東方幻想今日紀 百六十三話 記憶を消す魔法の言葉

「・・・凄いね。」


俺がそんな事をぼんやりと呟くと、
紺色の髪の少年はにっと歯を見せた。


「あんまり、動揺しないんだな。」
「まあね・・・もう何があっても驚かないよ。」



半透明な青いフィルターを通したような世界。
空中に浮くように、無重力のような感覚でその世界を俯瞰する。

動く数人の人影は、朝の様子とまったく同じだった。


「ヒカリさん、こんなことができるんですね・・・」
「ああ。そうじゃなきゃ、ここにはいないから。」

それは、過去を立体映像として投影すること。

言葉に引っかかったのか、彼我さんはぴくっと眉をあげた。


「やっぱり、侵入者なんですね。」
「・・・うん。」


ヒカリが下を向いてうなずくと、彼我さんが眉根を寄せた。
俺は困ったように笑うしかなかった。




「・・・電車とやら、無情にも行ってしまったようだな。」
「お前が切符を買い損ねたんだろうが・・・ほら早く家に戻るぞ!」


「それは慣れていないから仕方な・・・どうして戻るんだ?」
「決まってる!自転車で行くんだよ!ほら急ぐぞ!」



駅。少年が、そのネズミの女の子の手を引いて走り出した。
少年の表情は、怒りながらも凄くうれしそうだった。


急いでいたその表情の中に、「小さな幸せ」が詰まっていた。
俺の姿をした、誰かが、俺の知らない女の子の手を引いて。


記憶はない。

でも、確かに俺で。


それだけで、俺がかつてこの女の子を
どう思っていたかを察してしまった。

胸がきつく締まるような痛みが襲ってくる。



今映っているのは、朝の様子だとのこと。
もちろん記憶には無いが、そのような状況だったらしい。



そう、遡る事少し前。

やってきたヒカリは前置き抜きに、
突然この「過去の幻の世界」に引きずり込んだ。


悲しみも半分のまま、この状況にあるのだ。



目的は間違いない。
記憶が抜けている図書館で何があったのかを確認するためだ。




「やっぱり、覚えていないんですね・・・」
「うん・・・朝の記憶・・・そっくり消えてるんだよね。」

しかも、思い出せない。
自分の姿を装った他人に見えるくらいである。

ヒカリが作った幻影の可能性は薄い。
彼我さんはこの状況を知っているはずなのだから。

彼我さんが何も言わないのならば、これは本物の出来事なのだろう。

ふとネズミの女の子を見ると、後ろを向いていた。
表情は読み取れなかったが、醸し出す雰囲気は近寄りがたいそれだった。

かける声も見当たらずに、俺は困惑しながら、居場所のなさをかみしめた。



「まさかこの後ろに乗るのかい?」
「そうだよ・・・狭いのはしょうがないだろ・・・」

不安げに尋ねるネズミの少女。
一方の俺は。

おおっとこれはいかん。口がむずむずしてて気持ち悪い。
なんだあれ俺か。極力素っ気無く振る舞おうとしてんのか。口ぴくぴく動いてんぞ。

うー・・・だらしないなあ・・・。

どうせ、彼我さんはこの様子を見てにやにやしているに違いない。
あの人下世話だからなあ・・・

「・・・。」

それだというのに、彼女は複雑そうな表情で顎に手を当てていた。

「どうしたんですかもう〜、そんな暗い顔して!
 いつものようにからかったりしないんですか?」

俺が声をかけると、彼女が振り向いた。

ナズーリンさんの前でも、同じ事が言えますか?」

凍てつくような微笑みだった。
背筋も一緒に凍らせるような笑顔が、胸に刺さる。


すぐに俺は言葉を失った。



・・・わかっていた。


もう、とうに名前ははっきりと頭に刻まれている。

ナズーリンさん・・・。
いや、ナズーリン

・・・ちがう。


俺にとっての彼女は、「ナズーリンさん」だ。
彼女にとって、俺が呼びかける名前は「ナズーリン」で。

彼女にとって、俺は俺なのだ。
でも、俺は彼女を元のように接する事なんてできないのである。

俺はどうすれば・・・


「・・・いいんだ、いいんだ。リアが私を覚えていないのは・・・今だけだ。
 恐らく、記憶が隠蔽されただけなんだ。元凶を断てば彼の記憶は戻る。」

ナズーリンさんが首をふるふると動かす。
炎が消えた暗紅の瞳は相変わらず焦点が合っていなかった。

ナズーリンさん・・・」

「・・・。」


何も言えなかった。
でも、何も感じなかったわけじゃない。


彼女の様子を察するに、俺の存在は親友か、あるいはそれに近い友達か。


もしも、俺に大切な友達がいたとして。
ある日突然その友達が、俺を忘れたとしたら。


俺は正気でいられるのだろうか。
・・・いられやしないに決まっている。


俺に家族のような人はいても。

友達と呼べるような人なんて、どこにもいないんだけどね・・・



彼女を見る事なんて、もう俺にはできなかった。











「さて・・・問題の図書館での出来事の少し前。
 ここで何があったのか見てみるよ。」

感情を押さえた高い声で、ヒカリが呟く。


廊下での俺と、ヒカリが映し出された。

「なんか借りたいものでもあるのか?」
「んー。ちょっと経済を勉強したくてさー。」

「そっか。」


あ・・・ここはよく覚えている。
ここで、ヒカリが不自然な笑みを浮かべたところまで。


「・・・ナズーリンさんが関与していないところは、記憶にあるんですね。」
彼我さんが、俺に耳打ちをした。

ほとんど無声音に近いそれは、聞き取るのがやっとだった。

そんな事を言われても、俺には分からない。


「・・・あの時俺は図書館に不穏な気配を感じた。正体はわからない。
 だから、どこかの隙に図書館に行かなきゃいけないと思った。
 でも、俺はおじさんに目をつけられている。だから、あれはいい機会だった。」

