東方幻想今日紀 百十八話  敵と毒はいつも身近なところに

額に刺さる床は固くて、氷のように冷たかった。

自分の顔が熱いから、そう感じたのかもしれない。


強い痛みが唇からして、鉄の味がした。

知らず知らず、強く唇を噛んでいたのだろう。
身体はほとんど人間のままなのだから、仕方ない。



季節とはそぐわない、八月の冷えた朝のことだった。





俺はどうにかしてしまったらしい。



あろう事か、教え子の襟首を掴んで、
怒鳴りながら、がくがく振り回してしまったらしいのだ。

何か、大きな力に駆られて。



慧音先生はそれを止めてくれた。
もしもあのままの状況なら、俺は道に殺されていたかもわからない。


情けない。

果てには、ここの教室に慧音先生に連れてこられ、
彼女にこんなに心配させてしまった。


彼女は、頬を叩いたりはしなかった。
あからさまに咎める事もしなかった。



どうしたんだ、と。


たったそれだけだったのだが、今の俺には途轍もなく身に染みた。



あまりにもその言葉は優しすぎた。
俺のしていたこととは、まるで対照的だった。




「・・・先生、俺・・・」

「・・・うん。」



しゃくりあげながらやっとの事で絞り出した声。

先生は、焦らせず、続きを促した。




頭によぎった事。


それは、そのときの自分にしては、いい判断だったと思う。




「・・・しばらく、休みをください。」


金属の味と鋭い痛みが、だらだらと口の中に流れ込んでくる。
喋りづらいほどではなかったが、それでも、気分のいいものじゃなかった。







言い終えると慧音先生は、微笑みながらこちらに近寄ってきた。



「・・・!?」




そして、彼女はそのままの表情で
自分の服のリボンを使って俺の唇をそっと拭いた。


リボンは、真水に墨を落とすように、さらに深い赤色に染まった。


「・・・さ、私は授業の続きをしてくるぞ。
 ・・・長い休み時間だが、ゆっくり休んでくれ。」


俺の頭をくしゃっと撫でて、慧音先生はそう残した。



ずっと、心に残っているであろう、その言葉を。




それは、深い優しさだった。



彼女にとっては、俺も大切な生徒なのだ。


戸に手を掛ける彼女の背中を、俺は黙って見つめていた。





「休み時間・・・か・・・。」


気が付くと俺は寺子屋を出るとき、
ゆっくりとその言葉を反芻していた。




・・・そんな淡い時間も束の間だった。




「あーあ、いくら何でも、教室でやることなかったんじゃないかな。
 ・・・もしかして、解雇でもされちゃったのかなー?」


意地の悪い薄ら笑いを浮かべて、寺子屋の入り口で少年は立っていた。


「・・・。」


・・・俺は、少年に一瞥をくれて、すっと横を通り過ぎた。



「ちょっと待てよ!まさか本当に解雇されちゃったの!?
 ボクはこうして無傷なんだぞ!?教え子に手を出しただけだろっ!?」


少年は目の色を変え、慌てて俺の前に回り込んだ。
見るからに面食らっている。



たとえ解雇になったとして、何を驚くことがあるのだろうか。
慧音先生でなかったら、間違いなく解雇だったはずなのだから。



・・・それよりも。





「・・・ごめん。」



今、お前とは話す気になれない。
首を絞めて悪かった。
解雇になど、なっていない。
しばらく、会えなくなるだろうね。
丙さんに、何をした。

そんな続きの言葉を飲み込んで、それだけ言った。




「・・・っ、ねえ、一つ教えてあげるよっ。」


それを聞いた少年は、軽く歯軋りしてからこんな事を持ちかけた。




「・・・?」

思わず軽く首を傾けて、彼と目を合わせてしまった。




少年は、一呼吸置いてから、こんな事を投げかけた。


「・・・ボクさ、お祭りで丙子だかと会ってないんだ。」


「・・・どういう意味だ。」


思わず食い入るように尋ねてしまった。
少しだけ、癪だった。



「そうだなー・・・ボクは、あくまでも協力者って事かなー?」



舌をぺろっと出して、少年はさりげなく言い放った。
それは、聞き捨てならない言葉だった。



「・・・丙さんに何をしたかは・・・わからないと言いたいのか?」



つまり、彼女とお祭りで随伴したのは、自分ではない。
そう言いたいのだろうか・・・。


「もっと言うのなら、ボクは丙子とやらには一度も会ってないよっ。
 ボクの友達が、丙子に会いたいって言ってたから、叶えたのさっ。」
 


・・・真偽はわからない。
彼の目は、いつだって澄んでいるからだ。


ただ、本当だとしたら・・・。



もっと、何かの悪意が丙さんに・・・。






「・・・そっか。ありがとう。」



俺は、それだけ言い残して少年と別れた。





出来るだけ、感情が表情に出ないようにして。






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「ただいまーーっ!」


命蓮寺の扉をバンと開け放して笑顔で転がり込んだ。


・・・多分、この後丙さんと野孤を看病してる人に殺される。


「おかえりリア君ーっ!!」

「・・・えっ・・・」




思わず、目を疑ってしまった。


向こうから、背丈の低い少女が走り寄ってきたのだから。



笑顔で出迎えてくれたのは、赤いラインの入った肘膝開きの白い服の女の子。
くるんとカールした前髪と頭頂部の横髪、二股触角つきの赤い帽子。


・・・見紛うはずもない、丙さんだった。


でも、状況が飲み込めなかった。

彼女は俺が出掛ける朝まで布団で寝ていたはずなのに・・・



「お帰りリア君っ、疲れたでしょっ?
 あれ・・・唇、どうしたの・・・?」




そんな彼女が今、こうして俺の手を鳳仙花のような笑顔で
背伸びして俺の顔を覗き込みながら優しく、そっと握っている。


「・・・ううん、大丈夫だよ、痛くない。」


でも、その手はちょっとだけ冷たかった。



「・・・それよりも丙さん、身体・・・。」


「だいじょーぶだいじょーぶ!ほら、見て見て!」


俺の言葉を遮って、丙さんは構えを取ってシャドーボクシングを始めた。
彼女が腕を突き出すたびにビュッという風切り音が、鮮明に聞こえてくる。



苦笑いしながら、思ったこと。




・・・彼女には、その様子がよく似合っている。


もともと、命蓮寺にはスカート様の服装の人が多い。
違うといえばムラサさんくらいだ。

でも、丙さんの服は違う。

動きやすそうで、肘と膝は開いているけれど、長袖長ズボン。
そんな彼女は、武闘のイメージがすぐに結びつく。


・・・そんな考えを巡らせているのもつかの間。


「あうゎっ・・・?」

「危ないっ!!」



彼女は急に小さく素っ頓狂な声を出して体勢を崩した。

慌てて、彼女の身体を抱きとめた。間に合った。



腕の中の丙さんの身体は、見た目より一回り小さく感じた。





「もー・・・リア君のへんたい・・・
 ・・・このまま何をするつもりなのっ・・・?」





「はいはい・・・それよりもまだ寝ててくださいね?」




少しだけ安堵した。

・・・彼女はいつも通りだった。







俺は丙さんをお姫様抱っこに持ち替えて、広間に運んだ。








俺の腕の中から、すうすうと軽い寝息が聞こえてきた。








つづけ