東方幻想今日紀 百三十八話  生きていれば、きっと

もう、あの二人はいないんだ。

片方は、救えたはずの命なのに、俺が奪ってしまったんだ。


・・・俺が。





あれから、一週間が経った。


どうにも、寝ても覚めてもあの光景は忘れられないらしい。


水風船を割るかのような、あの感触は
今も生々しく手と頭にこびりついているのだ。


・・・ナズーリンに、それを見られてしまった。
彼女の、あの目を俺は忘れはしない。



何をする気にもなれず、ただ起きて、食べては寝る。
この一週間というもの、そんな廃人のような生活を送っていたのだ。

・・・しかし、そのどれもが満足にできたことなどあるだろうか。

起きるにしたら、うなされて起きる。
食べるにしたら、物がのどを通らない。
寝るにしても、明日が怖かった。夢を見るのじゃないかと怖かった。

執筆など、もちろん手付かずの状態だった。

何をするでもなく、こうして毎日迷惑をかけて。
ただの寄生虫だろうか。

生きているって、なんだろう。
どうして、人を殺してまで生きている必要があるのだろうか。


しまいには、夢にも現にも、そんな事を考え出す始末だった。


・・・鬱だったのだ。


死のうと思っても、その気力すらわかない。
勇気が無いのではない。何かをする気が起こらないのだ。


立つのも座るのも辛い。
かといって、眠るのも辛い。
誰かに話しかけられるのは辛い。
返事もしない自分が辛い。

生きるのはもっとつらい。
でも死ぬのは、面倒くさい。

因果だ。


・・・そんな自分が、恨めしい。


あの時、寺子屋で休みを取るのではなくて、辞めてしまえばよかったのだ。
そうすれば、こんな状態の奴を、誰もただ来るのを待ち望むこともないのに。


・・・いや、それも独りよがりだろうか。


本当に、俺を必要としてくれる人なんて、いるのだろうか。
少なくとも、教師としての俺を求める奴は、いるのだろうか。


決まっている。いない。


人の事情を考えず、自分だけを正当化しようとして。

人の気持ちも考えず、自分の心だけ清めようとして。


どうして、こんな奴が教師としての誇りを持っていたのか、疑問で仕方が無い。


気が付くと、顔が涙でぐちゃぐちゃになっていた。

このところ、ずっとそんな状態だ。
ふとすると、泣いている。

だんだん、そんなことも慣れてきたのだが。
拭くのが面倒くさいと思うようにすらなってきた。

でも、泣いているところを見られたくないという、
ほんの僅かな恥は、まだ持ち合わせている。

それも、俺を引きこもらせている原因の一つかもしれない。



もう、全てが嫌なのだ。



天井を見つめながら、そんな事を考えている最中だった。
控えめなノックの音が、扉のほうからした。


・・・ぼんやりと扉を見つめる。



今入ってこられても困る。
どうせ、こちらから返事をしなければ引き上げてくれる。

三日前も、そうだった。



無視するつもりはないのだが、今の俺は、話した人を陰鬱にさせる。
俺なんかと話させては、かわいそうだ。

俺なんかのために傷ついて欲しくないし、手を煩わせたくない。


・・・だから、涙を拭く気にもなれなかった。



そんな事を思った矢先、扉がバンと開いた。
そして、黒い直垂の猫耳の少女が入ってきた。

後ろから、身を縮めたののも入ってきた。



さすがに、これにはびっくりした。


ノックが控えめだから、どうせ寅丸さんか小傘だろうと踏んでいたのに。
黙っていれば引き下がると思っていたのに。


「・・・。」


小春は、俺の顔を見ると一瞬固まった。
・・・が、何事も無かったように笑顔になった。


・・・なんだよ。喧嘩売ってるのか。
勝手に開けたのはお前だからな。


慌てて目の周りを拭った。
涙は半分乾いていたのか、べたっとした感触だった。



ののは、ずっと俺の顔を凝視していた。
・・・何だか後ろめたい、いたたまれない気持ちになった。


お前まで、俺をさげすむのか。
そう思った瞬間に、自分の心がいかに汚れていたか。


・・・こんなに、心が荒んできていたことに気付いた。


ののが、ふとこちらに近寄ってきて、しゃがみこんだ。

こちらは寝転がっているような格好だったから、少し恥ずかしかった。


「・・・だいぶ痩せましたね、晩秋さま。」


最初の彼女の一言は、それだった。
どうしてだろうか、最初はなんとも思わなかった。


・・・でも、自分のお腹周りに手を当ててみた。

肉感が薄かったのに気付いた。
あった手ごたえが、ない。

ふと部屋を見回しても、薄汚かった。
物が散らかっている薄汚さではない。

ほこりが舞っているような、不潔さがあった。

おまけに、白昼というのに布団を出して、そこでごろごろしている。


