東方幻想今日紀 百二十九話  月が落ちてきた

いつも通りの月に目をやり、また視線を戻す。

視線の先には、狼狽する狼少女。
眉根を吊り上げてて、月を睨んでいる。

俺は座り込んでいた。


というか、まともに立てない。


「・・・月がどうしたんですか?何も無いじゃないですか。
 椛さん、考えすぎですよ。たまには仕事を忘れて・・・」

「・・・かなりの速さで、こちらに来ています。」



なだめる俺の言葉を遮って、椛さんは静かに告げた。


自分の顔から、血の気が引いていくのがわかった。





「・・・あっ、リア君!!どうしてここに!?」

ふと、後ろで大きな高い声がした。


「いや、ちょっと・・・はい。」


驚いて振り返ると、
赤帽を斜めにかぶった少女が走り寄って来た。



道は見えなくなる何かを消したのだろうか。






少女の顔は直視できなかった。



返答に窮してどぎまぎしていると、優しい声が頭上でした。





「リア君、私の顔・・・見てほしいなっ。」




どきりとしてしまった。

艶っぽい声で、ささやくように。
いつもより、ちょっとだけ潤った低い声で。



ゆっくりと顔を上げると、
目の前にはいつもの丙さんの顔があった。



痛々しそうな、見ていて辛い左目。
・・・でも、目を背けるのは、もっと辛かった。


壊れた紅珠には、僅かに光が点っていた。






目の前の少女は、ゆっくりと右目を閉じた。

そして、俺の目の前に両の手を置いてぺたんと座り、にこっと笑った。


「・・・私も、頑張ったんだよっ。」



何かの感情が、胸につっかえて、言葉にもならなかった。

らしくないといえば、らしくない。


きっと、俺の右腕があったのなら、
丙さんは「私も」とは言わなかったのだろうな。




・・・でも、俺達・・・頑張ったんだよね。



俺も・・・胸張って、いいんだよね・・・。





俺はそっと薄桃色の髪に左手を置き、そっと撫でた。
丙さんは、力を抜くように目を細めた。

彼女の頭は、ふわふわだった。
癖のかかった髪の毛が、やさしく力なく手を逆なでる。


・・・軽く息を吸い込むと、いい匂いがした。


丙さんのにおいだ・・・。





頭がぼーっとしてきて、理性を失っ・・・

「・・・姉さん、恋人がいたの?」


「ぶはあ!!」


手が止まった。背筋が凍った。心臓もとまりかけた。
あと、息が大変なことに。




「・・・いやいや、ただの友達だよっ。」

丙さんがさっと俺から離れて、手をブンブンと振って弁解する。

何だか複雑な気分だった。



軽い苦笑いを浮かべる。


・・・そのときだった。






目の前の世界が、全て、横にすごい勢いで流れていった。






それは、あっという間の出来事。










・・・重たい目をうっすら開けると、馬鹿みたいにうろたえた丙さんがいた。
さっきと様子が違っている。

口はしきりに何かを叫んでいるのに、全く聞こえてこない。



首を起こして、座りこむ体制になった。

たったそれだけなのに、丙さんは目を丸くしていた。



・・・なんだか右の頬が野暮ったかった。
重くて、感覚が薄い。のっぺりしている。

はあはあと息が荒い。



自分の息だと気づくのに、少々の時間を要した。


身体全体が重く痺れているような、そんな感じ。
すごく息苦しい。

お腹の上に、大きな分銅が乗っかっている気分だろうか。




立ち上がろうとする気にもなれなかった。





あの短い間に、いったい何が起こったのだろうか?

「・・・っ!!?」


ふとした瞬間に、耳が酷く痛み出した。
あのキーンという、強い強い音が耳を焼き焦がす。

顔を伏せって、頭を押さえ込むようにした。

しかし、身体は動かない。




どのくらい痛みのような何かにのたうっただろうか。


・・・意識も絶え絶えになりかけた瞬間、突如として痛みがやんだ。



それと同時に、ぱっという音が耳からしたかと思うと、
さっき聞こえなかった少女の声が、今聞こえてきた。


俺を案ずる、大きな高い声。


少女を直視すると、やはり狼狽していた。





・・・ひとことだけ、言わせてほしい。




「・・・なえがっ・・・おほったっの・・・」


声がうまく発せなかった。
下手をすると、笑い出してしまいそうだった。





「リア君っ・・・とにかく、安全な場所にいこうっ!!」


彼女の言っている意味が分からなかった。















「・・・ここなら、大丈夫。」


「・・・。」



彼女に抱きかかえられて山を降りること数分。


本当にそこから先には、木が普通に生えていた。
この境目から、丸裸の焼け山と生き生きした森。


その森の大きな太い木の根元で寝転がされた。
・・・べちょっという嫌なが音した。





丙さんがゆっくりと俺に手をかざす。


最初は何ともなかった。



・・・しかし、手をかざしてしばらくした、ある瞬間からだ。


「っ・・・ぅううぁっ・・・!?」



身体全体に、身を裂くような焼くような痛みがギリギリと走り出した。
焼けた鉄の棒を、体中にねじ込まれるような、そんな痛み。



「・・・よかった、神経が回復したんだね・・・。」

どこか遠くで、そんな声が聞こえてきた。





・・・そんな痛みも、やがて引いてきた。


途轍もなく長く感じたが、一瞬のことだったのだろう。

体中がだるいような痛みに変わって、それはすぐに消えた。



「・・・よし、完治したよっ!」



丙さんが軽くガッツポーズをした。


確かに、もうどこも痛くはないし、耳も良く聞こえる。
右腕を見てみると、やっぱりなくなっている。


・・・元通りだ。


違うところがあるとすれば・・・





「あれ・・・立てる・・・。」


立てる。身体がひねれる。ジャンプできる。ジャブが出来る。
ひととおり身体が動くことを確かめると、丙さんはにっこりと笑った。

・・・丙さんのすごさを改めて実感した。





「・・・よかった。リア君はあの時、
 いきなり現れた化け物に殴られて、吹き飛ばされてたんだよ。
 酷い擦過傷で、身体の半分は使い物になってなかったけど・・・
 ・・・間に合って良かった。」

丙さんは苦笑いを浮かべて、そんな事を言う。


あの時痛みを感じず、身体全体がだるかったのも。

身体をうまく動かせなかったのも。

声が出なかったのも。

寝転がされたとき、異常な音がしたのも。



何かに殴られ、地面に擦られながらものすごい速度で吹っ飛んだのだ。
そう説明されると、納得がいく。




・・・よく死ななかったな、俺。


とすると、その化け物が気になる。


・・・何よりも、椛さんとエルシャさんが危ない。

少なかれ、俺にはアドバンテージがある。
一撃必殺ができるという、大きなものが。


「治ったから、命蓮寺へもう戻っていいよー?
 ・・・私は、あの怪物にけりをつけてくるからっ。」


丙さんはそういって、くるりと背を向けた。




・・・させるか。


「深水・・・やるぞ。」
『お主は・・・やれやれじゃの。』


俺は立ち去ろうとする彼女を呼び止めた。

丙さんは、すっと振り返る。




「・・・俺も加勢します。
 俺が・・・あなたを護りますから。」





・・・自分で言うのもなんだけど、寒い。





丙さんは苦笑していた。






つづけ