東方幻想今日紀 六十四話  小さな正義感

「先生・・・どうしたの?・・きゃっ、何これ!?」

いたいけな腕にあの字体で刻まれた刻印。

・・・間違いない。
あの刻印そのものだ。


黒々とした刻印、そのものだ。

彼女の名前は狐狸精 野狐(こりせい やこ)という。
純血の妖狐その者である。

彼女には母親がいない。
彼女が小さい頃に既に亡くなっているという。
父親が彼女の面倒を見ていた。

だから、刻印が何らかの影響があるとしたら・・
彼女の父親に影響が出るのだろう。間違い無い。

・・そして、もう一人。

恐らく、この寺子屋の生徒か、慧音先生か・・俺か・・。

そのいずれかだろう。

「先生・・これ・・・何なの・・?」
「・・・。」

その幼気な眼差しが痛々しかった。
言うか、言わざるべきか。

彼女に父親が死ぬかもしれないなんて言うべきだろうか。
そんなのわからない。その可能性もある、ってだけ。

徒に彼女を言い知れぬ恐怖に陥れていいのだろうか。


「・・・わからない。」


言えるはずが無かった。

言ったらと考えると怖かったし、嘘もついていない。


一番無難で・・・一番自分を傷付けない方法を取ってしまった。

教師として・・・一番あるまじき事かもしれない。
教え子と向き合えなかった。


その選択がどんなに後悔するかも知らずに。


「そ・・・っか。そうだよね。」

彼女は何かを察したように、
いつもの笑顔でプリントをやり始めた。


・・ああ、これで良かったのだろうか。




自己嫌悪にも似た感情を持ってうなだれていると
後ろから軽く肩を叩かれた。慧音先生だった。


「・・ちょっと来てくれないか。」
「・・はい。」



教室の外、採点をする部屋に呼び込まれた。
一体何を言われるのだろうか。

「一体どうしたんだ?様子がおかしかったぞ?」
「・・・実は・・」


刻印に関することをすべて彼女に打ち明けた。

刻印は数字を減らして扇状に伝染すること、
刻印がゼロになると何が起こるのかがわからないこと、
そして彼女の腕には「一」の刻印があること、
彼女の父親の身に近い内何かがあるかも知れないことも話した。


すべて打ち明けると慧音先生は軽く苦笑した。

「そうか。それならそれでいいんだ。
 やれるだけのことはやった。あなたが悩む事ではない。」

そう言いながら彼女は俺の頭を軽く撫でた。

「・・・何で・・ですか?俺は逃げたんですよ・・?
 生徒と・・向き合えなかったんですよ?」

「何を言ってるんだ。その時点で生徒と向き合っている。
 生徒の事を真剣に考えている。大丈夫だ。
 ・・それに、野狐にそれを伝えてどうなる?
 何も無かったときに杞憂になるだけだろう?
 様子を見るのが一番良いんだ。それにたとえ・・・
 ・・たとえ彼女の父親が死ぬ事になっても、
 彼女に出来ることはあるだろうか?リアに出来る事は?」

「・・!・・・・ありません。」

「じゃあ、今は静観しよう。ありがとう、リア。」


確かに彼女の言うことはもっともだ。
・・でも、これに答えは無いように思える。

もしも、彼女の父親が死ぬとしたら・・
彼女は言えなかった事を父親に何か言い残せるかもしれない。

でも、余計に落ち込んでしまうかもしれない。

杞憂だったら余計な心配で体を壊すかもしれない。
それはその人の性格次第だろう。

慧音先生のことだ、それをわかってて言っているに違いない。

少しだけ、気分が晴れた。
ありがとう慧音先生。


ところでまだ彼女は尚も俺の頭を撫で続ける。
正直静電気の実験を思い出すくらい激しく撫で続けている。
髪型が気になってくるなあ。というか痛い。

「先生、痛い。毛が抜けます。」
「生え変わったら面白いんじゃないか?」
「動物じゃないんだから・・。」
「あはは、そうだな。すまんすまん。」

彼女はぱっと手を離した。
髪の毛を触ってみると案の定ぐしゃぐしゃだった。

先生・・・。





そんな歓談も、今日までとなった。




珍しく野狐が遅刻してきた。

彼女の目に光は点っていなかった。
ただ虚ろな目をしていた。
目が充血していた。
一晩中泣いていたのかもしれない。

授業もずっと見学していた。
プリントもやらなかった。
他の生徒が話しかけても反応が無かった。


真面目でひたむきで、朗らかな彼女がだ。




その様子から、彼女に何が起こったかを察するのは
あまりにも簡単だった。


彼女が気の毒で、詳細なんか訊ける訳も無かった。


そして、何も出来なかった。
何も出来なかったのだ。



授業が終わってから、彼女が俺を呼び止めた。

夕暮れの教室で、彼女の話を聞くことになった。


やはり彼女の目は虚ろで焦点が合っていなかった。
この世の終わりのような目をしていた。

彼女が口を開いた。

その瞬間、彼女の大きな目から
蛇口を捻るように涙が溢れ出した。


「お父さんがね・・・・帰ってきたの。
 お帰りって抱きしめようとしたらね・・・いなかったの。」


胸が強く強く締め付けられるのを感じた。



そのたった一言で、彼女の父親がただ死んだのではなく、
突然蒸発したのだと悟った。

・・・そう、消えたのだ。失踪とも違う。


消失したのだ。


「・・腕を見たらね・・あの変な文字は無かったよ。」
「・・・。」


俺は彼女をこれ以上見る事が出来なかった。


「先生、ありがとう。」
「違う!!俺は何もしていない!!」


彼女の無垢なお礼は、今は俺の心に刺さる鎹だった。

「だって・・先生が黙ってくれたから・・・
 ・・私はお父さんとあの夜、手を繋いで寝れたんだよ・・。」

「ごめんっ・・・・ごめんね・・・!!!」


歪み、ぼやけて靄がかかった視界からも、
彼女の溢れる涙に塗れた痛いほどの笑顔が見て取れた。


彼女は少し前から父親と喧嘩していたのだ。


彼女は全部悟っていたのだ。
俺の行動、そして自分の勘でこうなる事をわかっていたのだ。


俺は耐え切れない気持ちで寺子屋を後にした。
夕闇はいつしか本当の闇に解け込んでいた。

今日は新月だった。
明るく耀く月は飲み込まれたのだ。




暗くなった世界は、夜でもあり、重苦しい闇でもあった。


彼女はその後慧音先生に育てられることになった。

また、俺は後で生徒の一人、一番見た目が年上の人間、
その日に欠席だった睦月が行方不明になっていることを聞いた。


彼が見つかる事は永遠に無いだろう。



そして野狐は約一年もの間、言葉と心を閉ざすことになった。




自分と、この事件の元凶が憎かった。
握った拳からは血が出ていた。



絶対に、俺が何とかしてやる。


つづけ