東方幻想今日紀 百五十三話 長い悪夢の始まり

ああ、また朝が来てしまった。

かつては見慣れていた、天井の木の板目。
だが、どういった訳だろうか。

安堵というか、懐かしさと言うのか。

そういった類の感情が、まったく湧いてこないのだ。
ここは、俺の記憶から再現されていたものだ。

そう、俺は今、自分の記憶の中の現代にいる。
あの時の状況と同じである。

花は育つし、お腹も減る。
地球は回るし、星はきらめく。
物はいつか壊れてしまう。


唯一違うとするのならば、俺が本当の意味で死なない事だろうか。
ここは精巧な、空虚の世界。

でも、記憶の中なのだから、懐かしく感じるはずなのに。


俺は少しばかり、幻想郷に長く居過ぎたようだ。

だからこそ、こうやって彼我さんが頑張ってくれているのだ。
恩返しのためとはいえ、命削るレベルの大仕事だ。

頭が下がると同時に、感謝の念を覚えざるを得ない。

ふっと仰向けになりながら、天井に向けてため息を漏らすと、
ふと小さな吐息が耳元に当たるのに気付いた。

・・・なんだ、深水が今度は横で寝ているのか。
俺の精神衛生上よくないから、早いところベッドから立ち去ろう。

でも、この匂いはどこかで・・・?


腕を横にゆっくり倒して、顔を傾けた、その瞬間だった。


「・・・!!?」

視界に入ってきたのは、しっとりと閉じられた目蓋。柔らかそうな灰色の眉。
ちょっと広めの、髪が跳ね上がった時に見える、すべすべの額。

・・・そして、下を見た瞬間に、
俺の視線を釘づけにしたのは、柔水を含んだ、弱く閉じた唇だった。

呼吸が止まった。

心臓が、引きつけるような痛みに襲われた。

間の前の光景を、ただただ肯定していた。
だが、何もできなかった。

何か強い力が、何もさせなかったのだ。

これは夢だ夢だ夢だ夢だ・・・・。
夢だから、夢だからっ・・・。

「夢の中で、何かを恐れるのは、男らしくないですよ。」

頭上から響く、彼我さんの声。
そうだよ。

ここで引くなんて、男じゃない・・・。

彼我さんが言った通り・・・ん?


