東方幻想今日紀 百六十二話 もう君の目に私は映らない

「・・・。」


目蓋を開けると、鋲の打ってある白い天井。
重力が、身体全体にのしかかっているのを感じた。


ゆっくりと身体を起こすと、たまっていた涙が頬を伝った。


でも、どうして俺は泣いているんだろう。
寝起きに、目に涙でも溜まっているのだろうか。


柔らかい布団。薄暗い個室。


俺がここにいる経緯は思い出せないけれども、
ここが保健室だという事はすぐにわかった。


「・・・具合でも悪かったのかなあ?」


そんな事を呟くと、個室を隔てるカーテンの奥に人影をみつけた。
そして、その影がゆらりと動いた。

次の瞬間には、シャっという音と一緒にまぶしい光が入ってくる。

「う・・・」

「よかったぁ、目を覚ましたんだね。」



柔らかい優しいような、安堵したような高い声が耳を優しく撫でた。

薄眼を開け、だんだん明るさに目が慣れてきたところで、
その声の主は近くにいるであろうことが確認できた。


目の前には、見慣れないネズミの耳を付けた制服の女の子がいた。
髪の色はダークグレー。コスプレ用のウィッグだろうか。

何が起こったのかまったく理解できなかった。

そのカツラ、ウィッグはどうしたのだろうか。
どうして俺の知らない、そんな女の子が、俺を心配するのだろうか。


唖然としていると、もう一人のお姉さんが女の子の横から顔をのぞかせる。
ほとんど顔を見る事がないが、保健室の先生である。ツリ目美人である。

「目を覚ましたのね。もう放課後よ。早いところ下校の準備をしなさい。」

顔と反することなくきつい口調だった。

「本当にすみません・・・ありがとうございました。秋兄いこう。起きられる?」
「うん・・・。」


寝起きで鈍った思考が錯綜する。

秋兄。

忘れられていた妹、幻想郷での俺、いずれもの小春が俺を呼ぶ時の名前。
俺にはもう一人妹がいたのか。


いかん。俺の妹は中二病と公共コスプレ。ろくなのがいない。

・・・違う違う。中二は幻想郷のあいつだった。
俺のもう一人の妹はごくごくまじめだ。いや違う嫉妬キラーマシンだった。

・・・本当にろくなのがいないな。


もう、何が何だか分からなかった。

秋兄と呼んだネズミ耳の女の子に助け起こされ、俺はベッドから降りた。
よく見ると彼女は尻尾もあった。

別段具合悪い風もなく、普通に歩けたが、彼女の心配が若干うっとうしい。

「失礼しましたー・・・」
「失礼しました。」

保健室の戸を静かに閉めると、薄暗い夕日が差しこむ廊下に静寂が訪れる。
空気を吸うと、まだ五月だというのに喉を冷気が掻き撫でる。

それとなく名前を確認しないと・・・妹というのは妹と呼べないから厄介だ。
姉ならお姉とかお姉ちゃんでいいのに。


「・・・まったく本当に心配したよ。君は図書館で倒れていたんだぞ。」
「・・・図書館で倒れていた?」

二人きりになると途端に妹の声が三段くらい低くなった。
というか、明らかに口調が変わった。

さっきまで、妹は猫をかぶっていたのか。
にしても漫画に影響されたような口調。小春を思い出す。幻想郷の方ね。

「そうだ。ここまで運ぶのは苦労はしなかったが・・・一体何があったというんだ?」

心配そうに尋ねる彼女。
だけど、凄くどうでもいいことかもしれないけど、どうしても気になる事。

「・・・ごめん、まずその口調を直してくれない?」

「え・・・?」
「え?」

彼女はそのままの表情で固まっていた。
まるでご飯を食べていたら
「どうしてご飯を食べるの?」とでも尋ねられたような顔だった。

彼女は数回まばたきをした。

ごくりと固唾をのむ音が聞こえた。

「・・・あ、ああ、そうだな。まだ誰がくるのかわからないからね?」

彼女はしばしの間黙ると、取り繕うように不自然な上げ調子の高い声で言った。
彼女の言っていることが何一つ理解できなかった。


もう、俺はそれ以上何も言わずに、首を縦に振った。






「ねえ秋兄、もう人もあんまりいないし、良いんじゃないかなー?」
「え、何が?」


帰り道、二人で家路を二人で歩いている時だった。
彼女がこんな事を切り出す意味がわからなかった。

何がいいんだろうか。

「ほら、だってこんな口調でずっといるの疲れちゃうし・・・」

これが普通である。むしろあんな高圧的で芝居がかった口調の方が疲れそうだ。

「いやー、そんな事ないでしょ。」
「・・・は?」

・・・彼女の眉がつり上がった。
かなり低い、寒気のするような声が彼女の方からした。

「えっ・・・」
「いくら何でも、さすがにもうばれないでしょう?」

彼女が無表情で俺に詰め寄る。
わけがわからなかった。

さっきから、誰なのか、何を言っているのか。どういう状況なのか。
ここは夢なんだから、なんでもありなのか?

