東方幻想今日紀 八十一話  血の夜の幕開け

「・・・うーん、怯えきっちゃっていますね・・。」

俺と正対してる垂れた犬耳の青年は顎に手を当てて
物憂げに俺を見つめた。



どうしてこんなにこの人が怖いんだろう。
優しい顔立ちなのに、優しい声なのに・・・。



全身から刺す様な大量の汗が出てくる。




この人の一言一言が、まるで蛇の舌舐め擦りの様に思えた。



その青年は軽く肘を上げ、困ったような顔をして言った。



「・・・こうなったら、殺すしかありませんね・・。」

「!?」


わかっていた。
この人は最初から俺を殺すつもりだったのだ。


逃げなきゃいけないことも解っていた。
でも、体が金縛りに遭ったかのように動かない。

・・しかも、膝を着いてしまった。



「・・・さて、と。何で斬られたいですか・・?」

「っ・・・!!」


彼の目の奥には嫌な光が点っていた。
獲物を捕らえた鷹か何かの目だった。


くそっ・・・逃げたいのに・・・!!
逃げたいのに恐怖が邪魔して・・・動けない・・・!!


「・・・そこまでです。」



突然背後に現れた人の影。
力強い、よく通る声。


その声の主は、自分の良く知る人だった。



「・・・寅丸さん!?」


そこには、虎柄のクセの掛かった髪の毛の
身長の高い一人の女性がいた。

彼女は鉾では無く、薄く淡く輝く宝塔を持っていた。



「・・もう大丈夫です。下がっていてくださいね?」


ゆっくりとしゃがみ込み、俺に視線を合わせ
諭すように優しい目で語りかける寅丸さん。


ああ・・・良かった・・。
もしかしたら・・・寅丸さんなら
何とかしてくれるかもしれない・・。


俺は深い安堵の溜め息をついた。

同時に、足が動くようになっていた。



「嘘を重ねるのは感心しませんね・・。」

「・・何が・・・ですか?」


青年が溜息を吐きながら横槍を入れた。
寅丸さんは怪訝そうに聞き返す。


「・・・まず一つ。もう大丈夫・・とは
 何を根拠に言ってますか?
 ・・それは、僕を倒してから言う台詞です。」

青年は指をぴんと立てて穏やかに言う。

「・・もう一つは・・・何ですか?」


「・・・ナズーリン、とは鼠の妖怪ですか?」
「・・・何故・・それを・・。」



「何でもリア・・と言う人を探していたそうで・・。
 東の村の外れに居たと言って、そこに全勢力の半分を向かわせました。
 今頃は・・・・おや?」



気が付くと体が勝手に動いていた。
蒼い刀身の切っ先はその青年の首下にあった。

確かに振り抜いたが、彼はいとも容易くかわした。



「今すぐ・・・今すぐ撤退させろっ・・!!」


視界が霞んでいた。
止め処無く頬を熱い雫が伝っていた。
声が震えていた。
刀を持つ手が生暖かくなっていた。



「・・それは出来ませんね。」




ほんの僅かの出来事だった。
奴に背を向け東に足が向き踏み出したのは。

しかし、歩は両袖を掴まれた事で阻まれてしまった。


「離せっ・・・!離せっ・・!!!さもないと斬るぞっ・・・!」
「あなたまで死にに行かないで下さい!行ってどうするつもりですかっ!!」

暗い空に二人の叫び声がこだまし、吸い込まれていく。

「知ったことかっ!!全部斬って助け出せばいいっ!!!」



ボタボタと生温かい物が手と顎から地面に落ちる。






「落ち着いて落ち着いて。その必要は無いよ、リア君?」
「「!?」」



突如斜め上から聞こえてきた、明朗快活な明るい声。

声の主は、無事だった高い塀の上に足を投げ出して頬杖をついていた。
背丈の低い、変わった赤い小さな帽子を斜めに被った少女。

朗らかな表情で下を見下ろしていた。


思わず俺は彼女に問いかけた。
「・・ど・・どうして・・?」


「だって、全部私が倒しちゃったんだもん。」


「「「・・っ!!??」」」


・・・はあ?
何を言ってるんだこの人は・・・?

言っている意味は理解できるのだが、行為として理解できなかった。

横にいた寅丸さんは愚か、青年まで目を見開いていた。


「あと星ちゃん、もうリア君落ち着いたから離してあげて?
 そして、命蓮寺に戻ってナズーリンを一杯叱ってあげてね?」

「え・・?ああ、はい・・。」

丙さんがそう言うと、
思い出したように寅丸さんが俺の両腕を離し、体が自由になった。

寅丸さんはすぐに命蓮寺の方角に飛んでいった。





間を置いて、青年はふっと笑った。

そして、次の瞬間には、彼の姿は消えていた。



すぐに丙さんに目をやると、彼女は後ろから青年に背中を貫かれていた。
塀の上で、月夜に陰る黒い刀身が彼女の平面のような胸の辺りを捉えていた。


「え・・!!?」



「・・ごほっ・・ずるいよ・・・分身だなんて・・。」


少しの間を置き、丙さんは咳き込みながら
その黒刀をゆっくりと引き抜いた。
彼女の口からはかなりの量の血が出ていた。

顔は笑顔だったが、目はもう笑っていなかった。


その時には既に青年は元の位置に戻っていた。


「ねえ・・・これ何・・?」


丙さんが袖で口を拭き拭き尋ねる。
青年はトーンを落として静かに言い放つ。


「龍族に特によく効く麻痺毒です。」
「そっか・・龍仙薬なんてよく刀に混ぜ込んだね・・。
 もう右目が開かなくなってきちゃったよ・・・。」

丙さんは右目を閉じて呟いた。


彼女は立ち上がり、満面の笑顔になって言い放った。

「・・・でも、これでやっと対等だねっ!」
「・・・やっと?」

怪訝そうに青年は訊く。




「・・そうじゃな。二対一で対等とは、笑わせるがな。」
「・・まあ、仕方無いよね。私は満身創痍なんだもんっ♪」



永い夜は、いよいよ本番になった。




つづけ