顔を上に向けると、頭上にあの顔があった。
天井からぶら下がるようにして、その姿は楽しんでいるように見えた。


って・・・


「あんた、何してんですか・・・」
「あらら、気付かれちゃいましたか。あとちょっとだったんですけどね・・・」

自分の顔は、よく引きつっていたと思う。

「んっ・・・?」

俺があわててベッドから飛び降りると、
彼女は眠そうに目を擦って、片目をやぼったく開いた。


「これはどういった悪意なんだろうなあ・・・」

彼我さんに耳打ちをすると、彼女は袖を口にあてて、顔を伏せった。

「うふふっ。本物ですよ。安心してください。」
「なーんだ、やっぱりほんも・・・本物ぉっ!?」

俺が思わず叫ぶと、彼女は屈託のない笑みを作った。

「やかましいですね、消しちゃいますよ?」
「ご・・・ごめんなさい・・・。」

その満面の笑みがあまりにも怖いので、思わず黙ってしまった。


「リア、彼我、ここはどこなんだ・・・?」

まだ夢心地のような、ボーっとしたようなナズーリンが、
女の子座りで、こちらを見つめてきた。

思わず、言葉に詰まってしまう。


・・・目の前の、彼女は、本物・・・。
考えたい事は、たくさんあるが、無駄だ。
ここは俺の世界だが、同時に彼我さんの世界でもあるのだ。

たとえるのならば俺がディスク、彼我さんがPCなのだろう。

彼我さんが嘘をついていないのはほぼ確実だ。
・・・とりあえず、今は彼女に現状を伝えよう。

彼女の前に寄った。

「あのさ・・・ここ、現代の世界なんだよ。
 うまく言えないけど、俺が今までいた場所なんだ。故郷だ。」

「そうか・・・。」

彼女に話しかけると、不思議と気持ちが落ち着いた。
ナズーリンはあたりを見回すと、深いため息をついた。

「・・・君といると、退屈しなくていいな。」

感慨深そうにそれだけ言うと、彼女はベッドから降りた。

「さて・・・私はこれからどうすればいいんだ?」
「あ、うん?・・・ああ、まずは下の階にいこう・・・」

俺は困惑しながらも、彼女と一緒に一階に降りることにした。


想像していたのと違った。

普通は困惑したり、現実逃避するのだろう。
だけど、彼女はいたって落ち着いていた。


適応力が途轍もなく高いのだろうか。
だとしたら、今の俺なら、納得できる。

だって、俺も妖怪なのだから。

そんな言葉で済ませてもいいのか、甚だ疑問ではあるが、いいのだ。



だって、俺も妖怪なのだから。



「秋兄、お姉ちゃんも起きたんだね。」
「「・・・うん?」」

下に降りると、妹が駆け寄ってきた。
ナズーリンと俺の疑問を含んだ声が、重なる。

妹はきょとんとした。

「・・・え?」


一体こいつは何を言っているのだろうか。
お姉ちゃんって・・・どう考えてもナズーリンの事だよね。

ナズーリンとお互いに顔を見合わせると、
とりあえずアイコンタクトで成り行きに任せることで一致した。

「とにかく、二人とも座るんじゃ。ご飯じゃぞ。」

向こうからは当たり前のように食卓に座っていた、幼女深水がいた。

「ああ。すまないな。ほら、秋兄も。」

ナズーリンの環境適応能力には驚かされるばかりです。
さすが人類が滅びても生きているであろう生物。侮れない。

というか、彼我さんはナズーリンを妹に設定したのね。
年齢の関係から、お姉さんかと思った。

ナズーリンがお姉さん・・・ごくり。

いかんいかん。こんな事を考えている場合じゃない。

こいつらは・・・もうすっかり東雲家に溶け込んだつもりか。
甘い、甘すぎるわ・・・。


ナズーリン、深水。俺の名前をフルネームで言うんだ。」

ぶちのめされそうな予感もするが、ちょっと意地悪してみた。

だって、普段二人とも俺の事をリアと呼んでいる上、
本名を聞く機会すらほとんどないはずだ。

・・・えっへん。

俺だって、うろ覚えだ。詰まるに違いな・・・

「「東雲晩秋」」
「ぐふぅっあ」

・・・うん。うん。すごいね。
なんでやねん。

「馬鹿を言うな。そんなもの、常識だろう?」
「くっ・・・」

食卓ではお父さんとお母さんと、妹が首をかしげていた。

しまった。ぼろを出しちゃいけないんだった。

「まあ、寝ぼけた秋兄は放っておいて、さっさと食事を済ませてしまおう。」

俺のあわてた表情を見透かしたのか、
人の家で口裏を合わせだすという恐ろしい事をやってのけた。

しかも、得意そうなウインクと一緒に。

彼女はもし明日から俺と入れ替わってもつつがなく人生を全うできそうで怖い。

「そうじゃな。秋兄の阿呆は朝食抜きじゃな。」

そして深水は毒舌というレベルではなかった。
俺は苦笑いで、頭に大量の疑問符を浮かべながら、ゆっくりと二人の間に腰を下ろした。