「・・・つまり、怪しまれずに図書館に行くいい口実ができたと。」


「そういうことだね。だから、俺はお前たち二人を急いで避難させた。」

ヒカリがそう言うが否か、図書館が目の前に映し出される。
そこには適当に本を読みあさるナズーリンさんの姿が。

彼我さんは嬉々と本でドミノをしていた。

そこに、スパンと誰かが図書館の入り口を開け放す音。
ヒカリが図書館に駆け入る。

二人は一斉に顔をそちらに向けた。

本ドミノが倒れた。図書館を一周するほどのドミノがどんどん連鎖していく。

ヒカリが二人のそばに近寄った。本が倒れる音がとめどなく続く。


「ヒカリさん・・・?」
「リアから伝言を預かっている。ここから逃げてくれ。」

「どういうことだ・・・?」
「俺にはわからない。とにかく逃げてくれとのことだ。ここは危険らしい。」

パタパタパタという音を背景に、唖然とする二人に、ヒカリはごく真剣に問いかける。
二人は気圧されたようで、すぐに図書館から出て行った。


そんな一瞬の出来事、ヒカリは二人を図書館の外に連れ出した。


図書館には、誰もいなくなった。


倒れた大量の本が、残っていた。


「・・・どういうこと?」
「俺の判断だと怪しまれる。だから、おじさんの名前を使わせてもらった。
 不穏な空気が・・・あそこに満ち始めていたんだ。俺にはわかる。」


しばらくして、映像の中で、図書館の扉が勢いよく開け放された。

ナズーリンッ!彼我さんッ!!」


大きな声が、誰もいない図書館に響き渡る。
少年の荒い息の音が聞こえてくる。

少年の顔が、ひきつった。


そして、あたりを見回して、頭を掻いた。
とても、いたたまれない表情をして。

「トイレかと思いました・・・」


そんな、セリフと一緒に。


少年は方向転換してすぐに入口から逃げるようにして去っていった。



え・・・?



「・・・やっぱりか。おじさん、幻覚を見ていたんだ。」
「どうなってるの・・・?」


状況がつかめない。
記憶がないだけに、余計理解が追い付いていない。


一瞬だけ、周囲が真っ暗になって、立体映像はまた元の図書館に戻る。

相変わらず、図書館の中は誰もいなかった。


入口の戸が、小さな音でゆっくり、ゆっくりと開かれる。
そして、中からさっきの少年、すなわち過去の俺が中を覗き込む。


少年は口が半開きになっていた。


目が点になっていた。


一体、何を驚く事があるのだろうか。
だって、少年はさっきと同じ空の教室をのぞいて。


同じように驚いて。


困惑していると、映像の少年は図書館の中に入り、壁の近くに駆け寄った。


「・・・何してんだお前。」


!?

あろうことか、少年は壁に向かって話しかけた。



「そりゃ、気絶してるんだから吐くものも吐けないわな・・・
 って早く放せ!!本当に死ぬぞ!!お前の腕力で加減できるわけないだろうが!」


「え・・・?」

横のヒカリは、険しい表情でその様子を見守る。


少年は、さっきから何かに向かって話しかけている。

そこには誰もいないのに。

少年の奇行は続く。
腕を組んで、考えごとを始めたのだ。


・・・そして、少しすると、また別の方向を向いた。

「あんたのせいだったのか・・・」

そうつぶやいた。
明らかに誰かに、語りかけるように。

普通の行動ではなかった。

これは一体・・・


「おじさん・・・この後、何かがあるよ。」


そして少年はしゃがんで、両手を床の方に差しだした。

「とりあえずヒカリを涼しいところに運ぼう・・・。」


まるで取り憑かれたかのように、不可解な言動を繰り返す過去の俺。




しばしすると、少年が、顔を上げた。
その瞬間に、どんどん顔が引きつっていく。



やがて、時間が凍りつく。

少年の不安そうな表情から、だんだんと色が抜けていった。


少年は、とうとうこの世の終わりを悟った。
絶望の表情で、周囲を見回す。

もう一度正面を見て。



少年の手が震えだした。


「嘘・・・だろ。」



広い図書館で、そんな呻きが少年の口から洩れる。


少年の目を伝う涙は、頬、顎。

床。


とめどなく、涙は落ちる。





ほどなくして、表情を失った蝋人形が、その場で溶けた。
その両手は、何かを握っているような素振りだった。

手が、歯止めが利かないほどに痙攣していた。




「助けて・・・」





その一言を最後に、少年は糸が切れたように、床に崩れ落ちた。



世界が真っ暗になった。



・・・次の瞬間には、景色はあの夕暮れのコンクリートの道に戻っていた。


呆然とした表情の彼我さんと、険しい表情をしたナズーリンさんもすぐそばにいた。
そう、さっきのはヒカリが見せた、過去の出来事だったのだ。


あの時、あった事。



「・・・助けて、あの時そう言ったから・・・」

彼女に関する記憶が消えたのは、あそこ。
願ったのは、きっと、誰かを助ける事。

つまり・・・

「そうですね・・・これで原因がはっきりしましたね・・・。」



誰かなんて、わからない。
あの時の俺は名前なんて言っていないからだ。


でも、あれが誰の幻覚かなんて、すぐにわかってしまう。


そう・・・。



「助けたいと願った人との記憶を全部、消しちゃうんだな・・・。」



夕闇が深くなっていく中、ナズーリンさんがぽつりと、そう呟いた。


つづけ