東方幻想今日紀 百六十四話 過信は身をズタズタに引き裂く

空は、月がたくさんの光を纏って、
ベランダの二つの影を明るく照らしていた。



「・・・ひとつ、尋ねたいことがあるんだ。」

沈んだ面持ちで、でも取り繕うように声色は明るめに。
そうナズーリンさんが俺に問いかける。


「・・・うん。」
俺は軽くうなずくと、彼女の次の言葉を待った。



「私は、君の事をリアと呼んでもいいだろうか。」

「あっ・・・」


思わず言葉に詰まってしまった。


彼女は俺の知らない人だ。
当然、距離だってあまり詰めてほしくない。

いや俺は男だから、ある種の嬉しさは無くもないのだが。



でも、どぎまぎしてしまって、
とても普通には接することができない。


あなたにとっては、多少は親しい人だろうけど。

・・・俺からすれば見知らぬ他人なのだ。


でも・・・俺は、彼女の事が好きだったらしい。

少なくとも、ある程度は好意も知ってはいるのだろう。
自分の性格の不器用さくらい、わきまえている。

好きな人と一緒にいて、完璧に隠し通すなんてできるはずがない。



・・・俺が、好意を寄せていて。
彼女が、俺を嫌っていない。

一緒にいた動機がたとえ情けであったとしても。
優しさであったとしても。


俺は、そんな彼女の事が大好きだったのだろう。



・・・駄目。


今泣いたら・・・駄目だ・・・。


彼女の、彼女の気持ちも考えろっ・・・!
ここで、俺が泣いたら彼女はどうすりゃいいんだよ・・・!!


俺なんか、何も分かってない癖に、何も分かってない癖に・・・


彼女の方が一億倍は辛いはずなんだ・・・!!
友達に、自分の存在を忘れられたんだぞ・・・?

それなのに、それなのに・・・。

「あっ・・・うくっ・・・」


嗚咽の声が、喉から込み上げて。
我慢できずに、思わず俺は膝を抱えてしまった。



「・・・大丈夫かい?」


膝を抱えたまま、暗くぼやける視界の中で、
俺は首を横に振った。


ぼたぼた落ちる涙の音が、彼女に聞こえるのかと怖かった。

涙腺が爆発したかと思うくらいに、涙がとめどなく落ちる。


謝っても駄目だ。
謝りたいのだけれども、これ以上謝ってもどうしようもないんだ。
彼女を困惑させるだけなのだから。


ため息が出そうな口を、押さえようとしたその瞬間だった。


「悪夢は、いつか覚める。
 雪はいつか溶けて春になる。
 失ったものは、必ずいつかまた手に入る。
 冬は寒くて夜は長いが、温かな日差しもあるし、春も近い。」


「・・・」



聞き覚えのある、柔らかな声が頭上からする。
彼我さん・・・


顔を上げると、指をぴんと立てた彼女がいた。
普段の服装、マチ針みたいなのが付いた紫色の羽衣。

ほっとして、涙が少しだけ緩んだ。


彼女、いい事言うな・・・


「・・・『俺様名言集』より。」

台無しだばか。



完全に涙が引いた。


小春のくせに・・・あいつ元の世界に戻ったらグリグリだな。



「ほら、笑えるじゃないですか。」
「強引すぎますよ・・・」



ありがとう、彼我さん。
これからは敬意を払ってHGSって呼ぼうかな。
あ、彼我さんの顔が引きつったやめよう。


「・・・どうしたんだ?何かあったのかい?」


ナズーリンさんが彼我さんに不安そうに、
でも柔らかにそう尋ねた。


「どうしても伝えておかなければならない事があります。」

ナズーリンさんと俺は、身を乗り出して彼女に近寄る。
彼我さんはふっと笑って、再び口を開く。


「今後ずっと、助けてと極力言わないでください。」

「「それはわかっている。」」


彼我さんはつっこみが欲しかっただけなのか。かわいいなあ。
彼我さんマジHGSですわ。

あれ、表情を見るになんか違う。


彼我さんは咳払いをした。


「確かに・・・その行為はすさまじい地雷です。
 願った人に関する記憶を失ってしまうんですから。
 でも、それは逆手に取ることもできます。」


「・・・うん?」

「つまり記憶だけでできたものなら、消してしまえるのです。
 ナズーリンさんを助けたいと願ったけど、
 ナズーリンさん自身は今ここにいます。
 ・・・それはあなたの記憶ではないからです。」