・・・自分のしていることにはっとして、俺は布団を畳み始めた。
二人は、それを無言で手伝ってくれた。



布団を畳み、元の所にしまうと、不思議と次にやるべきことが見えてきた。



「・・・小春、のの、箒。」

「はいな。」「おーおー。」


久しぶりに何かを喋った気がする。
ぶっきらぼうな言葉だったのだが、これが限界だった。

声も、何だか自分が思っていたのと違う。


こんなに低くなかったはずだ。


・・・そう思ったのは、声は掛けられるけどこちらは掛けない。
そんな不可逆的なやり取りを、この一週間というもの繰り返したからだろう。


おいしい?という高い声で質問されても、うんとも答えない。
そんな状態だったのだ。

高い声だけが、頭の中にインプットされていたのだ。


・・・いかに、自分が駄目人間だったのか。
そう思うと、またじわっと涙腺が熱くなってくる。


「だーもぉー!泣くな泣くな!俺が付いてるじゃねえか!
 ほんっと、お前らしくねえな!空はこんなに青いんだぜ?」

「・・・るさい。」


そう言って、目の前の箒を持った小春は、
直垂の袖を無理矢理こちらの目に押し付けてきた。

半分、怒ったような顔をして。



どういうわけか、もっと涙が出てきた。
今度は、止まらない。




腹が立つけど、うれしかった。



・・・俺が泣き止むまで、二人は待っててくれた。

箒を渡されて、部屋の掃除を三人で始めた。



ものの数分で掃除は終わった。
箒で隅々まで掃いて、ちりとりで集めてポイ。

物はほとんど出ていなかったから、それを片付ける手間が無かったのだ。




・・・なんだか、部屋の空気が一新されたような気分になった。


思い切り息を吸い込むと、新鮮な空気が入ってくるようだ。

・・・それもそのはず。
小春とののが窓を全て開けたのだから。



・・・頭も一新されてきた。

日の光というものを浴びると、人間という物は不思議なもので。

体内時計がリセットされると、堅い言い方をするとそうなのだが、
何だか、やることが見えてくる。


・・・こんな事をしていてはいけない。


忘れたくは無い。
忘れられもしない。

・・・でも、前を向かなきゃいけないんだ。



「・・・なあ、秋兄、頼みがあるんだけど。」

「なに。」


小春のほうに目をやると、彼女はうれしそうにしていた。
・・・生意気だな。


「今晩の夕飯の当番が俺らだから、手伝ってくれよ。」
「私からもお願いします、晩秋さま。」

にぱっと、歯を見せて笑う黒髪の少女。
かたや、明るく微笑む紺の髪の少女。





・・・あーあ。俺がいなきゃ、駄目なんだね。





・・・俺なんかでも、手伝って欲しいんだね。





「・・・俺が料理できないの、知ってるくせに・・・。」



・・・今日の俺は、いつもより泣き虫だ。
だって、また目頭が熱くなって、こぼれそうなんだもの。




「猫の手も借りたいとは、よく言ったもんだ。」

「・・・言ってくれるな、この野郎・・・。」


彼女は、うわべだけはののしった。
俺も、うわべだけは口を尖らせた。


でも、頭の中は少しすっきりしていた。




「さ、台所に来て下さい、晩秋さまっ!」

ののが元気よく、俺と小春に向かって言った。






・・・ありがとう、小春。のの。






少なくともさ、お前らは、俺を必要としてくれたんだよね。

うれしかった。




・・・台所で、野菜を押さえていた小春の指を軽く切ってしまった。
猫みたいな耳の癖に、猫の手をやらなかったからだ。馬鹿め。

・・・まあ、注意散漫だった俺も悪かったんだけどね。


おまけに、血を見ると生きている感じがするだって。
ほんと、昔の俺だった。


・・・生きてる・・・か。


生きてるんだね。




「・・・ねえ、ちょっとさ、勇気を出そうと思うんだ。」

小春の指に、絆創膏を貼りながら、ふとこんな事をこぼした。


「おう、無謀は勇気だ。無謀なお前なら、大丈夫だ!」


・・・こいつも、深水と同じことを言うんだね。
順序は逆だったけど、そっくりだ。




・・・後押し、されちゃった。









ご飯の手伝いと小春の手当てを終えると、俺は広間に足を運んだ。



・・・やっぱり、彼女がいた。





大丈夫だ、きっと、嫌われてなんかいない。

きっと、わかってくれている。





・・・そう自分に言い聞かせた。




「・・・ねえねえ!」








「ん?なんだい?」











彼女は、笑顔で振り向いた。




・・・また、目頭が熱くなった。











うれしかった。











東方幻想今日紀 三章 終



つづけ