東方幻想今日紀 百話  自殺なんてさせない

突如、藍色のキャンバスに黒い油絵の具をぶちまけて、
そのキャンバスを引き裂いて、もっと黒い、もっと暗い穴から
出てきた大きな傘を持った女性。


小春を差し出せ。


彼女の言った事を乱暴にまとめると、
そんな事を持ちかけてきたのだ。



・・さっきまで、俺は彼女を本気で殺すつもりだった。

・・いや、「俺は」と言うと語弊がある。



・・俺とは違う、何かだ。
それが、いま柔らかい草の上で力無くへたり込んでいる
彼女を執拗に殺そうとしていたのだ。

・・小春は、身体を起こしてはいたのだが、
気力が追いついていない。


・・あんな殺意を目の前でずっと味わわせたのだから無理も無い。
彼女にとっては初体験だったのだろう。

勿論、あんな事をされたら俺だって気力を失う。



俺とは違う何かが、抵抗の出来ない力で彼女を追い詰めたのだ。


・・でも、俺は違う。



少なくとも、今の俺は違う。







・・俺は、彼女を護らなくてはいけない。
彼女を、目の前の女性に引き渡してはならない。




理由は三つある。





・・一つは、この異変の犯人なのだから、
動機経緯まとめて全て彼女に話してもらう必要がある。

そして、その責任を取ってもらう。


もう一つは、最初の延長なのだが、単純明快。


野狐に土下座してもらう。
そして、慧音先生にも土下座をしてもらう。

こいつの口から謝らせる。



・・そう心に決めていたのだ。



・・・最後の一つは、さっき湧いてきた感情からだ。




最後の一つ、それは・・・





「・・・最初に言っておくわ。
 抵抗するのなら、あなたごとスキマに送り込んで、
 この豊かな幻想郷から追放するわ。」



半ば小さい子をあやすような語勢で、
彼女はぽつぽつと俺に語りかける。


しかし、それは紛れも無く、警告そのものだった。


・・一見、優しく聞こえなくも無い。


・・が、今の俺にとっては底なし沼に突き落とす、
そんな表現がしっくり来る、文字通り、魔法の言葉だった。



俺だけではない。



既に立ち上がって弱々しく身体を縮め、俺の下げている
左腕の裾を握っている小春にも不安の色を植え付けている。



・・でも、俺はその女性から刃を引かなかった。




「・・・彼女に手を出さないで下さい。」





「敬語」とは名ばかりの刺々しい口調で、きっぱりと言った。

・・「敬う」というよりは、殆ど「威嚇」だった。




そんな俺をよそに、女性は口許に手を当てて、
心に響くような声で、深々と脳を揺さぶってきた。



「・・・この子は幻想郷を転覆させようと謀った。
 まだ未熟だから、たいした考えも無くそんな事をした様ね。
 ・・でも、芽は摘む必要があるわ。
 だから、お願い。そこをどいてくれないかしら?」



脳ががくがくと揺さぶられ、全身に杭を打ち込まれ、
氷水に浸されるような、声ともつかぬ直接響いてくる声。


そんな表現がぴったりだった。



・・・多分、彼女を殺すのなら俺がどく必要は無い。

力量も、測りかねないが危険なのは確かだろう。



・・・なにせ、幻想郷全体の事を持ち出してきたのだから。
管理を司る者か、それともそれに近い者と考えるのが自然だろう。





・・・どかないと、やられてしまう。






・・・。






・・お互いの視線がかち合い、無言の状態がしばし続く。

辺りには緊張の糸が張られ、地面の草も呼吸を止めていた。








・・・袖を引っ張られる気配でわかる。

・・小春は怯えつつも、どこか安堵している。
それは、自分自身だからわかるのかもしれない。







・・・俺は軽く横に視線をやって、小春に目配せをした。





猫耳の少女は一瞬目を合わせて、また視線を戻した。
怯えたような、凍りついたような、微笑んだような。


・・・そんな、筆舌に尽くし難い表情を湛えていた。




・・突如として、今度は声として耳に入ってきた言葉。
冷笑と、甘美なトーンで虫が這うように耳を撫でる。




「・・結論は出たかしら?」








・・・俺は飛び切りの笑顔で、こう答えた。










「・・・嫌だ。」









「・・・そう。」


・・・女性は、仄黒い笑みを浮かべた。









・・そして、微かに視線を俺の後ろの方に向けた。


その瞬間、背中に寒気のようなものが吹き抜ける感覚と同時に、
何か、途轍もない黒い塊が過ぎったように感じた。



・・・そして背後から、声がした。




「・・・自分を省みる事にしたのね。
 その勇気だけは本物ね。面白い人間ね、あなたは・・・。」





・・今度は、「母親」を連想させる、穏やかな、優しい声。
・・そして、後ろの寒気は徐々に消えていった。






・・・寒気が消えると同時に、
俺はその場に力無くへたり込んでしまった。



・・・横で同じ表情をしている彼女も、
緩んだ表情をうまく作れずにいた。




・・俺は彼女に視線を合わせた。

彼女は俺に視線を向けて、軽く微笑んだ。
軽く目をそらした。軽く肩を落とした。




・・・言いたいことは、いっぱいある。








俺が彼女を護りたかった最後の理由は・・・









・・・この馬鹿な妹を放っておけなかったからだ。






「・・・バカ小春っ・・・!!!」
「・・・ふぁっ・・?」




・・俺は思い切り彼女を抱き締めた。
涙が絶えず、目元から緩んでは落ちていく。

小春も、同じような表情をして強く抱き締め返した。






・・・あったかくて、肩幅が小さかった。







・・・他人を抱き締めている感覚とは違う。

・・・自分を抱き締めている感覚とも違う。







・・もしも、俺に妹がいたらこんな感じなのだろうか。



・・・だとしたら、不器用な妹だ。
・・・バカな妹だ。
・・・独りよがりな妹だ。



「・・・晩秋・・俺は・・・。」




「・・いい。今は何もしなくていい・・。
 ・・・それよりも・・・・」 



言っている途中で、また大粒の涙が目から零れ、
視界が霞んでは戻った。













「・・・生きててくれてありがとう・・・小春。」










西に傾いた白い優しい太陽は、柔らかい草原と、
打ち解けあった兄妹を優しく包み込んでいた。








東方幻想今日紀 第二章 終