そこまで聞いたところで、ナズーリンさんが手を軽く打った。


「・・・なるほど。つまり敵は消すこともできる訳か。
 だが、そんなに敵を助けてほしいと心から願えるのか?」


お。そういうことか。

確かに俺の記憶から消えるという事は、
すなわちこの世界から消えるという事。

敵に襲われたら、敵を助けてと願えばいい。


・・・いや、無理だろう。

この悪心に染まった心をお助けくださいとか、
聖さんでもなければ考えられもしない。


たぶんあの時は、心の底から願ったのだろう。
死んでしまっという幻覚を見た俺がナズーリンさんを、
生き返らせてほしいと。

だから、効果が発動した。

結果は、恐らく、とても残酷なものだったけれども。

「・・・そうです。最大の難点はそこです。
 残念ながら変態のあなたはそんな慈愛は持ち合わせていません。
 そして、もっと、もっと大きな落とし穴があります。」


どうして俺はこんなに変態扱いされなければならないのだろうか。
いい加減にしないと
こんな思考回路の彼我さんを助けてほしくなっちゃうなあ。

「落とし穴・・・」


落ち着いた低い声が、俺がこぼした部分を拾った。
彼我さんが、笑顔になる。

「そうです。リアさんが自分に助けてと願うと、
 もれなくこの世界が無くなります!」

「・・・なん・・・だと・・・!?」


久々に売り文句のようなえげつない言葉を聞いた。
そんなに明るく言われてもお得感どころか絶望しかない。


「・・・だが、この世界は記憶でできているとしたら、
 それは私たちが幻想郷に戻れるという事ではないのか?」


ナズーリンさんが怪訝そうな顔をして反論する。
俺もそう思う。

よくよく考えたら、こうなった以上リハビリなんか諦めて
これ以上の被害が出る前にこの世界を終わらしてしまった方が・・・

この世界では、もう何が起こるのかわからない。
安全の保証なんかないのだ。

「誰の、誰に対する記憶が全部消えるか・・・わかりますか?」

「・・・なるほど。」


・・・そっか。

もしも自分の事を助けてと何も知らずに言ったら、
何もかも忘れていたのか。


自分の、自分に対する記憶。

みんなの名前が思い出せない、みんなが何者かがわからない。
そんな甘いものじゃない。人に関する記憶は自分ありきだ。


つまり、抜けがらみたいな状態で幻想郷に戻る事になるのだ。


でも。


最悪の場合、俺の記憶を全て失ってでも、
この世界を終わらすことも視野に・・・


「駄目です・・・それだと侵入者の思惑通りになってしまいます。
あくまでもあなたを追い詰めて、あなた自身にそれを言わせる狙いです。
それに、一番大切な事を忘れています。」


「大切な事なんてもう・・・」

俺が言いかけたところで、彼我さんは手を出して俺の話をいったん遮る。
そして、ぱっと笑うと、口角を上げた。

「この世界は、ただの夢ではないのです。実体化しています。
 もしもこの世界が消えてしまったら、
 あなたは抜けがらの状態で自分が誰かも分からぬまま、
 何が起こっているのかも分からずに、
 何もないところに暗闇に死ぬまでいる事になりますよ?」


・・・彼我さんの満面の笑顔に、今までにないほどの恐怖を覚えた。
きっと、真顔で言うよりも恐怖が伝わってくると踏んだのだろう。


「・・・。」

まずい。引きつった眉が戻らない。
コンクリートで固めたみたいだ。


「・・・ただし、私たちの偽物が現れたら、消す事は可能です。」

なるほど、幻影ならば俺の記憶を使っているはず。
幻影といっても、記憶を頼りにした実体化したものである。

たぶんその幻影に殺されてもおかしくはない。

でも。

「それって危険だな・・・。もし本物だったら・・・」
「もちろん、まだ本人か確かめる術が皆無なので、駄目です。」

ですよね。そりゃリスク考えればやめた方がいい。
第一、今喋っている二人も本物という可能性は100%ではないのだ。


ん、待てよ?