ご飯を食べると、三人で一緒に買い物に出かける事になった。
もちろん、積もる話をするので、あの三人である。


「・・・いやあ、人が凄いな!しかも明るい!うわ、何だこの魚は!」

スーパーに着くとナズーリンは軽く跳ねていた。
目もキラキラさせていて、すごく興奮しているようだった。

尻尾も、ワクワクしているようにふりふり動いていた。

棚をあっちへこっちへ移る彼女の姿は、普段の姿とはあまりにも違っていた。

どうしよう。ここ、人目が多いからなあ・・・。

思わず手が震えるのを抑えなきゃ。胸が苦しい。顔が熱い。
やばい。彼女を止めたいけど今彼女に触ったら俺は社会的に死ねる。

いや、でもここ夢だし。めっちゃ夢だし。旅の恥はかき捨てって言うよね。
でもしっかり牢屋にはぶち込まれちゃうし。

壮絶な振れ幅の、貴重な正負の体験を二ついっぺんにしちゃう事になるよ。

やばい。やばい。どうしよう。かわいい。
だれか、俺を助けて。

「人多いのう・・・」
「ありがとう、深水。」

地の底に響くような、舌打ちの響きによく似た小さな声で、俺は我に返れた。
気が付くと、彼女は俺の後ろにこそこそと隠れていた。

「何してんの。」
「怖いのじゃ。」

そっか。深水は人混みが苦手なのか。
まあ、この時間はちょっと込みがちだよね。

ナズーリン、戻ってきてー・・・」

すこし押さえ目の声で言うと、彼女はそのままの笑顔で早足で戻ってきた。

「リア!ここ、すごいな!」

困ったなあ。彼女の笑顔を正視できない。
というか、耳をくすぐるその弾んだ声がやばい。

・・・こうなったら、仕方ない。

「うん。すごいね。俺も初めてだから・・・。」

大嘘である。

「そうか。じゃあ、わからない事があったら何でも訊くといい。
 君は実に無知だからなあ、教える事はいっぱいありそうだよ。」

「はいはい。」

まだ声は弾んでいたし、いつもより二割増しで口が悪いけど。
やっと、いつもの調子を取り戻せた。

「む・・・さすがに、それは言いすぎじゃろう。
 リアは仮にもここの者じゃぞ。だいたい、お主は奢り高すぎるのじゃ。」

一息ついた瞬間に深水が前に出て、ナズーリンに突っかかる。

うお。これはめんどくさい。
気付いてくれ。ナズーリンは本心で言ってない。

「・・・はん、君に何がわかるというんだ。
 リアはよく途轍もない失敗をするんだ。おまけに、記憶が薄い。」

ほ、本音じゃないよな?・・・な?

取り繕うとした瞬間に、深水が大きく息を吸い込んだ。

「ほほう。まあ、その様子じゃとリアに嫌われるのも時間の問題・・・」

「・・・おい、深水ッ!!!」


俺が思わず声を上げると、耳を張るほどの静寂が訪れた。
・・・次の瞬間に集まる、大量の視線。

二人とも、言葉を失っていた。

俺は、自分が思った声よりも数倍の大音声を発したらしい。


少しの間をおいて、深水の目が、潤み始めた。
頭の中の警告音が、やかましく鳴りだした。


自分のしたことに気付いた時には、もう遅かったのだ。


「・・・儂が、モノじゃから・・・悪いんじゃな・・・。」

彼女が、小さな声でそうつぶやくと、うるんだ瞳から、わっと涙がこぼれた。

言葉が、出てこない。

「刀なんて、所詮は・・・道具・・・じゃものな。」

「ちがっ・・・」
「じゃが、お主は、儂が見えておらんのじゃ・・・
 使うだけで・・・儂を、見ようともしない・・・。」

小さな白い両の手を顔に、泣きじゃくる深水を前に、だれもが動けなかった。

「もう、使命なんぞ・・・果たせそうにあるまい・・・
 儂は、その器ではないのじゃ・・・神様、申し訳ない・・・」


それだけ言うと、深水は手を下ろして、外に走り去ってしまった。

彼女が移動する時間はひどく短かったわけではないが、
気が付く頃には見失っている程度には、わずかな時だった。

冷や汗が、顎を伝う。

視界が、全てをとらえて、どこにも集中しなかった。


「リア、追うぞ・・・」
「嫌だ・・・」

しばらくして、周囲がざわつき始めたその直後、やっと彼女が発した一言だった。

「・・・とにかく、追うぞ。」
「ごめん。」

頭がまっしろで、何も考えられなかった。
彼女の声を否定することしか、ただそれだけしかできなかった。


次に、頭の中で噴き上がる感情といえば、
真っ黒で、ドロドロな自己嫌悪。

もう、頭蓋骨の中はそれでいっぱいだったのだろう。


視界が歪んで、かすんで。吐き気さえしてきた。


また、大切な何かを・・・失ってしまうなんて。
俺は・・・最低だね。


またか。


まただよ。


ま・・・


「・・・おい、リア!?」


冷たい床には、少女の切迫した、聞こえない声が響いていた。




つづけ