着の右袖が、だらんと下がっていた。
おまけに、変な気のようなものが身体にべったりとまとわりついている気分。

だが、変な気はすぐに慣れた。


目の前の出来事が信じられなくて、声も出なかった。

「それ・・・どうしたんだい?」


事態を把握するのに少し時間がかかった。

そして、もうひとつの出来事が、脳裏に浮かぶ。



慌てて後ろを向くと、そこに幼い少女の姿は無かった。




代わりに、深い深い紺色の刀身が、落ちていた。



つづけ