「本物と偽物が一緒に現れた場合なら偽者を消せば・・・」

「駄目ですよ・・・偽者を助けてと心から願えますか?
 あなたが助けてと願うのは、あなたが本物と信じ込んでいる人のみです。」

そっか・・・中々難しいな。
しかもハイリスクすぎる。やっぱり偽者を消すのは諦めた方が・・・


「偽者と一緒になったら、
 私たちが偽者を演じて偽者を殺害しようとすればいいのでは・・・」

「それは難しいです。相手はリアさんの記憶に入りこむ事が可能なのです。
 願われたら消えてしまうので、恐らく相手はオトリを使ってきます。
 オトリも、それ相応の強さを持っている事が予想されます。
 私はともかく、記憶だけのあなたたちが圧倒するのは難しいと思いますよ。」

ナズーリンさんが意見をすると、
言い終わる直後に言葉を重ねるようにして反論する彼我さん。
もしかして、この人すごく頭の回転が速いのではないだろうか・・・。

よく考えてあるな・・・敵の情報が少ないのに。

・・・というか、前提条件に引っかかる。

「そもそも彼我さん、強いんだ・・・ずっと力を誇示しないからわかんなかった。」
「ああ、それは私も思っていた。」

彼我さんがやれやれと首を振って目を細める。


「大丈夫ですよ。私はこの世界を作った『神様』ですから。
 あなたたちを無事に幻想郷に帰すのが、今の私の仕事ですから。」

妙に自信ありげに言う彼我さんの目は、強い光が点っていた。

この世界を作った神様。
これほどまでに、彼我さんが言うと説得力のある言葉はないだろう。

しののめこは何とかっていうアホが得意げに言うのとはえらい違いだ。



「・・・さて、あと二日で幻想郷に戻れます。それまでの辛抱です。」

彼我さんの言葉に、違和感を覚えた。
まだこの世界に来てから三日しか経っていない。

「あと四日では・・・?」
「私が体力を使い果たせばいいのです。寝なければ大丈夫ですよ。」


彼女は笑顔でとても男前な事を言い放っていた。
どうしよう、すごくかっこいい。

俺ならそんな事できない。たぶん。

「君はこれ以上無理しなくていいんだぞ・・・」
「大丈夫ですよ。このくらい、恩返しにしては軽いものですから。」

深夜のドライバーを気遣うように、ナズーリンは彼我さんを心配した。
彼我さんは差し伸べた手を平手打ちした。


そう言えば、彼女の動く動機って、ほとんど恩返しのような気がする。
あまり、自分の為に何かをしたのを見た事がない。



なんで、俺の周りって自己犠牲的な人が多いんだろう。

命蓮さんは、刻印に関して、誰かを巻き込みたくなかったから自身を俺に殺させた。
丙さんは、自分の左目を犠牲に、自分を殺しに来た人を安心させた。
道は、罪滅ぼしと好きな人のために、俺に殺される事を選んだ。


・・・胸が苦しくなってきた。
俺がいなければ、道と命蓮さんは、生きていたんだろうか。


もう悔やんでも、仕方ないのかな・・・。
一度やってしまった事は、もうどうしようもないから・・・。

そう、何度も言われてきたけれど。

やっぱり、腑に落ちないのだ。


大きなため息をつこうとした、その時。

「・・・さてと、あと二日間です。ヒカリさんの正体もわかりましたよね?」
「え・・・」

話が一段落して、仕切り直すように言う彼我さん。


わかったような、わかっていないような。
深水とまったく一緒の漢字だという事はわかったけど・・・。

学校に来て、俺の事を知っていて、経緯まで知っている。
つまりは、読み方を変えただけの偽名。

「・・・ヒカリは深水が変身した姿ってことですね。」

「ぶー。」


彼我さんは指でバツマークを作って、いたずらっぽく笑った。
その様子が、なんだか小憎らしかった。


「じゃあ、何者なのさ・・・。」

ふてくされたように俺がぼやくと、
彼女は腕を組んで、一人で悦に入っていた。


「それは、幻想郷に帰ってから教えます。きっと、驚きますよ。」

「待っ・・・」

それだけ言うと、彼女は夜闇の中にすっと消えていった。



・・・焦らすなんて、卑怯な・・・。





「行ってしまったな。」
「・・・うん。」


あとに残された俺とナズーリンさんは、ゆっくりと立ち上がった。



「部屋に戻ろう。もう寝るぞ。」
「そうだね・・・。」


素っ気ない会話の中には、今までなかった温かさがあった。






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東雲家から歩いて数十分ほどの場所に、小高い丘があった。
五月の月明かりに照らされた、柔らかな草の香りが、ひとりの少女を包んでいた。


