鼠色のほろ苦いチョコレート 転

「ご主人様っ・・・!!」

息せききって、広間のふすまをスパンと開け放すと、
唖然としたご主人が、そこに座っていた。

きょとんとしたような瞳が、余計に私の胸を締め付けた。

でも、今の私にためらいなんていらなかった。

「・・・どうしたんですか?」

彼女のそばに走り寄って、手に持った、白い箱を差し出す。
蓋も包装もしていない、むき出しの黒い塊が、その中に。


彼女はそれを見ると、首をかしげながらそっと受取った。

「これは何ですか?」

「食べ物だ。」


裏返りそうな声を押さえて、平静を装うように言葉を紡ぐ。
いきなり、こんな黒い塊を渡されて、食べ物と言われて。

どうして私は本当にしたいことができずにいるんだろうか・・・。
今の私は、かっこ付けている場合ではないのだ。

普段の感謝を、ここで伝えなくては・・・。


「ご、ご主人様。」
「ん?どうしましたか?」

彼女が無垢な瞳をこちらに向けてくる。
彼女の迷いのないその手は、もう箱の中を取り出そうとしていた。

伝えるんだ。

何をためらっているんだ、私は・・・。


「こふ、その・・・いつもの感謝の気持ちだ。」

軽く咳払いして、下を向いて彼女に言葉を投げる。

・・・だったのだが。



私の頬に、暖かい手のひらが触れた。

ナズーリン、ちゃんと私の顔を見てくださいね?」

優しい声と一緒に。


顔を上げると、慈を顔いっぱいに湛えた、毘沙門天の姿がそこにあった。
心が、一瞬で洗われていくかのように。

君は、私にとってここまで大きな存在だっただろうか。



危うくしゃくりあげてしまいそうだった。
自分の小ささに、彼女の大きさに、絶句してしまった。

私が言葉を取り戻すのに、しばしの時間を要した。

彼女の澄んだ瞳を、今度は正面に見据えて。
もう、目を背けたりなんかしない。

小さく息を吸って、もう一度。

「その・・・いままで、ありがとう。これからも、お世話になる。
 どうか、その気持ちとして渡したそれを食べてくれないだろうか・・・。」

祈るように言葉を紡いだ瞬間、彼女の表情が緩んだ。

「じゃあ、取り出し方を教えていただけませんか?」
「・・・ああ。」

私がこんなに表情が緩んだのは、きっと久々だったのだろう。

チョコレートの取り出し方を教えると、私は台所に戻って、料理を作りはじめた。



だけど、昼食を食べ終わってしばらくしたご主人様は、どうも変だった。

やたらと水を飲むのだ。
長針が一周する間には、五回は水を飲んでいた。

あまり気分もすぐれないようだった。

最初は気のせいだと決めつけていた。
本人だって、疲れがたまっていると言っていた。

むやみに心配しても、彼女に失礼だろう。



そう思って、あえて放っておいた。


「それにしても、相変わらず素直じゃないんですね。
 結局僕もおこぼれをもらえませんでしたし・・・。」

お昼が終わり、自室にて、物欲しそうに灰色の腹に手をやる私の相棒。
確かに、彼の事を完全に忘れていた。

「ぐちゃぐちゃ言うな。仕方ないじゃないか。私はああいうときは周りが見えないんだ。
 ・・・って、何だその目は、まるで小心者とでも言いたいのか?」

私がそう問い詰めると、彼は私から軽く目をそらした。

「な、何でそうなるんですか・・・
 僕はただ、隊長の手作りがもらえないなんて残念だなあって。」



「・・・すまない。」

はっとした。彼にあたっても、仕方ない。
やり場のないきまり悪さを、彼にぶつけてしまった。

これでは、八つ当たりじゃないか・・・。

「でも、よかったじゃないですか。おいしそうに全部食べてましたよ。」
「・・・ん。見てたのか。」

自己嫌悪に陥っていると、不意に彼は取り繕ったように言った。
そうか。彼はあの後ご主人様と一緒にいたのか。

「どうしてその時にもらってこなかったんだ?」

私が怪訝そうに問い詰めると、彼は小さく首を振った。
「そんなこと、できませんよ。あんなに大切そうに食べてましたもの。」

いじらしそうに言う彼の様子を目の当たりにして、言葉を失ってしまった。

ご主人様は、私のあげた、見知らぬものを大切そうに食べてくれたのだ。
私の相棒は、その様子を見て、わざわざ介入することなく、我慢してくれたのだ。

「・・・どうしました?」
「いや、なんでもない。」


私がした気遣いは、果たして正しかったのだろうか。

部下なら、心配してあげるべきではなかったか。
経過をもっと丁寧に観察すべきではなかったのか。


・・・人間から、もらったものなのだから。


だが、その無駄な気遣いが裏目に出たのだ。


その事件は、私が風呂に入ろうとした時に起こっていた。

ご主人様が風呂に入って、かなりの時間が経っていた。



「ん・・・?」