こんな時、彼我さんがいれば・・・


「はーいストップ。どうしたんですかー?」
「なんでそんなに間がいいんですかあんたは。」

二人の間に紫のワンピースの彼我さんが割って入る。

たぶん彼女は○ン○ン○ンや○ル○ラ○ンよりも駆けつけるのが早い。

ネズミの妹が彼我さんに訴える。

「リアがおかしいんだ・・・私に従順な妹でいろと強要するんだ。」
「でっ・・・!?えっ・・・?」

ま、まて。いつから俺はそんな変態兄貴になったんだ。誤解だ。
しかもまた声の高さが低くなってるし・・・。

「リアさんは変態ですから仕方ないですよ・・・」
「殺しますよ?」

彼我さんは彼我さんだった。
よってたかってこいつらは・・・


呆れながら彼女を見ていると、朗らかだった彼我さんの表情が凍った。

「・・・。」

どうしたんですかと尋ねたいが、
彼女に質問しても明確な答えが返ってくるはずがない。
偽物なら、返って来るけど、目の前の彼女は本物である。

思わず、三人で黙りこむ。


女の子は困惑の表情。
俺は緊張の表情。
彼我さんは、凍りついた表情をしていた。


最初にその沈黙を破ったのは、彼我さんだった。

「リアさん、ひとつだけ確認してもよろしいですか?」
「・・・はい。」


こんな表情の彼我さんは初めて見た。
苦悶に満ち満ちていたのだから。


長い長い沈黙、じれったくなりそうだった。


彼我さんが、ゆっくり重い口を開いた。


「・・・さっき、図書館で何があったんですか?」
「図書館?」


質問の意味が全く汲み取れなかった。
どうして、こうも彼女たちの言っている事がわからないのだろう。


そもそも俺は図書館になんて行っていない。

・・・待てよ、そういえばネズミの女の子は図書館で倒れていたと言っていたな。


「いえ、言わなくてもいいです。思い浮かべればわかります。
 で、その時の・・・記憶が無いんですね。」

俺は小さくうなずいた。


ネズミの女の子を見ると、口許が小さく震えていた。
落ち着きなく、耳と尻尾が動いていた。

ここで、俺はその異変に気付いた。


この女の子、何か・・・気付きたくない何かに気付きかけている。
でも、それを受け入れようとしていない。

受け入れられないのだ。




・・・ああ。




そういうことか。




きっと・・・彼女は、俺の知っていた、人だったんだね。





ごめんね。本当に、ごめんね。



でも、わからない。


思い出せない。


ごめんね。



視界がぼやけてきた。
何もかもがかすんで、ほっぺが熱くなってきた。


「・・・リアさん。最終確認です。」

俺は、三回も四回も首を振った。


ほとほとと、涙がコンクリートにしみこむ。


ナズーリンという名前を・・・覚えていますか?」


聞き覚えのない文字列。
言われた名前を言えと言われても無理だ。

ナザ・・・リン?

・・・たぶん違う。









縦にも横にも、首を振る事ができなかった。


ただひたすら、手だけが震えていた。




ひたすら、とめどなく、涙だけが、ほほを伝って。顎を伝って。


ごめんね。ごめんね。


ごめん。


俺が、俺が・・・


「いいんだ・・・リア、いいんだ・・・。」
「よくないっ・・・よくない・・・よく、ない・・・」


女の子が、俺に駆けよって。

背中に、優しい手の感触が伝わって。

優しい、潤んだ声が耳を撫でて。


もう、我慢なんかできなかった。
自分を抑えられなかった。


「教えてっ!!!お前にとっての俺は・・・誰だったんだよっ・・・!!」

思わず、彼女の両肩を掴んで、叫んでいた。

はあはあと荒い息が、涙と混ざって、暗い夜を作っていた。
夕日は、もう沈みかかっていた。




「・・・リアは、リアだ・・・。
 たとえ、私を覚えていなかったとしても、君は・・・君だ。」

彼女は、涙の引っかかる声で、それだけ言うと、俺の頭に手を置いた。

優しい小さな細身の手が、ゆっくりと髪の毛を梳いていく。



涙腺という蛇口がもう壊れていた。
そこだけ、雨が降っていた。



すごく大切なものを失ってしまったような気がした。


忘れてはいけない人を忘れてしまったのかもしれない。


彼女は、ほうと小さなため息をつくと、遠い目で空を見つめた。
その様子が、胸を刺し貫いた。



ただでさえかすんでいるのに、彼女を正視できなかった。


このまま・・・死んでしまおうか。
そうすれば、彼女はもう悲しまなくて済むのかな。




・・・そう思った瞬間だった。


小さく、荒い息が少し遠くで聞こえたのは。



「・・・何ですか?あなたは。」

彼我さんの冷たい声が、そこに向かって投げられた。



「やっと見つけた・・・おじさんっ!!」


・・・!


振り返って声のした方向を見ると、肩で息をしていた少年がいた。
紺色の髪の毛、白いウサギの帽子。


・・・紛れもなく、ヒカリだった。








つづけ