「リアさんってば、詩人なんですね・・・」

腕を枕に寝転がる少女がそう独りごちる。
周囲には、誰もいない。


「こんなに月を鮮明に見ているなんて・・・日頃何してるんでしょうね?」


少年の記憶で構成されたこの世界の月は美しかった。
なぜなら、月は少年にとって、あこがれのような存在だったからだ。

少女にとってあの少年は恩人でもあり、ひとつの憧れだった。
気まぐれで、後ろ向きで、向こう見ずで、間抜けだけれども。

彼の持つ自分を見つめる力と、感受性の強さ、精神力。
そして、特別に誰かを好きになれる気持ちは彼女の憧れそのものだった。

だから、少女は使命感に燃えていた。
必ず、幻想郷に無事に帰したいと。


「幻想郷の月、もう一度見せてあげたいですね・・・」


少女がほうと深いため息をついたその瞬間だった。


「大丈夫ですよ。もっと月は綺麗になりますから。」


男性の声が、辺りに響く。
少女は咄嗟に身体を起こすと、その声の主は少女の眼前にいた。


「・・・はるばるこんな場所まで、どうしたんですか?」


少女の声は、震えていた。

少年の記憶には、目の前の青年は「恩人」だった。
でも、彼女自身の記憶を辿るのならば。


目の前の青年は「巨悪」そのものだったからだ。


どちらの記憶を信じればいいのか、少女にはわからなかった。


「いえ、ひとつ頼みごとをしようかと思いまして。」

青年はさわやかな笑顔を浮かべた。



「・・・お願いとは何ですか?」

「僕に、この世界の管理をさせてください。」



少女は、身に迫る危険を直感した。
全身が、目の前の恐怖を拒んでいる。


「・・・そんな事させる訳ないじゃないですか。
 あなたからは、この世界から出て行ってもらいます。」

少女は、できるだけ怖い顔を作って言うが、説得力など無かった。


「じゃあ、こうしましょう。」

「・・・?」


青年は、指を一本立てて、表情を消した。





「勝負をして、勝った方がなんでも一つ、言う事を聞くのです。どうですか?」

「わかりました、受けて立ちましょう。
 私が勝ったら、この世界から出て行ってもらいます。」

青年の問いかけに、少女は頷いた。



青年は、口角を上げて、小さな小瓶を虚空から出現させた。
親指ほどの小瓶には、濃い桃色の液体が入っていた。


「もしも僕が勝ったら、あなたにこれを飲んで頂きます。」


「・・・。」


少女は硬直した。
想像していた条件と、まったく違っていたからである。


「『はい』か、『了解』か、どちらですか?口で言ってくれないと、わかりませんね。」


青年は、無表情のまま、少女に詰め寄る。


「・・・その薬を飲むと、どうなるんですか?」


少女は勝てばいいのだと自分に言い聞かせたが、どうしても尋ねずにはいられなかった。
少女の中では、自分は少なくとも、この世界では最強なのだから。


青年は、無表情のまま、瓶を軽く振った。





「僕に、惚れます。」




少女は自分の発言を後悔した。
知らなければよかったと、心から痛感した。


「まさか、それが『目的』だったんですか?最低ですね。」


あざけるように少女が笑うと青年は、ふっと笑った。


「誤解しているようですが・・・『手段』と言った方が正しいですね。」

「そうですか。ありがとうございます。」




少女は、笑みを浮かべた。



「・・・?」



「これで、心置きなくあなたを葬る事が出来ます。
 この世界で私に挑むことほど、愚かな事はありませんから。」




少女は腕を天に掲げると、腕の辺りに、眩い光が炸裂した。
次の瞬間には虚空から身の丈の倍ほどもある大剣状の光を腕に纏い、構えた。



少女は、丸腰の青年を、強い目で見据えた。



「私は・・・この世界の神様ですから。」


少女の凛とした声が、小高い丘に響き渡る。



風は、嘘のように止まっていた。



つづけ