もう上がったのだろうと踏んで、脱衣所に行くと、彼女の服はまだあった。
彼女が風呂に入ったのは、夕食後である。

しかも、彼女は夕食をほとんど食べなかった。
食べたふりをしていたのを、よく覚えている。

いや、食べたには食べたのだが、その後、全て厠で戻していた。


今はもう深夜である。
深夜にこっそり一人で入ろうと思ったのだ。

かなり雑に置かれているその服は、一種の恐怖を私に植え付けた。

彼女は、几帳面なのだ。

服をたたまないなど、ご主人様の行動としては、ありえないものだった。


私は賢しいという自覚を、普段あまり感じる事はない。
だけど今日だけは、その性分が恨めしく思えた。

なぜなら、今正に起こっているであろうことが、容易に想像がついてしまったからだ。


もう、矢も楯もたまらなかったのだ。

「ご主人様っ!!」


風呂の戸を勢いよく開け放すと、そこには予想通りの、凍りつくような光景ではなかったものの。

顔面蒼白で、頭を抱えるようにして湯船に浸かる女性。
呼吸はかなり早く浅く、こちらを振り向く気配もないほど衰弱していた。

急を要する事態である事には、変わりなかった。

急いで彼女のしっとりと熱い身体を湯船から引きずり出す。
濡れた彼女の肢体は重く、ほとんど重力のままだった。

ひとまず毛布を彼女に巻きつけ、そのまま暖房のある広間まで運んだ。

彼女の目蓋は、固く閉じたままだった。


・・・時計の針を刻む音だけが、広間には淡々と響いていた。

外は既に静寂に包まれていて、真っ暗である。
ただ、時が経つにつれ幾分か顔色は良くなってきている。

呼吸も、徐々に深くはなってきているものの、
目を覚ますような気配はまだ見出せない。

「星様、どうしたんでしょうか・・・」

沈黙に耐えかねたのか、不意に横でずっと固唾を飲んでいた相棒がぼやく。
恐らく、わかっていたのだろうが、訊かずにはいられなかったのだろう。

「決まっている。毒だ。」

・・・人間なんて、信用するものではなかった。
あの傲慢な人間を、少しでも信用したせいで、ご主人様がこんな目に遭ったのだ。

私は怒りは抱いていたが、気持ちは静まっていた。
深い深い、凍てつくような静かな怒りが、芯から私を凍りつかせていったのだ。

「・・・あんな笑顔で、毒を渡せるもんですかねえ。」

「人間は、私たちを恨んでいる。私たちも、人間は嫌いだ。
 だから、少しでも踏み入れるべきだはなかったのだろうな。だから、こんなことになる。
 普通、私が誰かに何かを渡すとしたら、同族のネズミに渡すと思うだろうしな。」

「隊長、顔が怖いです。」
「元々だ。」

恐ろしいほどに、今の私は饒舌だった。
頭が冴えて、仕方がない。

不幸中の幸いで、ご主人様はきっと、このまま意識を回復するのだろう。
私よりも体躯が大きく、体の強いご主人様を殺すには至らなかったのだろう。

だが、一歩間違えば、彼女は命を落としていた。

少なくとも、あのまま私が見つけていなかったらと思うと・・・


小さくため息をついて、毛布にくるまって横になるご主人様に目をやる。

すると、強張っていた顔が綻ぶのが自分でもわかった。
彼女の呼吸は、深く重い呼吸から、すうすうと軽い寝息に変わっていたのだ。

私とした事が、たったそれだけで口角が緩んで、目頭が少し熱くなってしまった。

「・・・もう、山は越えましたね。」
「ああ。」

横の小さな相棒も、軽く鼻を動かして、へたっと座りこんだ。

「・・・君も、緊張していたんだな。」

馬鹿にしたように、彼に話しかけるとこちらを真剣な表情で見据えた。

「あたりまえですよ。万が一があったら、隊長は・・・」
「はいはい、わかったから。まったく、君は心配性だなあ。」

苦笑しながら、ほぐれたやりとりを交わす。

ご主人様がこれ以上どうとかは考えたくはない。
もう、助かったのだからそれでいいのだ。

ありがとうという言葉を呑み込んで、私は彼の頭を軽く小突いた。
彼は一瞬顔をしかめた後、鼻をひくつかせながら目を細めた。


・・・もう、こんな時間か。

大きくため息をつくと、小さな相棒は私の袖を引っ張った。

「ん、どうした。」
「・・・これでもうゆっくりと眠れますね。」

安堵したように言った、その言葉で、私ははっとした。

・・・まだ、終わっていない。


私の中で燻っていた火は、再び炎となる。


「・・・このままでは、余計に守矢神社を付け上がらせるだけだ。
 もう二度と、こんな瀬戸際を味わいたくない。責任は私たちが取る。」


小さく胸の前で拳を固めると、相棒は私の手の甲をつついた。

「あの、もしかして。」


「・・・ああ。ネズミの恐ろしさを、見せつけるんだ。」


私の言葉を聞いて、一気に相棒は顔を曇らせた。
それとは裏腹に、私の中では、しきりに青い炎が火柱を上げていた。



外の夜闇は、暗く重かった。


つづけ